第4話 出会いのポテト、これからのポテト その1

 水森先輩との肉ジャガ勝負を終えた三十分後、僕と饗庭さんは近所のスーパーで買い物していた。明日からのジャガイモ再開に備えて、ジャガイモの補充と、自宅用に特売品のマーガリンを買いにきたのだ。残念ながらマーガリンはすでに売り切れだったけれど、これまた残念なことにと言うべきか、ジャガイモの大袋は確保できた。


「明日はどんなポテト料理を作るの?」

「そうだなぁ……」


 僕と飯泉さんがそんなことを話ながらスーパー内を歩いていると、背後からいきなり声をかけられた。


「え、飯泉?」


 立ち止まって声がしたほうに振り向くと、どこかで見たような気がするジャージ姿の女子が二人、半笑いの顔でこちらを見ていた。買い物籠にはお茶とスポーツ飲料のペットボトルがいくつも入っているから、たぶん部活の買い出しだ。


「あ……小林さん、斉藤さん……」


 餐庭さんが平坦な声で呟く。

 餐庭さんは普段からあまり抑揚をつけて話さないほうだと思っていたけれど、いまのを聞いて、僕と話すときは相当に感情豊かだったのだと知らされた。いやまあ、水森先輩ともある意味で活き活きと言い合いをしていたけれど。

 ……って、この二人は餐庭さんの知り合い?


「クラスメイト」


 餐庭さんがさらに小声で、僕にだけ聞こえるように呟いた。


「あっ、そうか。同じクラスの……」


 どうりで見覚えがあるはずだ……と納得する僕に、ジャージ姿の小林さんと斉藤さんはそれぞれ、呆れ顔と苛立ち顔を向けてきた。


「ちょっと飯泉ぃ。同じクラスで覚えてないって、どういうことよぉ!?」

「まあまあ、小林こばっち。うちら、飯泉と直に話したことないんだし、仕方ないって」

「あっ、そりゃそうかぁ」


 ……と、二人で勝手に完結している。

 とくに用があるわけでもないみたいだし、適当に会釈して離れるとしよう――そう考えた僕の心を読んだかのように、小林さんがなんの前振りもなしに言い放った。


「つぅかさ、やっぱ飯泉と餐庭さんって付き合ってんだ?」


 そう言われた瞬間、僕の息が止まった。


「……」


 頭が一瞬で酸欠になって、まともに思考できなくなる。いまのは質問? なら、返事を返すべき? でも、なんて言う? はい、いいえ? ……って、間違いなく“はい”じゃないけど、でもだからって“いいえ”も何か他人行儀というかその――。

 頭のなかがひっくり返るような大混乱は顔にも出ていたらしく、たぶん斉藤さんのほうが、たぶん小林さんの肩を小突いて言った。


「ちょっと、こばっち! そういうデリケートな話題、いきなり振っちゃ駄目でしょ!」

「うえぇ? いきなりってわけじゃないっしょ。前にも、こいつら付き合ってるんじゃないかーって、ちょい噂になってたし、それにいま現に、こうして二人で仲良く夕飯の買い物? を、してるわけだしぃ……いきなりじゃないよ、うん」

「そうかもしれないけど……」


 斉藤さんは小林さんを窘めつつも、さっきからものすごい興味津々な目をちらちらと、こちらに向けている。

 これはちゃんと答えておかないと、また変な噂を立てられてしまうぞ。よし、ちゃんと言おう。“いいえ”と言おう。むしろ、他に選べる余地はないじゃないかというのに、僕は一体、何を迷っていたんだか。


「あのさ、ちゃんと言っておくけど、」

「付き合っている」


 僕の言葉を奪って宣言したのは、相場さんだった。

 ……え?

 固まったのは僕だけじゃなかった。

 訊いてきた張本人の小林さんも、止めるふりをしつつも興味津々だった斉藤さんも、両目を見開いて口を半開きにした間抜け面をして、息をするのも瞬きするのも忘れたようになっていた。

 スーパーの喧噪がやけに遠く感じる。買い物客が、僕たちの横を迷惑そうに擦り抜けていく。


「え……餐庭さん、いま、なんて……」


 最初に聞き返せるほど立ち直れたのは、斉藤さんだ。


「だから、付き合っている」


 餐庭さんは同じ言葉を繰り返す。


「誰と!?」


 硬直から立ち直った小林さんが勢い込んで訊くと、餐庭さんは面倒そうにしながらも、僕の袖を掴んで言った。


「飯泉くんと」


 その直後、一瞬の沈黙を挟んで、ジャージ女子の二人が黄色い悲鳴を上げた。


「きゃあ! うそぉ!」

「おめでとお!」


 はしゃぐ二人に、餐庭さんは淡々と告げる。


「そういうわけだから、そっとしておいてくれると嬉しい」

「あっ……そうね。二人きりのとこ、お邪魔しちゃってごめんなさい。ほら、こばっち。行こっ」


 斉藤さんが小林さんの手を引く。


「んじゃ、また今度じっくり話を聞かせろよぉ」


 小林さんもいちおう素直に、斉藤さんと連れだってレジのほうへと去っていった。

 僕はといえば、突然すぎる展開にまったくついていけず、最後まで間抜けに突っ立っているだけだった。


「ええと……」


 ジャージの二人が去った後、ようやく言えたのは、単語でもないただそれだけだ。

 餐庭さんはそんな僕を見ないまま、ぼそぼそと言う。


「ごめんなさい、きみを勝手に巻き込んで。でも、何を言ってもまた好き勝手な噂を立てられるんだろうと思ったら、これが一番いいかと思ったの」

「あ……うん。まあ、いいんだけど……でも、もしまた噂にされちゃったら? その場凌ぎの嘘でしたって言ってまわるのは、かなり大変なんじゃないかな……?」


 心配顔をする僕に、餐庭さんは俯いたままだ。何も答える気がないのだろう――と思って、秋物を続けようかしたとき、餐庭さんはふいに小声の早口で言った。


「嘘だと言ってまわらなければいいんじゃない?」

「えっ!?」


 喉から裏返った声が出た。声を出してから、自分が声を上げたのだと気づいた。いや、そんなことよりいまは、餐庭さんがなんと言ったかだ。


「餐庭さん、いま、なんて……」


 振り向きながら聞き返した途中で、僕は言葉を呑み込んだ。

 餐庭さんは顔をずっと俯けていたけれど、少年のように短くしている髪からはっきり出ている耳は、冬の寒空の下にいるみたいに真っ赤だった。その耳を見ただけで、餐庭さんがいまどんな顔をしているか想像できた。餐庭さんがいまの言葉をどんなつもりで言ったのかも想像できた。それができないほど、僕は鈍くはなかった。でも、この場ですぐに返事ができるほど、器用でも勇敢でも賢くもなかった。

 僕たちは事務的な言葉を一言、二言、交わすくらいの会話しかせず、買い物を終えた。スーパーから僕の家までの帰り道では、互いにとうとう一言も発さなかった。


「じゃあ、わたし、帰るから」


 僕の家まで着いたところで、餐庭さんがぼそりと独り言のように言う。


「……うん」


 僕もまた呟くように言って頷く。餐庭さんはそれを最後まで見ずに、


「今夜は夕飯、いい。来ないから」


 それだけ言い残して、小走りで駆けていった。

 僕はただ突っ立って、彼女の姿が見えなくなるのを見ていた。



 その晩、久々に一人で食べた夕飯は味がさっぱり分からなかった。

 食べ終わった食器を洗い終わって、とくに観たい番組があるわけでもないテレビを点けっぱなしにしながら、ソファでぼんやりとする。

 脳裏に浮かんでくるのは、スーパーでのやり取りや、その後の会話ひとつなかった帰り道のことだ。僕はいまだに、あのとき自分がどうすれば良かったのかが分からないでいる。


(餐庭さんは、僕と二人で買い物していたところを囃し立てられたくないから付き合っていると言っただけ……じゃないんだよな、うん……)


 僕の勘違いではない――と思う。いや、勘違いなのか? あの言葉や、真っ赤に染まっていた耳はそういう意味ではなくて、ただ本当に小林さんたちをあしらいたかっただけだったり、暑かったというだけだったとか……。


(……いやいや、そっちのほうがさすがに不自然だろ。あれはやっぱり、そういう意味だったよ)


 そう思ったら、自分でびっくりするほど顔が熱くなった。額にも首にも腋にも、汗が酷いことになっている。


 そのとき、ふと思った。


 ――言われた僕がこんなにどうにかなっているのなら、言った餐庭さんはもっとどうにかなっているんじゃないのか? だって、餐庭さんは言ったけれど、僕は何も言っていないから。言われたことでこんなにどうにかなるんだから、言われなかったことでのどうにかなり具合は、きっともっとだ。


「……言わなきゃ」


 そうだ――返事をしなくてはいけない。

 僕は餐庭さんに伝えなくてはいけない。


 僕は立ち上がり、台所に向かった。

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