2 変化(3)

 アルトが目を点にする。

 その顔を無表情で見つめる。


 しばらくの間、どちらも身じろぎ一つしなかった。


 下の飲食店街からわいわい騒ぐ声が遠く聞こえる。


「ーーーっ! えっ? ええええええっ!」


 やっとアルトが手の甲を口元に当て、真っ赤な顔で叫んだ。

 セルシオがうるさい、と噛みつくように言う。


 まあそういう反応になるだろうなと思いながら、どこかほっとする。


「えっ、泊まっ、と待って、ぼぼぼぼくそんなっ」

「勘違いするな、何もしない。こんな時間から宿を探すのは大変だし、男と一緒でもうろうろ出歩くのは危ないだろう。ダイニングのソファでよければ、だが」


 自分で仕掛けたくせに早口でフォローしてしまい、セルシオが不服そうになる。


 しかしそんなことには微塵も気づかず、


「本当っ? いいのっ?」


 と感謝の眼差しを向けてくる。


 ああ、やっぱり眩しいな、と眉を寄せ目を細める。

 すぐに他人を受け入れられるところも、開ける心も。


 それは羨望なのだが、そう呼べる余裕が今のセルシオにはなかった。




 家に入り、一通り間取りを説明する。


 湯浴みをし髪をアップにして出てきたアルトを見たときは、やっぱり意地悪な心など出すもんじゃないなと反省した。

 まだパジャマがお子様っぽい上下コーラル色のブークレー素材のものだったので救われたが。


 髪を乾かす魔道具を手渡すと、アルトが受け取ってじっと固まる。


「どうやって使うの?」


 セルシオがああそうか、とうなだれる。

 お嬢様は自分で髪を乾かすなんてしないのだろう。


 かといって男のセルシオが髪を触るのも憚られるので、使い方を説明してやる。


 魔道具に魔力を流し込む。出てきた温風を髪に当てて乾かす。以上。


 長い髪だから時間かかるだろうなと思いながら風呂を出ると、まだ乾かしていてびっくりした。




 ソファに座ったアルトに枕代わりのクッションと毛布を渡す。

 足は伸ばせないし固いし、お嬢様でなくとも相当寝づらいと思うのだが、アルトはクッションを抱きかかえてなぜか嬉しそうに笑っている。


「何だ」

「えー? 心配されて優しくされるのって嬉しいなって」


 うふふー、とほくそ笑む。

 セルシオがわずかに目を見開いた。


 おやすみ! とアルトが元気良く言うのを背に受けて寝室に入り、仕事を片付けようと書類を手に取る。


 心配……?

 従者に置いていかれたことといい、一体彼女はこれまでどういう扱いを受けてたのだろう。


 そういえば、とアルトが家の前で寝ていて目を覚ましたときのことを思い出す。


『すぐに支度するから叱らないで』


 何不自由なく育てられ可愛がられてきたお嬢様かと思ったが、もしかしたら不当な扱いをされていたのだろうか。


 なぜそんなーーー。


 そこではっと我に返る。

 今日は頭に入らないなと思い、仕方なくベッドに潜り込んだ。




 ドンドンドン、ではなく今朝はトントントン、と小気味良い音が聞こえてきてダイニングに向かう。


 アルトがこちらに背を向けてキッチンに立ち、朝食の用意をしている。


 いわゆる朝起きたら女性がキッチンにという男の理想的なアレだが、今はそんな状況ではもちろんない。


 入り口でぼんやり立ちすくんでいるセルシオに気づき、アルトが振り返っておはようっ、と笑いかける。


「……何を」

「何って朝ご飯作ってるの。この家フライパンもトングもないんだね、びっくりしちゃった。保冷庫も空っぽだったから、食材は買ってきたよ」


 わざわざ朝早くから開いてる店を探して買ってきたのだという。


 一宿の恩義だろう、懸命に尽くしてくれているところ悪いが、


「朝は食べない……」

「ダメだよっ、ちゃんと食べないと。朝ご飯は一日の元気の源なんだから」


 おたまを振って力説する。

 男の理想でなく母親だったか、と思いながらしぶしぶ席に着いた。


 メニューはライ麦パンに目玉焼き、ベーコンにコーンスープ、デザートにカットしたフルーツまでついていて、定番ながらも完璧な朝食だった。


 誇らしげに輝くそれらを見つめてセルシオが、


「料理……できるんだな」


 てっきりお抱えの料理人がいて、フライパンも触ったことのないようなお嬢様だと思っていた。


 アルトが照れてえへっと笑う。


「料理するの好きなんだ。よく厨房に勝手に入って勝手に作ってたよ」


 どれだけ自由なお嬢様だと思ったが、昨日の様子を思えば致し方ない状況だったのかもしれない。

 例えば、食事も提供されないような。


 そういったことも訊きたかったが、セルシオはアルトとの今後の距離感を測りかねていた。

 興味がある、と踏み入って訊いていいものか、興味はないと突き放すべきか。


 悩みながら口にした朝食は、大層美味しかった。




「えー、それってつまり、押しかけ女房」


 違う、とセルシオが歯噛みして否定する。


 茶化すレナードソンを無視して乳鉢に魔法石を小さく割ったかけらを二、三個入れ、ゴリゴリとすり潰す。


「サボってないで仕事に戻れ。お前の研究室はここじゃないと何度も言ってるだろう」


 しかしレナードソンはいやいやと首を振る。


「この二日間でどーしちゃったのセルシオさん。あれだけ嫌がってた見合いなのに、もう相手と同居だなんて。坂を転がり落ちるくらいの急展開じゃないですか」


 大仰に腕を振って驚く。


 近くにいたスフィアが話を聞きつけて、何なに? と興味津々で寄ってきた。

 レナードソンがセルシオを指差しまた押しかけ女房、と言うと、スフィアは目を丸くして両手で口を覆い息を呑む。


 苛立ったセルシオが魔法石を乳棒で強く叩いて砕くと、火花がパチっと飛んだ。


「だから違う」


「室長のお見合い相手、大企業のお嬢様って聞きましたけど。研究職って自主残業で帰りは遅いし、休日も資料集めや調べ物で一日終わったりしがちですよね。相手の理解や支えがないと上手くいかないと思うんですが、お嬢様大丈夫なんですか?」


 お嬢様なんて、考え方が現実的じゃなくて家事も何もできないだろうと暗に示唆しているのだろう。


 セルシオは細かくした粉状の魔法石をふるいにかけながらぼんやり思い返す。


 アルトは料理はできるし洗い物まできちんと率先してやる。自分で買い物にも行くし、寝るところがソファでも文句を言わない。

 ちょっと人を信用しすぎる節はあるがそれは性格であって、案外問題ないぞと口を開きかけて、いやいや違うと首を振る。


 じわりじわりと外堀を埋められつつあるが、何度も言うがセルシオにその気はない。


 不服そうな顔で、シャーレを常温庫に入れて扉を閉める。

 振り返ると、レナードソンが肩を組んでくる。


「まーちょーどいい機会なんじゃないの? そろそろ次に目を向けろっていう思し召しなんだよ、きっと」


 セルシオは思い切り眉をひそめ、レナードソンの腕を払い落とす。

 おおっと、とレナードソンがバランスを崩してよろめいた。


 セルシオは短く「地下に行く」と言うと、つかつかと研究室を出て行った。


 レナードソンは両手を頭の後ろで組み、しょうがなさそうに鼻から息を吐く。


「あーあ、ありゃー難しいなー」


 その後ろでスフィアはうつむき暗い顔をする。

 レナードソンには聞こえない声で、


「同じ研究者だったら……良かったのにね」

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