5 発現(2)
「そうかーーー見られてしまったか」
アルトの誓約書を所長に提出して、セルシオが頭を下げる。
「申し訳ありません。監督不行き届きでした」
所長は悩みながら緑青色のヒゲを撫で、革製の椅子にもたれかかる。
「まぁいいさ。彼女はいずれ君と夫婦になるのだろう」
いきなり夫婦と言われ、セルシオがい、いえと戸惑う。
所長は微笑んで、
「レナードソンくんから聞いたよ。もう一緒に住んでるそうじゃないか」
おしゃべりなやつめ、とこっそり歯噛みするが、見合いの返事に窮したせいで報告に来なかったのは自分だと反省する。
「気に入ったかね。君は強引な女性に弱いからなぁ」
温かく見守るような視線を直視できず、セルシオが暗い表情でつぶやく。
「……所長のご期待には沿えません」
それがセルシオの正直な気持ちだ。
これ以上アルトに巻き込まれる気はない。
所長は椅子から立ち上がり、近寄ってセルシオの肩をポンと叩く。
「まぁそう性急にならなくていい。君の一生に関わることなのだから、ゆっくり考えるべきだ。ただ」
そこで言葉を切って、セルシオが不安そうに顔を上げる。
所長はじっとセルシオの目を見つめる。
心まで見透かされそうで目を背けたくなる。
ふっと目を細めて、
「傷を癒すのは時間だけじゃない、とだけ言わせて欲しい」
そう穏やかに微笑む。
セルシオはゆっくりと目線を落とす。
握りしめた拳が小刻みに震えている。
怯えるようなセルシオに所長が遠い目になり、三年前の彼の表情を思い出す。
真剣な眼差しで訴えてきたあのときを。
あれから彼は前に進むことをやめてしまった。
今もこうして、過去に触れられることに臆病になっている。
所長はセルシオから離れ、椅子に座り直す。
机の上で両手を組んで前のめりになると、
「そうだ。話してはどうかな? 彼女に」
それは、とセルシオが弾かれたように顔を上げる。
しかし所長はヒゲを触りながら、うん、それがいい、と嬉しそうに微笑んでいる。
「どう説明するかは、君に任せよう」
そうにっこり笑った。
セルシオはうつむき、弱々しい声ではい、とだけ答えた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして所長はアルトに説明しろなどと、とぐるぐる悩みながら気づけば家に着いていて、ため息をつきつつセルシオが玄関を開ける。
頭上でチリリンとドアベルが鳴るが、「おかえりっ」が聞こえないので肩透かしを食らう。
ダイニングに入ると晩ご飯の用意がされていて、さっきまでここにアルトがいた様子なのに姿がない。
風呂やトイレにも灯りはついていない。
もう寝たのかとアルトの部屋をノックしてみるが、反応はない。
もしや今日のことで傷つき出て行ったのではと冷や汗をかいていると、家の奥からくしゃみが聞こえた。
セルシオの寝室の向かいにあるベランダの扉を押し開けると、踏み台代わりにしている小さな椅子にアルトが座っていた。
セルシオが内心ほっとする。
「何してるんだ、そんなところで」
アルトが寒そうに鼻をすすりながらおかえりと言う。
秋の始めとはいえ夜は冷えるようになってきたのに、アルトは昼間と同じ、ブラウスに膝下丈のスカートだけだ。
「あー……えへっ? ちょっと頭冷やそっかなと思って」
気まずそうに笑うので心苦しくなる。
ため息をついて、
「寒いだろう。早く中に入れ」
「あっ、でもここから見ると星がすごく綺麗なんだよっ。セルシオも……」
夜空を指差して言って、またクシュッとくしゃみをする。
あーもう、とセルシオがもどかしそうな声を上げ、寝室に行って薄手の毛布を取って戻ってくる。
バサッと広げてアルトに頭から被せて、アルトが床につかないよう手繰り寄せる。
ほんの少しするにおいはセルシオのものだろう。
そう気づくと何だか恥ずかしくなって、赤くなった顔を毛布で隠した。
「今日は……すまなかった」
毛布をずらして見やると、セルシオは壁にもたれて腕を組み、無表情で夜空を見上げていた。
目線を落として、
「いきなり怒ったりして。お前はたまたま見てしまっただけなのに」
アルトが首を振る。
見たもの以上のことは何も教えられなかったが、故意ではないとはいえ研究所の厳秘事項を見てしまったのだから、セルシオの対応は当然だ。
だから彼が謝る必要はないのだが、謝らないでいるのは心苦しいのだろう。
「ちゃんと誰にも言わないよ、ぼく」
うん、とセルシオがうなずく。
しばらくの間、どちらも無言で夜空と街の灯りを眺めていた。
ぽつりとアルトが、
「セルシオ、あの部屋の人ーーー」
とつぶやくと、セルシオがピクッと反応した。
アルトはそれ以上言わず、また沈黙が流れる。
やがてセルシオが壁から背を離し、
「いい加減風邪引くぞ。すぐ風呂に入れ」
家の中へ入ろうとする背中をアルトが呼び止める。
「ごめんね、いっぱい迷惑かけて。ぼくーーー早く家探して出て行くね」
セルシオは少し固まっていたが、何も言わずにベランダを出て行く。
それを見送って、アルトは両手に温かい息をはぁっとかけ、また夜空を見上げた。
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