第1話 春の出会いと春キャベツ その5

 気がつけば、僕はとっくに家に着いていて、制服から部屋着に着替えていた。

 ろくに周りも見えないくらい自虐と自嘲に飲まれていても、僕はいつものことをいつも通りにこなしている。家に帰って着替えるだけでなく、普段はサボりがちな掃除まで終わらせていたことに少し笑ってしまった。

(いま何時だろう……)

 窓から差し込む日差しはオレンジ色に染まっている。壁の時計を見上げると、もうそろそろ夕飯の支度を始めてもいい頃だった。

 でも……。

(……いいか、今夜は)

 どうせ自分の腹を満たすためだけだ。カップ麺にお湯を注ぐだけでいいや。

 僕は台所に向かいかけていた足の向きを変えて居間へ行くと、テレビを点けてゲーム機を起動させた。

 久々に、時間を忘れてゲームした。途中で腹が空いてきたけれど、お湯を沸かしに立ち上がるのも億劫で、だらだらとゲームを続けた。おかげで、これまで何度かゲームオーバーさせられたステージを踏破することができたけれど、なぜだかあんまり嬉しくなかった。

 そのとき、チャイムが鳴った。壁掛け時計を見上げると、いつもならとっくに夕飯を済ませている時刻だった。

(こんな時間に誰だろう……宅配便かな?)

 ゲームを中断してインターフォンの画面を見る。

「……!」

 画面に映る来客の姿を確認するや、僕の足は玄関に向けて駆けだしていた。

 玄関の灯りを点けるのも忘れて鍵を外し、玄関扉を引き開ける。外に立っていたのは、餐庭さんだった。

「……餐庭さん?」

 インターフォンの画面で見たときから餐庭さんに間違いないことは分かっていたけれど、それでも確認せずにはいられなかった。なぜなら、耳も首も隠すくらい長かった餐庭さんの髪は、少年みたいなショートカットにばっさりと切られていたからだ。

「餐庭さん……だよね……?」

 もう一度、確認してしまう。

 灯りを点け忘れた玄関先は薄暗いし、着ているのはパーカーと細身のジーンズにサンダルという装いで、見慣れた制服姿ではないけれど、ばっさりと短くなった髪型のおかげで頬の輪郭まではっきり露わになっている顔は、今日初めて目の当たりにしたけれど記憶の芯にばっちり焼き付いている顔だ。見間違いのはずがない――餐庭さんだ。

 食い入るように見つめていた僕に、餐庭さんは両手をずいっと突きつけてきた。気づかなかったけれど、餐庭さんは両手に大きめのタッパーを二段重ねにして持っていた。

「これ、きみのせいだ!」

「え……?」

 とはタッパーの中身を指すのだろう。僕はタッパーを見下ろす。透明なタッパーだったけれど、暗くて中身までは見通せない。

「え、ええと……とにかく、なかに入って」

「……」

 僕が促しても、餐庭さんは何も答えない。でも、無言で僕を押し退けるようにして玄関のなかに入ってきた。

 扉の閉まる音を聞きながら、僕は照明のスイッチを入れる。明るくなったのと同時に、餐庭さんはこちらに振り返ってもう一度、二段重ねにしたタッパーを突きつけてきた。

「これ!」

 強い語調の一言に、僕は思わず受け取ってしまう。それからようやく中身に目を落とした。

 上段のタッパーに詰まっているのは、黄土色をした液体だ。そのタッパーを玄関脇の棚に置いて、下段タッパーの中身も確認してみる。こっちの中身は、白いどろどろした反固形の何かだ。

「あの……餐庭さん、これは……?」

 僕の疑問に、餐庭さんはすぐには答えなかった。言葉を探すように二、三度、息を吸って吐いてしてから、いきなり脈絡のないことを言い放つ。

「きみのせいだ!」

「……え?」

「全部、飯泉くんのせいだ!」

「や、だから――何が?」

「全部!!」

「だから全部ってなんだよ!?」

「この髪!」

 餐庭さんは短くなった髪を鷲掴みするように掻き上げて、言った。

「その髪が、僕のせい……?」

 ぽかんとした顔で呟いた僕に、餐庭さんは捲し立てた。

「そうだよ。きみが嫌だと言ったからだ。きみが迷惑で面倒で御免だって言うから切ったんだ。せっかく一念発起して縮毛矯正したのに! まだ、さらさら感を心ゆくまで堪能していなかったのに!」

「……え」

 僕はたぶん、相当に間抜けな顔をしたと思う。

 でも……だって、意味が分からなかった。分からなすぎた。

 僕が、餐庭さんの髪について、迷惑で面倒で御免だと言った? いつ?

「――あっ」

 たしかに言ったかもしれない。今日の放課後、帰り道で追いかけてきた餐庭さんに向かって、そんなような発言をしたかもしれない。でも、そういう意味で言ったんだったか……。

 ぽかんとしている僕に、餐庭さんは目つきをいっそう険しくさせる。

「とにかく、全部、きみのせいだから」

「だから、さっぱり意味が分からないって――」

「分かれ!」

「無茶な!?」

「無茶じゃない!!」

 餐庭さんは靴を履いたままの足で、玄関のタイルを踏み鳴らす。

「天パ酷すぎのみっともない髪の女とじゃ、きみも一緒にいたくないだろうと思ったから、わたしは勇気を出してまっすぐに矯正したのに、きみはそれも嫌だと言った。迷惑だ、面倒だ、御免だって言った……だから切ってやったの! 昨日の今日いきなり短くしてくださいって言ったら、美容師さんに変な顔されたよ。それもこれも全部、きみのせいだ! でも、これだけ少年っぽくしたんだから、もう文句はないよね!?」

 餐庭さんは目の縁に涙を溜めて睨め付けてくる。僕の頭のなかでは、いま言われた言葉がぐるぐると渦を巻き、もしかしてまさかでもいや……と俄には信じがたい自意識過剰な答えを導いてくる。

「文句も何も……え、待って。その言い方だと、餐庭さんがいきなりイメチェンしたのも、ばっさり切ったのも……僕のため、みたいに聞こえるんだけど……」

「勘違いしないで!」

 僕の自意識過剰な発言は一蹴された。

「あ、うん。だよね……」

「わたしはこの家に来て、きみの作ったご飯を食べたいだけ!」

 ……あれ?

「ちょっと待って、餐庭さん。それって、なんかその、おまえの作った味噌汁を飲みたい的な――」

「だから勘違いしないで! ほら、これ!」

 餐庭さんは玄関タイルを踏みつけると、棚に置いたタッパーを乱暴に指差して口早に言い立てた。

「きみのせいで、わたしは一人の部屋でお弁当を食べるのが寂しすぎて無理になっちゃったの。せめて、出来合いのお弁当じゃなくて、自分で作ったら食べられるかと思って挑戦してみた結果が、これ!」

「え……これ、食べ物だったんだ」

「食べ物よ! 他に何だと思ったの!?」

「色つきの糊か粘土かと……」

「カボチャの煮付けとご飯よ!」

「えっ、カボチャ? ご飯? ……これが?」

 僕はタッパーを手に取ると、蓋を開けてしげしげと中身を観察した。

「あ、たしかにカボチャだ……」

 水に溶いた黄土色の糊かと思っていたものは、どろどろに煮崩れたカボチャだった。その証拠と言うかのように、緑色の皮がちらほらと混ざっていた。

 もうひとつのタッパーも蓋を開けて確認してみると、べしゃっとしたご飯が詰められていた。

「カボチャのスープとお粥……」

 餐庭さんを見やりながら呟くと、

「違う。カボチャの煮付けと、普通に炊いたご飯だ」

 改めてはっきり、そう言われた。

「ということは……」

 僕はタッパーの中身を指で掬って味見してみた。

「……うん、なるほど。カボチャを面取りせず、煮汁たっぷりで煮込んだわけだ。こっちのご飯は……これ、芯が残っているね。めっこご飯ってやつか。水を入れてすぐに早炊きしたとか?」

 餐庭さんは、今度の呟きには何も答えなかった。顔を窺ってみると、眉根を寄せた渋いものなっている。僕が見ていることに気づいた餐庭さんは、眉間の皺をますます強めて言った。

「原因が分かるくらいなら失敗していない。とにかく、普通に作ったつもりがそうなったんだ」

「普通に作っていたら、失敗していないはずなんだけどね」

 思わず軽口を叩いてしまった途端、餐庭さんに思いっきり睨まれた。そして、鼻先にびしりと指を突きつけられた。

「それもこれも全部、きみのせいだ! わたしは自分が料理音痴だって知っているのに、きみのせいで料理する羽目にさせられたんだ。責任を取れ!」

「えっ……責任!?」

「そう、責任! わたしを餌付けした責任、ちゃんと取って!」

「餌付けって!?」

「したじゃない、餌付け。わたしはもう、きみがご飯を作ってくれないと食事できない身体にされちゃったんだ――だから、わたしにちゃんとご飯作って。勝手に意味分かんない理由で拗ねないで。髪型、これでもまだ気にくわないんだったら坊主にでも何でもなってやるから、だから――ご飯、作ってよッ!!」

 餐庭さんはこれまでで一番の大声を叩きつけてきた。目尻からはとうとう、涙が零れ落ちる。

 眉や唇はわなわなと震えていて、まるで泣き出すのを必死に我慢しているようにも見えて……

「……ぷっ」

 僕は思わず吹き出してしまった。

「なっ……笑うってどういうこと!?」

 餐庭さんが心外極まりないという顔で目を剥くけれど、いっぺん始まってしまった僕の笑いは止まらない。

「ごめん……っ、くくっ……あははっ」

 止めようとすればするほど、笑いはいっそう激しくなる。横隔膜が痙攣して、お腹が痛い。

「酷い! わたしは恥を忍んで言ったのに、それをこんなに大笑いして……!」

「ははっ……はっ……ごめん、もう収まった……と、思う……くくっ」

 僕はまだ断続的に引き攣るお腹を押さえて、深呼吸した。すると、お腹がぐうぅと、冗談みたいに克明な音を響かせた。

 あまりにも見事すぎる腹の音だったから、怒っていたはずの餐庭さんも口をぽかんと開けた間抜け面で固まってしまった。

「ええと……ごめん。今夜はまだ何も食べていなくてさ」

「……いいよ、もう。なんだか気が抜けちゃった。夕飯、食べてくるといい。夜分に邪魔して悪かったわ」

 苦笑いする僕にそう告げると、餐庭さんはタッパーを抱えて帰ろうとする。

「待ってよ」

 僕は餐庭さんのパーカーの裾を掴んで、それを引き留めた。

「うち、今夜は夕飯の準備をまったくしていないんだ。だから、そのタッパーの中身、提供してくれると助かるんだけど。もちろん、その代わりに餐庭さんの分も作るから」

「え……これを?」

 餐庭さんは手にしたタッパーを見下ろして、戸惑いの顔をする。

「でもこれ、失敗作で……とても食べられたものじゃないよ」

「食べられないかどうかは、食べてみてからのお楽しみ……ってね。ほら、好い加減に立ち話も疲れたし、上がってよ」

 僕は餐庭さんの手からタッパーを取り上げると、先に立って台所へと向かった。

「あ……お邪魔します……」

 背後で、餐庭さんが躊躇いがちに言うのが聞こえた。


 台所に立った僕は、さっそく料理を開始する。玄関から台所に来るまでの十数秒で、手順の組み立てはできていた。……と言ってもまあ、手の込んだものを作るわけではないから、手順も何もないのだけど。

 戸棚から圧力鍋を出してきて、そのなかに餐庭さんが持ってきたタッパーの中身を両方とも入れて胡麻油を数滴垂らし、よく混ぜて火にかける――それだけだった。

「え、それだけ?」

 食卓の椅子に腰掛けていた餐庭さんが、不安げな声を上げる。

「うん、これだけ」

 僕が振り返って頷いた。

「……そう。きみがそう言うのなら」

 餐庭さんはまだ少し不安そうだったけれど、それ以上は何も言ってこなかった。

 圧力鍋で煮ること十分と少し――火を止めて鍋の中身を確認すると、芯の残っていためっこご飯は、カボチャのスープがよく染み込んだリゾットに生まれ変わっていた。このリゾットを二人分の深皿に盛ってプチトマトを添えただけで、今日の夕飯は完成だった。カボチャを煮付けるのに使った醤油と味醂に、焦げ付き防止のために混ぜた胡麻油の風味も乗っていて、塩で味を調える必要もなかった。

「和風カボチャリゾットです。さあ、召し上がれ」

 僕が少し気取った調子で言いながら、座っている餐庭さんの前にリゾットを差し出した。

「すごい……あの失敗作が、こんな美味しそうになるなんて……」

 餐庭さんは目を丸くして感動している。その様子に少し照れ臭くなりながら、僕も餐庭さんの向かいに着席した。

「美味しそうに見えるだけで、実際に美味しいかどうかは保証しかねるけどね。思いつきの即席料理だし。まあ、ともかく……いただきます」

「いただきます」

 僕たちは互いにスプーンを持つと、温かいリゾットを食べ始めた。

 カボチャの色が芯まで染み込んだご飯は、とろとろのお粥みたいになりながらも、芯の部分は形を残している。とは言え、噛みしめるまでもなく解れるほど柔らかく、口をもごもごさせるたびに、ご飯の甘さとカボチャの甘さが舌全体をしっとりと包み込む。

 醤油や胡麻油の塩気や香ばしさが、ともすればぼやけてしまう優しい甘さに輪郭を描き加えていて、このリゾットがおやつではなく、食べる者に腹一杯の満足感を与える主食なのだという説得力を与えていた。

「……うん、美味い」

 僕は思わず自画自賛してしまった。ふと見ると、餐庭さんも口をもぐもぐさせながら、同意するように頷いていた。

「本当に美味しい。すごい、ちゃんとリゾットだ。すごい」

 餐庭さんはスプーンを皿と口との間で忙しくなく往復させながら、スゴイを連呼する。餐庭さんがあんまり感激するものだから、僕もさすがに恥ずかしくなってきた。

「実際のところ、すごいことは全然していないんだけどね。ただ圧力鍋に放り込んだだけだし」

「ううん、すごい」

 恥ずかしさを誤魔化したくて言った言葉は、即座に否定された。

「すごいって、どこが?」

「まず、カボチャとご飯を一緒に煮込もうという発想がすごい。わたしにはとても思いつかないもの。胡麻油を混ぜてコクを出そうというのも、そうだ。こうして実際に食べてみれば美味しいと思うけれど、作る段階で発想するのは、わたしには到底、不可能だ。すごいよ」

「あ、はは……僕、絶賛されてるね……」

 いっそ褒め殺しにされているんじゃなかろうかというほどの絶賛に、苦笑いが出てしまう。

「でも何よりもすごいと思うのは、圧力鍋よ」

 餐庭さんは僕の表情に気づいたふうもなく、スプーンを握り締めて断言した。

「……圧力鍋?」

 聞き返した僕に、

「そうよ!」

 餐庭さんは勢い込んで捲し立てる。

「圧力鍋という言葉はどこかで聞いたことがあったけれど、本物を目にしたのは初めてよ。こんなすごい鍋を持っているという時点でもう、すごいのよ!」

「は、はは……うん。なんかもう、それでいいや」

 僕はくすぐったさに肩をすくめながら、スプーンで山盛りに掬ったリゾットを、大口を開けて頬張った。これ以上、こんな会話を続けていたら、恥ずかしすぎて僕の身が持たない。僕はわざとらしい空咳を打つと、食べることに集中した。

 そうすると、リゾットの味について、また別の感想が沸いてくる。

(……うん、改めて味わってみると、食感がイマイチかも。柔らかいばっかりだから、歯応えが欲しいな。例えば……カボチャの種とか、クルトンとか)

 リゾットに混ざっていたカボチャの皮は、圧力鍋で煮込んだことで、食感のアクセントとして楽しむには柔らかくなりすぎていた。

(あ、むしろ細切れ肉とかベーコンなんかが入っていたら完璧だったかも。胡麻油より、そっちのほうが良かったかな)

 醤油と味醂の味が染みたカボチャリゾットには胡麻油の味わいも合っていると思うけれど、食感のもったり具合を強めすぎてしまっているようにも感じる。

(食感のことも考えると、やっぱり胡麻油より肉類を入れるべきだったか……でも、せっかく野菜とお米でヘルシーな夕食になっているんだから、油かバターで炒めた人参とかニンニクとか、やっぱりクルトン……あっ、和風に厚揚げとか、どうだろうか?)

 ひと噛みごとに四方八方へ思考を転がしながら食べていると、ふいにぽつりと餐庭さんが呟いた。

「……やっぱり、すごいよ」

 空になった皿に置かれた匙が、かちゃりと音を立てる。思わず顔を上げると、餐庭さんは満ち足りた顔で微笑んでいた。

「わたしには失敗作でしかなかったものが、きみの手にかかると立派なご飯になる。きみは魔法使いだ」

「……」

 僕はこのとき、どんな顔をしていただろうか?

 きっと間違いなく、普通ではない顔をしていたのだろう。餐庭さんは、はっと我に返ったように口元を手で隠す。その顔は見る間に赤くなっていく。

「あっ……い、いまのは違うの。まったく無意識に言ってしまったことで……ごめんなさい、忘れて!」

 頬を林檎みたいな色にして慌てふためく姿を見せられたら、こっちまで恥ずかしくなってしまう。

「あ、う、うん。分かった」

「うん……」

 二人して無意味にこくこく頷き合った後、

「そうだ、お茶でも淹れてくるね」

 僕はそう言って席を立った。

「あ……うん。ありがとう」

 餐庭さんの謝礼を背中越しに聞きながら、僕はヤカンを火にかけた。うちには保温機能付きの電気ポットもあるのだけど、一人分や二人分のお湯が欲しいだけなら、ヤカンのほうが手っ取り早いのだ。

 緑茶で一服したところで時計を見れば、もう九時を過ぎていた。表を走る自動車もなく、しんと静まり返っている。

「送っていくよ」

 という僕の申し出を、餐庭さんは断らなかった。

 夜でもすでに寒さはなく、僕は上着を羽織ることもなく、サンダル履きで餐庭さんと歩く。たった五分間の道程は、とくに会話をすることもなく終わった。

 餐庭さんはどうだか分からないけれど、少なくとも僕には、餐庭さんに伝えたいことがあった。でも、それを上手く伝えられる言葉が見つからないまま五分間は過ぎてしまったのだった。

「じゃあ」

 餐庭さんはぽつりと言って、アパートのなかへと戻っていく。

「あ――餐庭さん」

 僕は思わず呼び止めていた。

「……なに?」

 足を止めて振り向いた餐庭さんが、小首を傾げて僕を見る。橙色の照明に照らされたその目は、何かを期待しているように見えた。それは僕の勘違いだったかもしれないけれど、それでも、背中を押された気になった。

「餐庭さん、明日の朝さ、いつもより二十分くらい早起きしてくれる?」

「え……?」

 餐庭さんは傾げていた首を反対側に傾げ直す。

「明日の朝、学校へ行く前にうちへ寄ってほしいんだ。朝食を用意しておくから、食べていってよ」

「……いいの?」

「もちろん」

 僕が笑って頷くと、餐庭さんの顔も花が咲くように綻んだ。

「それならお言葉に甘えて、明日の朝、寄らせてもらうね」

「うん、了解。それじゃあ、また明日」

 僕は短くそれだけ言うと、踵を返して帰宅した。逃げるような小走りになってしまったのは、家に来てくれと頼んだことが急に恥ずかしくなったからだった。

 家までの短い距離を走る間で、明日の朝ご飯に作りたいものの調理手順がたちまち組み立てられていく。さっきは言葉ひとつ思いつけなかったくせに。

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