第1話 春の出会いと春キャベツ その6
翌朝、僕が台所で朝食の支度していると、玄関のチャイムが鳴った。
僕はインターフォンの画面を確かめることもなく、玄関に直行して鍵を開ける。玄関先に立っていたのは予想通り、制服姿の餐庭さんだった。
「おはよう、飯泉くん」
「……おはよう」
僕の返事が一拍遅れたのは、朝の明るい日差しのなかで改めて目にしたショートカットの髪型に、喉の奥がぐっと詰まったからだ。
「飯泉くん?」
「あっ……どうぞ、入って。いまちょうど、出来上がるところだから」
「うん。お邪魔します」
餐庭さんが脱いだ靴を揃えている間にも、僕は台所へと駆け戻って、最後の仕上げを済ませた。そこに餐庭さんが入ってきて、出来上がったばかりの温かい料理を食卓に運んでくれた。
「ロールキャベツだ」
食卓に料理を並べながら、餐庭さんが声を漏らす。
「そういえば、ずっと前にも作ってくれたことがあったよね……あれ? でもあのときは、作るのに結構時間をかけていたような……」
「あのときは保温鍋で煮込んだから。でも今回は蒸し焼きにしたから、あのときほど時間はかかっていないんだ」
戸惑った顔をする餐庭さんに、僕は席に着きながら笑って頭を振った。だけど、餐庭さんはいっそう申し訳なさそうな顔になる。
「火の通し方を簡単にしたって、中身の具を作るのや、キャベツでひとつひとつ巻いていく手間は変わらないでしょ。昨日の晩ご飯の残りというわけでもないんだし、これ、今朝のために作ったんだよね。自惚れかもしれないけれど、きみが一人で食べるだけなら、もっと簡単な朝ご飯にしていたと思うし……これ、わたしのために? だとしたら、嬉しいけれど、それ以上に申し訳ないな……」
餐庭さんは僕の向かいの席に座りながら、眉根を下げて、窺うような視線を投げてくる。
僕は少しだけ言葉を探してから、笑って言った。
「たしかに今朝は頑張っちゃったけれど、これは今回だけの特別。初回スペシャル。今後もこのクオリティを期待されるのは困るからね」
「ああ、そうなんだ……安心したけれど、少し残念かも」
餐庭さんも、くすりと笑って冗談めかす。
「……っと、のんびりしていたら遅刻しちゃうか」
僕は壁の時計を見上げて言う。
「そうだね。冷める前に食べよう」
餐庭さんも頷く。
「いただきます」
「いただきます」
僕と餐庭さんは期せずして同時に言うと、朝ご飯を平らげにかかった。
今朝のご飯は『味噌豚レバーの蒸しロールキャベツ』だ。
鮮やかな緑色に蒸し上がったキャベツは、箸で切れるほど柔らかくはない。今回は時間をかけて煮込んだわけではなく、短時間で蒸し上げるようにしたからだ。けれども、だからといって歯応えが硬いわけではない。口に入れて歯を立てれば、二重に巻かれたキャベツはろくな抵抗もせずに噛み切られて、内に隠していた肉団子ならぬレバー団子を転び出させる。
このロールキャベツに包んだ肉団子は、茹でた豚レバーをペースト状にしたものに、青ネギ・生姜をフードプロセッサーで擂り下ろしたものを捏ねたものだ。それだけは緩すぎるから、冷凍保存していたご飯を温め直したものも擂り潰しながら混ぜて、最後は味噌で味を調えている。
芯まで熱の通ったレバー団子は、歯を押し返すような弾力を示すことなく、しっとりねっとりと歯を受け入れるようにして噛み切れる。解れたレバー団子は舌の上を転がりながら、味噌と青ネギ、生姜なんかで膨らまされたレバーのこってり濃厚な旨味を口のなかいっぱいに溢れさせていく。
「……うん」
想像していた通りの味わいに、僕は満足の吐息を漏らした。
蒸すときに数滴ほど振りかけた日本酒の風味や、ソース代わりに添えた
大根おろしのポン酢和えも良い仕事をしてくれている。レバーの重たさをほどよい酸味と辛みでさっぱりと洗い流して、早く次の一口を噛みしめたいという気にさせるのだ。
他にもご飯と味噌汁を用意していたのだが、そちらも朝から早いペースで腹のなかに収まっていった。
「これ、美味しい……」
餐庭さんも幸せそうな吐息を零しながら、三個目のロールキャベツに箸をつける。そこでふと、感慨深げに目を細めた。
「そういえば、前にもロールキャベツを食べさせてもらったことがあったっけ。あれも、鶏団子に鶏のスープがたっぷり染みていて美味しかったな」
「……ねえ、餐庭さん。その鶏団子のロールキャベツを作った日、その前に食べたお昼ご飯のことを覚えている?」
僕が訊ねたことに、餐庭さんはすぐに大きく頷いた。
「もちろん。初めてきみが作ってくれた料理だもの。レバキャベ炒め、忘れるわけないよ」
「じゃあ……分かる? レバキャベ炒めと、このロールキャベツの共通点」
「共通点?」
餐庭さんはロールキャベツを箸で持ち上げ、小首を傾げてしげしげと見つめる。そして、はっと目を瞠った。
「あっ、同じ材料……」
「うん」
僕は頷いた。
餐庭さんが気がついたように、このロールキャベツと、餐庭さんに初めて振る舞った料理――豚レバーの味噌漬けとキャベツの炒め物は、使っている食材がほとんど同じだった。
「あのレバキャベ炒めが、ロールキャベツになるだなんて……驚いた。すごいよ……」
ロールキャベツを見つめて頻りに感嘆している餐庭さんに、僕は緊張を呑み込みながら問いかけた。
「どっちが美味しい?」
「……?」
「このロールキャベツとレバキャベ炒め、どっちが美味しい?」
改めての質問に、餐庭さんは難しい顔をして黙り込んでしまった。僕も催促はせず、黙って返答を待つ。
餐庭さんは眉間に寄せた皺を深めながら、三個目のロールキャベツにゆっくりと噛みつく。そして、口のなかで転がすようにゆっくりと咀嚼した後、ごくりと嚥下した。
「ん……このロールキャベツも、レバーの重量感をしっかり前に出しつつも、さっぱりと食べられる。酒蒸しして、ポン酢と大根おろしで食べるから? とにかく、朝ご飯にはぴったりだと思う。でも……」
と、餐庭さんは続ける。
「レバキャベ炒めがロールキャベツより美味しくなかったわけじゃない。あっちには、このロールキャベツにはないキャベツのしゃきしゃき感があった。それに、熱々の油で炒めたからかな……なんていうか、パワーがあった。このロールキャベツがあっさりなのにこってりなら、レバキャベ炒めはこってりがっつりだった……」
「……つまり?」
「質問の答えは、どっちも美味しい――じゃ、駄目かな?」
「いや、いいと思うよ」
僕は笑って頭を振った。それから、こほんと咳払いして続ける。
「何が言いたいかというと……ロールキャベツにして蒸し上げたのが美味しいなら、炒め物にしたって当然美味しいわけで……つまり、手の込んだロールキャベツも、手早く作ったレバキャベ炒めもどっちも美味しいというわけで……」
「……要約すると?」
小首を傾げる餐庭さん。
「あ、うん。えっと、だからまあ……餐庭さんもそれと同じだよねってこと! 髪、いまの短いさらさらのが似合っているってことは、前のも別に悪くなかったということだよな――ってこと!」
自分でも支離滅裂になっていることを自覚しつつも、僕はとにかく思いの丈をありのままにぶちまけた。
餐庭さんはびっくりした顔で口をぽかんと開け、目をぱちくりとさせていた。 片手は耳を撫でている。少年のような短さの髪から出ている耳だ。耳を撫でる仕草は、僕の視線から耳を隠して恥ずかしがっているようにも見えて……僕は我知らずのうちに、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
くすぐったいような息苦しいような沈黙は、たぶん数秒と続かなかったと思う。
その沈黙を破ったのは、餐庭さんの笑い声だった。
「くっ……く、ふふっ……!」
餐庭さんは肩を震わせて、堪えようにも堪えきれないといった様子で笑っている。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
僕は堪らず抗議した。顔が熱くなって、首筋が汗ばむ。わりと勇気を振り絞っての発言だっただけに、笑われてしまって恥ずかしいったらない。
「ごめんなさい、そういう意味で笑っているんじゃないの……ふふっ」
餐庭さんはまだ笑いの発作に震えながら、首を左右に揺すって言う。
「じゃあ、どういう意味でさ!?」
僕が照れ隠しの仏頂面で問い質すと、餐庭さんはようやく笑いを細くして、大きく息を吐きながら答えた。
「……わたし、小学校の高学年くらいからずっと天パがコンプレックスだったんだ。縮毛矯正のことはかなり早くから知っていたのだけれど、試す勇気が持てなかった……」
そこで少し言葉を切った餐庭さんに、僕は訊いた。
「矯正をかけても本当にまっすぐになるか不安だったから?」
「ううん、むしろその逆」
餐庭さんはゆるりと頭を振って自嘲した。
「天パが治っても何も起きなかったら……って思うと、怖くて仕方なかったの。だって、わたしは、わたしが根暗なのも友達がいないのも誰とも上手く話せないのも酷い天パだからだって決めつけていたから、その天パが治ってしまったら言い訳できなくなってしまう……だから、ずっと怖くてできなかったの」
恥ずかしげに目を伏せていた餐庭さんは、でも、と顔を上げた。
「きみと変な噂にされたとき、このままじゃご飯を食べさせてもらえなくなるかも――って思ったら、そっちのほうがずっと怖くて、気がついたら美容院に駆け込んでいた」
餐庭さんは耳元の髪を指でさらりと掻き上げて苦笑した。
僕はただもう、呆気に取られるばかりだった。
「餐庭さん……そんなに、ご飯が食べたかったんだ……」
「そうだよ」
餐庭さんは即答する。
「言ったでしょ。もう餌付けされてしまった、って」
「あ……うん、言ってたね……」
その単語を聞かされたのは二度目だけど、改めて聞いてもやっぱり恥ずかしい。肌の裏側をくすぐられるような感覚に、僕の背筋はぞわわっと震えた。
肩をすくめて身震いする僕に、餐庭さんは悪戯っぽく微笑む。
「でも、少しショックだった」
「えっ!?」
何か変なこと言ったか――と思い返すまでもなく、変なことを言いまくった自覚はある。
「わたし、自分では結構、見た目の印象が良くなったなと思っていたのに、前から何も変わっていないだなんて、酷いわ。ショックだわ」
わざとらしく嘆いてみせる餐庭さん。冗談だと分かっていても、僕は唇を尖らせて言い返さずにいられない。
「そんな意味で言ったんじゃないって! いまの髪型が似合っているということは、前からそんなに悪くなかったのかもね。前から可愛かったのかもね――って、そういう意味で言ったんだって!」
僕の言い訳に、餐庭さんは不意を突かれたように、目を丸くさせた。
「わっ……」
「え……なに?」
どうしたのかと眉根を寄せた僕に、餐庭さんは微笑みながら言った。
「わたし、初めてよ。男の人から可愛いって言われたの。ありがとう」
「あ、う……うん……」
餐庭さんが僕を茶化すつもりで微笑んだのか、それとも単純に照れ隠しで微笑んだのか、僕には見極められなかった。ただ間抜けに頷き返しただけだった。
頬の熱さを誤魔化すために啜った味噌汁は、すっかり温くなっていた。
時計はいつの間にやら、いつもなら家を出ている時刻を指していた。
僕たちは大慌てで食事を終えて、片付けもそこそこに家を飛び出した。また誰かに僕たちが一緒に歩いているところを見られたら面倒だから、
時間差で家を出たほうがいいかも……などと配慮している余裕もないほどギリギリで、僕たちは朝ご飯を食べたばかりで、抜きつ抜かれつの全力疾走したのだった。
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