2 変化(2)

 アルトにシャツの裾を掴まれつんのめり、驚いて振り返る。


「何す……っ。何だ、もう買い物は終わりだろう」


 後はアルトを宿まで送り届ければ終わり。

 まだ何かあるのかと思っていると、


「ぼく、買い食いがしたい」


 お嬢様だから買い食いもしたことがないのだろう。

 先ほど覗いていた店先に並ぶ串焼きや煮込み料理を思い浮かべ、よだれが垂れそうな顔をしている。


 そういえばちょうど昼の時間だ。

 セルシオも空腹を感じて、仕方なく食べ物屋が集まるエリアに向かった。




 マナーとして一応金を出すべきかと思ったが、デートではないのだしアルトも何も言わず自分で支払ったのでいいことにしておく。


 ただ端の店から順番に一つずつ買っていこうとするので、それはさすがに「持てないぞ。というかどれだけ食う気だ」と止めた。


 エリアの一角にある簡素なテーブルセットに向かい合わせで座る。


 タレがかかってこんがり焼けた豚肉の串焼きを美味そうに頬張る姿を見ていると、昨日の四分の一口はやっぱり時間稼ぎだったんだなと思う。


 セルシオは手についたパンくずをはたき落とし、さて、と座り直す。


「訊きたいことがある」

「ふぉうふぉ?」


 口いっぱいに肉を頬張っているので不明瞭だが、どうぞと言っているようなので続ける。


「まず一つ目。昨日の朝、何でうちの前で寝ていた?」

「だからセルシオの家を探してて迷子になって」


 それは聞いた、とアルトの前に平手を突き出す。

 アルトが空中に視線を漂わせて悩む。


「一人で宿を抜け出したのか?」

「そうだよ。だってぼく、あのおばさん嫌いなんだもん」


 あのおばさんとはひっつめ頭の従者のことだろう。

 まあそれは見ていて気づいていたが、はっきり言ったなとセルシオが呆れる。


「夕方に宿を出たのに、迷って迷ってやっとたどり着いた頃には夜中近くになってて。ノックしても出てくれなくて、帰り道も分からないしきっと二度と来れないだろうし、何よりキミに会っておきたかったんだ。だってお見合いの席では喋らせてもらえないから」


 そこまで聞いてやっと腑に落ちた。

 この街の造りが特殊なせいで突飛な行動に思えたが、アルトはただ見合い相手の偵察がしたかっただけなのだ。


 じゃあ、と二つ目の疑問を切り出す。


「何で私と見合いを? カルティア家の娘なら、黙っていてもあちこちから声がかかるだろう」


 単刀直入で失礼な物言いなのは分かっている。

 けれど遠慮していても彼女の場合は答えがなかなか返ってこないので致し方ない。


 するとアルトがこの二日間で見せたことのない暗い表情を浮かべる。


「昔は……ね」


 ぽつりとつぶやく。


 セルシオの言が気に障ったのではなく、何か過去を思い出して暗くなっているようだ。


 昔、と言ってもアルトは十八歳だ。

 さほど昔ではないだろうと思い質問を重ねようとすると、アルトは顔を上げてにっこり笑って、


「ぼくここに来て、キミに会えて嬉しいよ。キミと仲良くなりたいなっ」


 見合い相手というより転校生が知り合ったばかりの友達にでも言うようなセリフに、セルシオが顔を引きつらせる。


 そしてどうやって断ったものかと頭を悩ませた。


 これが一般家庭の娘なら、私にはもったいないだのと理由をつけて断れるが、アルトの場合はそうもいかない。

 身分違いにも関わらずこちらと仲良くしたいと彼女が言っているのに断りでもすれば、それはアルトにとって汚点となる。

 ただの平民からそんなフラれ方をしたと知れれば、以降の縁談にも響くかもしれない。


 などと考え出すと、いつの間にこんなに追い詰められていたと汗が出る。

 所長が上手く取り繕ってくれないだろうか、と情けないことを考える。


 それがダメなら、最後の手段を使ってでも。


 セルシオがふと遠い目をする。


 分かっている。

 それを使うのは逃げだと。


 けれど仕方がないと思いたい。




 その後もあれが見たいそれは何とあちこち連れ回されて、宿に着く頃には日が沈みかけていた。


 十三階に当たる小鳥の階から見る景色は遥か彼方の草原まで見渡せて、視界の全てが暮れ行く夕日に赤く照らされ美しい。


 宿の手前で、アルトがごっそり買った品物、主に食料品の袋を手渡す。

 部屋まで、せめてポーターのところまで持っていくべきかと思ったが、それはためらわれた。

 セルシオには縁のない高級宿であるし、アルトは女性だし。

 というより単に従者と鉢合わせたら困るなと思ったのだ。

 二度目の脱走なので、もうバレているだろうが。


「ありがとうっ! 今日一日キミのおかげですごく楽しかったよっ」


 どう答えるべきか迷って、結局いや、とぶっきらぼうに言う。


 アルトは幸せそうに手をぶんぶん振りながら宿に入っていった。


 ふう、と肩の荷を下ろすと、さてどうしようかと悩む。

 縁談は依然断るつもりだが、今すぐ所長のところへ行くべきかというと気が進まない。


 立ち止まったまましばし考え、一旦持ち帰ろう、と家路に足を向けた。




 夕食はアルトに付き合わされて買った薄くて伸びるパンと具の少ないスープで済ませた。


 寝室で仕事を片付けながら考えをまとめようと立ち上がったところで、もう呼び鈴を買った方がいいだろうかと思い悩む。

 普段は月に二、三回郵便配達が来るくらいで来客のない家だが、昨日今日と何だろうこの頻度は。

 最近の呼び鈴は家の中からでも魔力を判別して来訪者が分かるものもあるようだしと考えて、それは要らないなと頭を振る。

 相手は分かっているからだ。

 従者という可能性もあったが、いずれにせよ彼女もいるだろう。

 二度も宿から抜け出したお嬢様を従者が放っておくはずがない。


 と冗長に考えを巡らせたところで玄関を叩く音は止まず、仕方なくため息をついて扉を開ける。


 そこには予想通りアルトが立っていたが、その目には涙が滲んでいてセルシオがぎょっとする。


 アルトは一度しゃくりあげると、


「従者に置いてかれたぁ」


 一瞬理解できずにセルシオが固まる。


 は? とやっと声を出せたのと同時に、アルトが白い封筒を差し出す。

 受け取って中を見ると、一枚の便箋には、


『お嬢様はレイトス様、及びこちらの環境が大変お気に召したようですので、私はこちらで失礼いたします。お二人にご多幸あらんことを願っております。』


 要約するとそんなことが流麗な字で書かれていた。

 アルトは涙を拭きながら、「宿の受付に預けられてたの」と言う。


 お嬢様を置いていく従者?

 そんなもの聞いたことがない。


 くらくらする頭にもう一つの疑問がよぎる。

 さすがに失礼すぎると思ってしなかったその質問を、恐る恐る口にする。


「確認したいんだが……。本当にカルティア家の娘なんだな?」

「ええっ、本当だよぉっ。何でそんな嘘つかなきゃなんないのっ」


 それはそうだろうな、とセルシオがほっとため息をつく。

 もしこれが嘘だったら大きな問題になる。セルシオだけでなく研究所長も謀ったことになるのだ。カルティア家の名を騙ったことでも罪になる。


 いやもっと単純に言うと、そんな嘘をついてまで一般人のセルシオと見合いする理由などないのだ。


 セルシオがそうか、と言って壁にもたれかかって腕組みをする。


「で、どうするんだ?」


 わざと冷たい言い方をする。


 従者はつまりアルトを嫁にもらえと置いていったのだ。

 しかしたった二日ともにいただけでそんな責任は取れない。


 だからここで突き放そうと思ったのだが、アルトが表情を曇らせる。

 昼食のときに見せたものと同じ、何かに耐えているような悲しい顔だ。


 アルトはセルシオの耳に届くか届かないかの小さな声で、


「ぼくはーーーもうあの家には帰れない」


 セルシオが目を丸くする。


 どういうことか問い詰めようとしたところでアルトがぱっと顔を上げる。


「お願いセルシオっ。一緒に宿探してっ。泊まってたところは予約でいっぱいって追い出されちゃったんだ」


 その目からは涙が消え、真顔で懇願する。


 何と逞しいのだろう。

 お嬢様なのに、と思うのは偏見だろうか。

 悲しむのもそこそこに、次のことを考えている。


 その強い眼差しがセルシオには少し眩しく、また目障りに思えた。

 まだ知り合って間もないのに、疑うことなくセルシオを信頼してくるところもだ。


 だからほんの少し、砂粒ほどに意地悪な心がこぼれ出た。


「だったらーーーうちに泊まるか?」

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