2 薄紅色の花々の中で(2)

 列車に乗って三つ目の、屋根もない小さな駅に降り立ち、薄紅色の影がちらちら見える方向へ森の中をしばらく歩く。


 通り雨で地面が濡れていて、水溜りに小さな丸い花びらが浮いている。

 気をつけろ、と隣を歩くアルトに声をかける。


 アルトは朝からずっと即興のお花見の歌を口ずさんで、にこにこしている。


「お屋敷にいた頃はね、チェルリスの木を森から庭に持ってきて植えて、満開になったらテーブルで囲んで、みんなでお茶飲みながらお花見したんだよ」


 そんな優雅な花見とはだいぶ違うけれども、楽しみだなーとほくそ笑むので、セルシオも微笑んだ。


 開けた場所に着くと、アルトが声を上げて驚いた。


 その一帯だけが、緑の木々の中で薄紅色一色になっている。

 満開の花はピンク、地面も花びらが落ちてピンク色に染まっている。

 晴れ渡った青空が水溜りに映り、綺麗なコントラストを作っていた。


「やっぱり、雨で少し花が落ちてるな」


 そうつぶやくが、アルトには十分だったようだ。


「すごいっ! すごいよセルシオっ。ぼくこんなにたくさんのチェルリスの花見たことないっ」


 腕をぶんぶん振って頰を紅潮させる。

 セルシオが照れ笑いしそうになって顔を背け、少し歩くかと言って歩き出す。


 周りには同じように花を見にやって来た人たちがちらほら、うっとりと美しい花を愛でている。

 カップルに友達同士のグループ、親子連れに一人で写真を撮る人や、カンバスを持参して絵を描く人もいる。


 隣の駅にもっとチェルリスがたくさんある大きな広場があって、大抵の花見客はそちらへ行って宴会をするので、こちらは人も少なくのんびりとした空気が流れている。


 暖かい気候の中、みんな幸せそうな顔をしている。


 アルトはセルシオの隣にとどまっておらず、気づけば木の下で花を見上げて目を潤ませていた。

 近づき「綺麗だな」と言うと、笑顔でうなずいた。


 葉の茂った木の下に敷物を敷いて座る。

 アルトがランチバッグを開け、クロワッサンを取り出す。パンには切り込みが入っていて、ハムやチーズ、野菜をてきぱき挟んでセルシオに手渡す。

 他にもサラダに二種類のおかずに水筒にはスープまであって、本当に料理好きだなと感心する。


「料理は誰かに習ったのか?」

「先生にね。でもホームパーティで振舞うような豪華な料理ばっかり。ぼくがいつも作るのは、お屋敷の厨房に一つ年下の子がいてね。その子に教えてもらったんだ」


 アルトは屋敷であまり食事を出してもらえなかったので、厨房に忍び込んで自分で料理をするようになった。

 本人から聞いたわけではないが、話の雰囲気からそうだろうとセルシオは想像していた。


「味見してって言われて練習に付き合ったり、一緒に作ったり。たぶんみんなぼくが厨房にいるって気づいてたけど、料理長が口止めしてくれてたみたい」


 そう言って眉尻を下げて笑う。


 それはアルトにとって友人と料理をした楽しい記憶だろうか、それとも食事を出してもらえなかった悲しい記憶だろうか。


 以前見た、寂しそうな顔にならなければいいなとじっと見つめた後、視線を落とす。


 辛い思いをしたことのない人などいないと分かっていても、ナナリーを喪った後は世界で自分だけが不幸だと思い込み、他人のことを考える余裕など微塵もなかった。


 ナナリーを喪って四年。翻って、アルトと出会って八ヶ月。


 ーーー傷を癒すのは時間だけじゃない。


 かけられたときは心がチリチリ焼けるようだった所長の言葉も、今は素直に受け止められる。


 黙って思いを馳せていると手が止まっていたようで、アルトが不安そうに覗き込む。


「セルシオ? 美味しくなかった?」


 はっと我に返り、頭を振ってクロワッサンにかぶりつく。


「いや、美味いな」


 えっと驚き、肩を震わせて泣き真似を始める。


「やっと……やっと息子が美味しいって言ってくれるように……。お父さん、今の聞きましたーっ?」


 あさっての方を向いて言うので、またその小芝居かとセルシオが呆れ、アルトがてへっと笑った。




 腹が満たされ、また並んで歩き出す。


 仲良くチェルリスを眺めるカップルを見かけ、デートかと思うと同時にこれもデートかと首をひねる。


 すると胸の奥がむず痒くなった。

 固まっていた心が弱く動くのを感じる。


 見上げれば満開の花。ピークは過ぎ、すでに散り始めている。

 風が吹いて花びらが飛ばされ、視界が空色と薄紅色に染まる。

 暖かいな、と目を瞑る。

 空気が柔らかい。風が木々を揺らす葉擦れの音も心地いい。


 アルトがいなければ、花を見に来ることも、咲いて散ったことにすら気づかず過ごしていただろう。


 笑うだろうかと考えること。

 喜ぶといいなと思うこと。


 そうだなと一人ごちて、心の中で苦笑した。


 目を開けると、視線の先で花に見惚れるアルトが立っていた。

 セルシオが見ているのに気づき、風になびく髪を押さえながらにこっと笑うので、セルシオの胸が跳ねる。


 薄紅色の花々の中、アルトがそばにいることが幸せで。

 それを彼女に伝えたいと思った。


 歩み寄り、アルトを見つめて微笑む。


 そしてたった一言、


「アルト。好きだ」


 短い言葉でそう告げた。


 綺麗だと言うのと同じくらい自然に口にできたのに、自分の耳に届いた瞬間、緊張で早鐘のような鼓動しか聞こえなくなった。


 アルトはセルシオを見上げたまま、目を点にして固まっている。


 聞こえただろうかと不安になるくらいの間を置いて、


「ーーーへっ?」


 目を丸くしてしゃっくりのような声を出した。


 そして突然、


「ええええっ? セルシオっ?」


 大声を上げて急激に顔をぼっと赤くした。


 はわああと困惑した声を上げ、セルシオの顔を見ていられなくなってバッとしゃがみこむ。


 その反応にセルシオがほっとして苦笑する。


 真っ赤になった頰を恥ずかしそうに隠すアルトの隣にしゃがみこみ、そっと手を掴む。


 アルトは戸惑い目を合わせられないでいたが、そろりそろりとセルシオを見ると、


「ありがと、セルシオ」


 ふわりと柔らかく微笑んだ。


 幸せな思いが伝わった。

 止まっていた胸が音を立てて動き出した。




 帰りの列車は人がまばらで、二人は向かい合わせの席に座った。


 窓の外を見ると、起伏の緩やかな草原の上で低い雲が雨を降らせている。しかしその周りは晴れて明るい。この季節はこんな天気が多い。


 ふと車内に目を戻すと、アルトも心配そうに空を眺めている。

 セルシオが見ているのに気づき、また赤くなって緊張する。


「花、綺麗だったね」


 ああ、と答えた後は無言で、やがて雨が列車の窓を叩く。


 ふとセルシオが、


「写真、撮ればよかったな」


 日頃撮る習慣がないのでつい忘れてしまう。

 アルトも気づき、「また来ようよっ」と照れくさそうに笑った。


 チェルリスの花が咲くのは一年に一度。


 次に来たときは、今日のことを思い出すのだろうか。

 来年も、その先も。


 そんなことを思って、「そうだな」とうなずいた。

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