4 お見合いと再会(1)

 アルトが昼食の片付けを終え、次はダイニングの掃除をしようか、それとも翻訳の仕事をしようか悩み、ふとソラを見やる。

 毛布の敷かれた寝床で身体を伸ばしてすやすや寝てるのを見ていると、一緒になって眠りたくなってしまう。


 ちょっとだけ休もうかなとソファに腰かけたところで玄関がノックされる。

 はーいと返事をして扉を開けると、意外な来訪者に目を剥き固まった。


 紺色の地味なワンピース、ひっつめ頭に切れ長の目。

 背の高いその女性は、アルトを見て恭しく頭を下げた。


「ご無沙汰しております。アルトローザお嬢様」

「グレイ……ス?」


 アルトの従者だったグレイスは、突然の訪問に戸惑うアルトの前で、以前と変わらず感情のない声で淡々と言った。


「本日は、お嬢様を連れ戻しに参りました」




 ダイニングの隅に身を寄せ、ビクビクした様子で見てくるソラを一瞥して、グレイスが椅子に座る。


 アルトが紅茶のカップを彼女の前に置く。

 本来ならアルトにさせることではないが、もうお嬢様と従者の関係ではないと思っているのだろう。


 アルトが向かいの椅子にかけると、前置きもなく切り出した。


「レイトス様とはどのようなご状況でしょうか?」


 アルトの胸がドキンと跳ねる。

 汗をかきながら口を開くと、


「セ……セルシオは、すっごく優しくていい人でっ。ぼくが困ってるときに助けてくれて、家にも置いてくれてっ。仕事するのも所長さんにお願いしてくれたし、それに」


 早口で熱弁するアルトをうっとおしそうな目で見て、手で制する。


「分かりました。もう結構です」


 アルトがしょぼんと肩を落とす。

 口に出すのは未だ恥ずかしいが、素直に恋人になったと言った方がよかっただろうかと落ち込んだ。


「率直に伺います。レイトス様とご結婚の見込みはありますか?」


 えっ、とアルトが目を見開いて驚く。


 しかし、続く言葉はさらに驚愕するものだった。


「近日中に」

「近日中っ? 何でっ」


 前のめりになるアルトに、グレイスが目を細める。


「アスタームス様は、あなた様が早くご結婚されることを望まれています」


 厳しい父親を思い出し、アルトがぎゅっと拳を握る。


 家から出たので、それでもう何も言われないだろうと慢心していた。


 あの父親はそれほどまでに、


「早くぼくとの縁を切りたいんだね……」


 金持ちの世界から離れた場所に嫁に出して、家族の縁を切る。

 見合いに失敗して恥をかかせたのは自分だが、父親が娘より世間体を気にしたことにアルトは傷ついていた。


 うつむいて辛そうな表情をするアルトを気にも留めず、グレイスはつんと澄まして、


「レイトス様とご結婚されないのであれば、すぐに次のお相手を探すともおっしゃってます」


 そんな、とアルトが青い顔で大声を上げる。

 そう言うと予測していたのだろう、グレイスはピクリともせず、


「では、レイトス様とご結婚されると」


 アルトが唇を噛んで黙り込む。


「ぼくは……」


 チェルリスの花々の中、想いを告げてくれたセルシオを思い出す。

 髪を乾かしてもらったり、手を繋いだり。

 恋人として一歩ずつ歩み始めたばかりなのに。


 それに、と目を閉じ、青白いチューブが並ぶ地下室を思い浮かべる。


 きっと、まだ。


 黙ってしまったアルトに、グレイスが仕方なさそうにため息をつく。


「今すぐ入籍していただきたいと申し上げてるのではありません。しかし、あなた様はお心を決めねばなりません。明後日までに」


 音を立ててアルトが椅子から立ち上がる。

 驚くことばかりで声も出ず、蒼白になるしかできない。


「私は明後日までこちらに滞在します。その間にご結婚のご意志を示されない場合は、お屋敷に戻るよう仰せつかっております。もちろんそのときはお嬢様と共に、でございます」


 アルトはショックでへなへなと椅子にへたり込む。


 グレイスは眉一つ動かさずに立ち上がる。


「私はこの二つ上の階の宿に宿泊しております。ご用がありましたら何なりと」


 事務的にそう説明すると、手をつけていない紅茶を残して静かに立ち去っていった。




 セルシオが晩ご飯を食べていると、風呂を出たアルトがそそくさと寝室へ行こうとするので声をかける。


「アルト?」


 アルトがぎくりとして振り返るが、その笑顔も動きもぎこちない。


「あっ、えと、論文の翻訳するからっ」

「ここでやればいいだろう」


 一緒に見るぞと言うが、一人で大丈夫っ、と手を振る。


「あと髪も」

「自分で乾かすからっ。大丈夫だよっ」


 慌てた様子で扉を閉めた。


 セルシオはただ首を傾げて食事を続けた。




 翌朝はセルシオの朝食だけがテーブルにきちんと用意されていて、セルシオが眉をひそめる。


 アルトの寝室をノックするが、物音一つしない。


「アルト。風邪でも引いたか?」


 しかし返事はない。

 寝てるのか、と諦めダイニングに戻る。


 アルトは立ち去る足音を布団の中で聞きながら、どうしよう、と青い顔でドキドキしていた。




 夜帰宅すると、家の中が暗い。


 ダイニングにはソラだけでアルトの姿はなく、心配になってアルトの寝室に声をかける。


「アルト。どうしたんだ一体」


 機嫌を損ねるようなことでもしただろうかと振り返るが、思い当たることはない。


 様子がおかしかったのは昨日の夜からだ。

 だったら昼に何か、と思っていると扉が開く。


 寝巻きに薄手のカーディガンを羽織ったアルトがうつむいて出てきて、その顔色の悪さにセルシオが驚く。


 アルトはセルシオを見上げると、力なく微笑んだ。


「ごめんセルシオ。ぼく……」


 何を言おうとしているのか分からないが、こんなに落ち込んだアルトは初めて見た。


 嫌な予感がして胸がズキンと痛む。


 待てと止めようとしたところでふらりとアルトの身体が揺れ、セルシオの肩に頭をつける。


「本当に風邪引いちゃった……」


 えっ、とセルシオが声を上げた。

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