第5話

 朝、チャイムが鳴る。

 僕はすぐに玄関まで行って、扉を開けた。

 立っていたのは制服姿の餐庭さんだ。


「……おはよう」


 餐庭さんはいつも通りの様子で言ったけれど、目線は僕を避けるように揺れている。それでもとにかく、来てくれたことが僕は嬉しかった。


「おはよう、餐庭さん。良かった、来てくれて」

「……絶対に来てって、きみが言ったから」


 餐庭さんは目線を揺らしながら言う。

 その通り、僕は昨晩のうちに「明日の朝は絶対に来てくれ」とチャットを飛ばしていた。それに対する餐庭さんの返事は「わかった」の一言だけで、本当に来てくれるかどうか心配だったのだ。

 餐庭さんが靴を脱ぎ始める。


「あ、朝食の用意はできているから」


 僕は先に立って食卓に向かった。

 今朝の献立はパンとサラダ、スープだ。

 サラダは千切ったレタスと串切りトマトに胡麻ドレッシングをかけただけのもの。スープは以前作って冷凍していたビーフストックを温め直して、塩胡椒で調えたものだ。

 そしてパンは、野球ボール大のごろっとした見た目の手作りパンだ。表面にはカレーパンにそうするように、溶き卵を塗ってパン粉を塗してから焼き上げてある。


「このパンは……?」


 食卓に着いた餐庭さんが、パンを見つめて当然の疑問を口にする。


「まずは食べてみて。手掴みでどうぞ」

「うん。じゃあ……」


 餐庭さんは僕の勧めるまま丸いパンを掴んで口まで持っていき、ばくりと齧り付いた。


「……んっ」


 頬張った口の隙間から驚きの声が漏れる。それから、ゆっくりと頬が上下して、喉がごくりと揺れた。


「ジャガイモだ……」


 餐庭さんはいま囓ったパンの断面を見ながら呟いた。

 僕は頷き、答える。


「うん、ジャガイモのバター煮……っぽいものをパン生地で包んで、炊飯器で焼いたんだ。ネットで探した、発酵させずに炊飯器で作れるレシピというのを初めて試してみたんだけど……なんとか、パンの形になっているね」


 パンを作るのは本当に初めてだったけれど、短時間で簡単に作れるレシピが見つかったことは幸運だった。それでもじつは、昨夜のうちに試しで作ってみたら二回ほど失敗していて、べしゃっと水っぽかったり、膨らまなかったりしたパン的なものが戸棚のタッパーのなかに詰め込まれているのだが。

 ちなみにジャガイモのほうも、正確にはバターで煮たのではない。ジャガイモを丸のまま浸せるほど大量のバターを用意するのはきつかったので、ジッパー付きの耐熱袋にジャガイモ一個と、それと同量の有塩バターを入れて綴じ、保温鍋で一晩湯煎にかけてみたのだ。

 袋を綴じるときは、ストローを使って袋内の空気をできるかぎり抜いてある。本当は真空パックできれば良かったのだけど、さすがにその機器は持っていないので、どうにか工夫してみたわけだ。

 そうやって保温鍋のなかで真空調理の要領でもってジャガイモにバターを浸透させている間に、発酵させずに炊飯器で作れるパンのレシピを何度も試したというわけだった。

 水加減と混ぜ具合を試行錯誤して、どうにか三回目で満足のいくパンが焼けたのは、もう少しで日付が変わろうかという時刻だった。それから台所を軽く片付けて、シャワーを浴びて布団に入り、朝はいつもよりさらに早く起きてパン生地を捏ね始めた。それでどうにか、いつもの時間にパンが焼き上がったのだった。

 だから、パン生地を焼く練習はできたけれど、中身にジャガイモ一個という大きなものを包んだ場合の出来具合を試す余裕はなかったし、そのジャガイモにしても芯まで味が染みているか、熱が通るのかを確かめていないままだ。


(もしジャガイモが半生だったら、どうしよう。そんなものを餐庭さんに食べさせることになったら、何もかも台無しだ……!)


 その心配で冷や汗を掻きっぱなしだったのだけど、餐庭さんの反応を見るかぎり、安心して良いようだった。

 餐庭さんは『丸ごとポテトパン』を無言でがつがつ頬張り、丸々ひとつをあれよと言う間に食べきった。


「ふぅ……美味しかった」


 いつも通りの端的な一言だけど、心から満足している表情をしていた。


「良かった。ちゃんと食べられるものになっていて」


 僕が思わず漏らした呟きに、餐庭さんは眉をひくりと上げる。


「それ、どういうこと? 食べられるか分からないものを、わたしに食べさせる気だったの?」

「あっ……違うよ、そういうことじゃないんだ。水加減や火加減に自信がなかったから、上手くできたか心配だったんだけど、満足してもらえる美味しさだったみたいで良かった、って」

「ああ、なるほど。大丈夫、ちゃんと火は通っていた。外側のパン生地はふんわりで、表面に塗してあったパン粉はさくさく。なかのジャガイモも芯までバターを吸っていて、噛まなくても歯で押しただけで崩れて溶けるくらい。味付けはもう一工夫できたかもしれないけれど、塩とバターだけなのもシンプルで悪くなかった」


 餐庭さんは淡々と、だけどはっきりと言った。だから、僕は勇気を出して、こう尋ねた。


「パン屋のパンと、どっちが美味しい?」

「……え」


 餐庭さんは目を丸くする。鳩が豆鉄砲を食ったような、というやつだ。僕はその顔をまっすぐ見つめる。


「餐庭さん、覚えてる?」


 声が震えそうになる。でも、言わなくてはならない。言わずにいたら後悔する。


「僕と餐庭さんが初めて会ったのは通学路のパン屋だったよね。朝、二人で同じパンを取ろうとして……餐庭さん、覚えてる?」


 餐庭さんは小さく頷く。


「ポテトパンだった」

「うん。マッシュポテトを生地に練り込んだやつで、僕が作ったのとは全然違うけれどね」


 僕は少し笑って、それから汗ばむ手の平をぎゅっと握り締めながら切り出した。


「餐庭さん、前はいつも、朝ご飯はあのパン屋で買うパンだったよね。いまでもたまには食べたくなることがあると思う――でも、そのときも、僕が作るよ。ここで一緒に食べて欲しいんだ。パンだって何だって、頑張って作るから!」


 最後のほうは喉の奥から絞り出すような裏声になりかけたけれど、それでも僕は言い切った。言わなくてはいけないことを全て、餐庭さんに伝えることができた。

 ちゃんと伝えられたことに満足したのも束の間、沈黙が胸に染みてくる。返事が気になって、収まるかと思った鼓動がまたすぐ早鐘を打つ。

 餐庭さんが静かに口を開く。


「パン、もうひとついただく」

「あ……うん」


 僕の返事を待たず、餐庭さんは二つめの『丸ごとポテトパン』を手掴みすると、黙って食べ始めた。

 餐庭さんはさっきよりも時間をかけて、一口ずつ噛みしめるように食べる。僕は声をかけることもできず、黙って見ている。

 僕には実際以上に感じられるほどに感じられる時間をかけて、餐庭さんは二つめのパンを食べ終えた。

 喉を潤すように、マグカップに注いだスープを啜る。


「……呑名先生と水森先輩にも伝えないと」


 餐庭さんは長い息を吐きながら、ぽつりと言った。


「え?」


 聞き返した僕に、餐庭さんはくすりと微笑む。


「ジャガイモ料理は満足の行くものが完成したから、今日の昼食からは次のテーマに移ります……って」

「……じゃあ、ジャガイモ以外で使える食材を持っていかないとだね」


 僕は笑って答えながらも、内心ではいまにも飛び上がりそうな気持ちを抑えるのに精一杯だった。


(いまの言葉って、つまり……そういうこと、だよね? そうだよね? 他に受け取りようがないよね!?)


 少しでも気を抜いたら、餐庭さんの肩を掴んで揺さぶりながら、


「いまの言葉ってそういうことだよね!?」


 と、確認したくて堪らなかった。それを我慢したのは、そうしてしまったが最後、完璧に歯止めの利かないことになってしまいそうだったから。

 それだけ、僕の目の前で頬をほのかに染めてはにかんでいる餐庭さんは魅力的だった。


「餐庭さん……」


 僕の口から自然と零れた呼び声に、餐庭さんは睫毛をふるりと伏せる。


「……飯泉くん」


 餐庭さんの唇が僕の名前をささやくだけで、僕の頭は熱暴走寸前だ。


「餐庭さ――」

「ねえ、飯泉くん。今日のお昼は何にしようか?」

「……へ?」


 冗談めかした餐庭さんの言葉に、僕は本気で口をぽかんと開けた。それがよっぽど面白かったのか、餐庭さんは肩を揺すって笑い出した。


「ふっ、ふふ……その顔……ふ、ふふふっ……!」

「な、なんだよ。なんで笑うのさ!?」


 ――と、なんだか恥ずかしくて唇を尖らせたものの、口元はすぐに緩んだ。なんでか楽しくて仕方なくなり、僕も一緒になって笑い出した。


「あは、あははっ」

「ふっ……ふふふっ」


 二人して食卓を囲みながら笑い転げていたら、今朝は二人揃って見事に遅刻してしまったのだった。

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食べくりダイアリー 雨夜 @stayblue

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