2 変化(1)
翌朝は、昨日と全く同じ朝だった。
唯一違うのは、セルシオの仕事が休みということだけだ。
セルシオがベッドで薄目を開けたときの風景も、玄関が叩かれる音も、昨日と同じ。
セルシオがゆっくり起き上がってあくびをする。頭を掻き、そのまましばしぼんやりする。
その間も玄関を叩く音は続いている。
出たくないな、と思った。
扉の外にいるのが誰であれ、あのお嬢様に関係があることのような気がするのは、うっすらトラウマになっているのだろう。
被害妄想か、と思っていると音が止む。
寝室を出てキッチンで水を飲み、もういないだろうな、と緊張しつつ玄関を開ける。
普段は勘なんて当たらないのに、困る状況のときに限ってよく当たる。
セルシオの家の前で、アルトローザが首を伸ばして窓から中を伺おうときょろきょろしていた。
扉が開いたのに気がつくと、
「おはようっ!」
と手を上げ、笑顔で元気良く挨拶した。
セルシオが片手で顔を覆いうなだれる。
「……何なんだ、一体」
昨日の優美なお嬢様姿の記憶が吹き飛ぶくらいの変わりようだった。
服装も、昨日のドレスとはうって変わって木綿の生成りのワンピースに小ぶりな革製の鞄、茶色の編み上げブーツといたってシンプルなスタイルだ。
「昨日はありがとうっ。もしかして今起きたとこ? もうお昼前だよっ」
「返事ならまだしてないぞ」
アルトローザの問いには答えず、訊かれる前に先手を打つ。
当日に断るのは失礼かと思い、今日返事をするつもりでいたのだ。
それも相手が相手だけにセルシオからでなく所長から伝えてもらおうと思っているので、セルシオから直接彼女に言う気はない。
するとアルトローザはぶんぶん手を振って、
「あー、うんうんいいのそれは。そうじゃなくって、ぼく買い物に行きたいんだ。でもこの街迷路みたいでどこにお店があるのか分からなくって」
返事はどうでもいいのか。
それよりも、なぜこうもこのお嬢様は自分で動きたがるのだろう。
玄関扉にもたれかかったセルシオが首を傾げて、
「あのお付きの人に買いに行かせればいいだろう?」
お嬢様のあれこれを世話するためについてきているのだ。
まさかセルシオの話相手をしに来たのではあるまい。
アルトローザは目を泳がせてしばし考え、
「うーん、ねぇキミついでに案内してよ。ぼく、この街をもっと知りたいんだっ」
わくわく目を輝かせて言う。
セルシオがピクリと頰を引きつらせた。
その少年のような喋り方は元々なのか。
そういえばそれも訊きたかったのに訊けなかったのだ。
いや、そもそももう会わないはずだったのに。
けれどこうして再び訊く機会が出来たわけだし、休日など仕事を片付けるだけでヒマなのでいいかと思い、支度してくると言い置いて家の中へ足を向ける。
アルトローザがやったー! とバンザイして喜ぶ。
セルシオの後について家に入り、
「じゃあぼく待ってるね。あっ、ねぇ朝ご飯食べた? ぼく作ろうか?」
楽しそうによく喋るアルトローザに、セルシオは寝室の扉を開けながら要らない、と断った。
一度だけなのに、勝手知ったるなんとやら。
いやその言葉は適してない、と呆れ顔のセルシオが首を振る。
セルシオが支度を終えダイニングに戻ると、アルトローザは自分で湯を沸かしコーヒーを飲んでほっこりしていた。
キッチンに目をやると、放置していた洗い物が綺麗さっぱり片付いている。
一体どんなお嬢様だ、と疑問はさらに増えるばかりだった。
何を買うのか訊くと、ヘアオイルが切れたとのことだった。
腰まであるストレートの髪はよく手入れされていてつやつやで、だからすぐに使い切ってしまうのだという。
女性のそういった物はよく分からないが、生活雑貨の店なら置いているだろうか。
「まあ猫の階にならあるだろう」
隣に並んで歩くアルトローザが振り返り、目を輝かせる。
「猫の階っ? 何それ、猫がいっぱいいるのっ?」
セルシオが面倒くさそうに違う、と否定して説明する。
「この街は山のように建物が積み重なってるが一応階層がある。かなりでこぼこしてて一階層でも家が二、三軒重なってるから厳密じゃないが、一階から十五階まであってそれぞれの階に名前がついている」
「へえ。それで猫の階は何階なの?」
「数字で言えば二階だな。けれど住民は動物の名前で呼んでる」
数字にしてしまうと階段を上った数と合わなくなるからとか、各階にモチーフになった動物の絵や像があるからと聞くが、由来はよく知らない。
「そうなんだ、面白いねっ。ね、レイトスさんの家の階は?」
クジラ、と答える。
アルトローザが楽しそうに全部の階の名前を教えろとせがむので、セルシオはあからさまに嫌そうな顔になり「誰かに教えてもらえ」と説明を放棄した。
アルトローザが頰を膨らませてむくれる。
そこでセルシオがはっと気づく。
つい彼女のペースに巻き込まれて横柄な態度を取ってしまっているが、彼女はこれでも大企業がバックにあるお嬢様なのだ。
あちらが気安くしていても、一庶民のセルシオが同じようにしていいわけはない。
どうしてこうなった、と反省すると、ノリがどこかレナードソンに似ているのだ。
こちらがそっけない態度をしてもしつこく絡んでくるところがよく似ている。
ではいつか彼女も無理やり肩を組んでくるようになるのだろうか、とバカな考えが浮かんで首を振る。
状況もだが、今日だけなのだから。
明日にはもう、会うこともない。
ぐねぐねと石畳の路地を行きいくつも階段を下りて猫の階に着くと、アルトローザが目をきらきらさせて周りを見回す。
右に店、左にも店、前にも後ろにも店が連なっている。
店からは商品があふれだしていて、狭い道を客が肩をかすめながら行き交っている。
この階は多くの店が集まる商店街になっていて、街の住民はほとんどこの階で日々の買い物を済ませる。
肉屋魚屋パン屋に本屋、服屋に靴屋、理髪店に薬屋に日用雑貨屋家具屋魔道具屋と一通り何でも揃っている。
とりあえず手近な雑貨屋に入ろうとしたが、お嬢様には物珍しいのか、左右のお店を興味津々で覗いていて進まない。
仕方なく声をかけようとして、うっと詰まる。
「え……と、カルティアーーーさん」
アルトローザが気づいてぱたぱた駆け寄ってくる。
『様』だったろうか、とぎこちない顔をしていると、アルトローザが軽やかに笑う。
「アルトでいいよっ。そう呼ばれる方が好きなんだ」
ますます男みたいだなと思ったが言わないでおく。
「じゃあ私も、セルシオでいい」
するとアルトが目を丸くする。
彼女が良いからって自分もというのはおかしかっただろうか、とまっすぐの視線に気まずくなっていると、違うところに驚いていた。
「キミ、自分のこと『私』って言うんだねっ。昨日はお見合いの席だからだと思ってた」
セルシオが苦虫を噛み潰したような顔で、
「お前こそ、何でそんな喋り方なんだ」
「えー? ぼくはこの方がいいって思ったからだよ」
答えになってない。
さらに突っ込んで訊こうとしたが、アルトは日用雑貨屋を見てさっさと入っていってしまう。
やれやれと肩を落とし、セルシオも後について入った。
反省したところで、どうにも態度は改められそうにない。
店に入ってからやっと気づいた。
少し考えれば分かることだったが、超のつくお嬢様が使っているヘアオイルは有名ブランドの高級品で、チープさを売りにしているこの店に置いているわけがなかった。
見た感じの年齢の割に派手な化粧、派手な色と柄の服を着た女性がつまらなさそうな顔で、
「そのブランドなら象の階に店があるけどねぇ。行くんなら服装、ちゃんとして行かないと門前払いされちまうよ」
化粧品店に入るのにドレスコードがあるのか、とセルシオががく然とする。
金持ちの世界はよく分からない。
アルトが何階? と訊くので、十二階でアヒルと小鳥の階の間だと答える。
「それなら泊まってる宿の一つ下だ。なんだ、それならぼく戻って買いに行くよ」
見た目からアルトが金持ちだとは思ってなかったのだろう、おばさんの眉が片方釣り上がる。
セルシオはもう用はないのでさっさと雑貨屋を後にしようとする。
踵を返したところで、
「待って」
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