第1話 春の出会いと春キャベツ その4

 この日以来、餐庭さんは毎日と言っていいほど頻繁に、僕の家で夕飯を食べていくようになった。

 学校内では顔を合せることもほとんどないけれど、下校途中で一緒になって、そのまま僕の家に帰る。あるいは、僕が帰宅してしばらくすると、いったん自分のアパートに帰って私服に着替えてきた餐庭さんがやってきてチャイムを鳴らす。

 ときには、二人とも制服のままスーパーで落ち合って、一人一個限定の特売品を複数買いしてから帰ることもあった。

 ふと冷静に考えると、どうして自然体でいられたのかが自分でも理解できないけれど、その頃の僕は、餐庭さんが家にやってくる生活をごく自然なこととして受け入れていた――いや、“受け入れていた”では意味が少し違うか。きっと、こうだ。

 僕は餐庭さんと過ごす時間を、一緒に食べる夕食を、毎日とても楽しみにしていた。


 それは四月も残り少なくなった、大型連休を数日後に控えたある日のことだった。

 朝、登校した僕が教室に入ると、クラスメイトの視線が一斉に僕へ向けられた。

「……!?」

 僕は戸口で踏鞴を踏んで、教室内をぐるりと見渡す。その瞬間、集まっていた視線はさっと散ったけれど、ちらちらと半笑いで覗き見られているような居心地の悪さは変わらない。

(なんだ……? 僕、何かしたっけ?)

 記憶を手繰ってみても、とくに心当たりはない。

 気持ち悪さを感じながらも自分の席に着いて鞄を下ろしたところで、前の席に座っていた米原が話しかけてきた。

「飯泉、遅い。待ってたんだぞ」

 開口一番、怒られた。

「……何を?」

 呆れ顔で僕は答える。

「おまえが来るのを、に決まってるだろ。聞きたいことが山ほどあるんだからよぉ」

「山ほど!?」

「ああ……嘘だ。ぶっちゃけ、ひとつだ。つまりな、」

 米原は僕の机に片腕を載せて、ずいっと身を乗り出してくると、好奇心を隠すことなく訊いてきた。

「おまえ、餐庭と付き合ってるのか?」

「……え?」

 僕がやっと出せたのは、その一声だけだった。

 唖然としすぎて絶句している僕に、米原はいっそう楽しげに捲し立ててくる。

「おい、なんだよ。隠すなって。もうネタは上がってるんだぞ。見たってやつがいるんだよ、おまえと餐庭が放課後デートしているところをよぉ」

「え……」

 またしても僕は、え、しか言えなかった。でも今度の絶句は、図星を突かれたせいで言葉に詰まってしまったせいだった。

 たしかに昨日の放課後、僕と餐庭さんは一人一玉限定の特売キャベツを買うために、スーパーで待ち合わせをした。買い物が終わった後は、一緒に僕の家まで帰った。そこをクラスメイトの見られていた可能性は大いにあった。

 というか……僕はいままで、自分たちが周りからどう見られるかについて無頓着すぎだったのかもしれない――いや、あまり目立たないようにしようという気持ちはあった。学校内で餐庭さんに話しかけたことがなかったのは、こんなふうに変な噂を立てられたくなかったからだ。

 でも、学校内で声をかけないくらいでは甘かったのだ。学校からそれほど離れていないスーパーで一緒に買い物したりしていれば、いつか誰かに見られるかもしれないと考えてしかるべきだったのだ。

 ――いまさら後悔の念に駆られても、後の祭りと言うしかない。

 僕は、内心の焦りや動揺が顔に出てこないようにするのだけで精一杯だった。

 黙っている僕を、米原はしつこく問い詰めてくる。

「なあ、どうなんだよ、飯泉。ノーコメントってことは、この場合、イエスってことになっちまうぞ?」

「やっ……いや、違うんだ」

 咄嗟に否定の言葉が口を突いた。

「違うって、どう違うんだよ」

「べつに餐庭さんと付き合っているとか、そういうんじゃないんだ。あれはただ買い物を手伝ってもらっていただけで――」

「ってことは、餐庭とデートしていたって噂は、ガセじゃなくて本当だってことか!」

「だからデートじゃないって!」

 思わず大声を出した僕に、教室内で駄弁っていた生徒の視線が一斉に集まる。いや――一人を除いて、だ。

 僕より先に登校してきてた餐庭さん一人だけは、自分の席に着いて前を向いたまま、ぴくりとも振り向かなかった。

 僕の席から見えるのは、すっかり見慣れたチリチリに縮れた髪だけだ。どんな顔をしているのか、僕には分からない。でも……けして居心地の好い気分であるはずがない

「……とにかくさ、」

 逆立つ気持ちを抑えながら、僕は米原にはっきり告げた。

「僕と餐庭さんが付き合っているなんてことは、本当にないから。それだけは、はっきり言わせてもらう」

 自分でも脅すような声音になってしまったと思ったが、米原もそう感じたらしく、わずかにたじろいで、へらりと笑った。

「っ……だよなぁ。うん、俺はそうだと思ってたんだよ、うん。だって、餐庭だぜ。どこのコントの爆発オチだよって顔してる餐庭だろ。いくらおまえが女にモテそうにないからって、餐庭はないよなぁ」

 へらへら笑う米原は、もしかしたら僕に同意を求めていたのかもしれない。でも僕は、喉元まで込み上げているムカムカした気持ちを飲み下すのに精一杯で、何も言い返しはしなかった。

「おい、飯泉? 聞いてるかぁ? おぉい?」

「……」

 僕は黙ったまま、餐庭さんの後ろ姿を視界の端で見る。餐庭さんはさっきからずっと変わらず、自分の席に座ってじっと前を向いている。教室内の声が――米原の無駄にへらへらした笑い声が、耳に入っていないはずがないのに。

 ほどなく、授業開始の五分前を告げる予鈴が鳴ると、僕や餐庭さんを遠巻きにしていた視線も各々の席に戻っていった。噂話や好奇の視線がそれで完璧になくなったわけではないけれど、居心地の悪さは少しだけでも薄まった。授業が始まるのをこんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。

 休み時間になると、朝ほど露骨な視線を感じることはなかったけれど、ふと周りを見ると、こちらをにやにや見ているクラスメイトと目が合ったように思えたりして、まったく気持ちは休まらなかった。休み時間になったと同時にトイレへ行ったり、顔も上げずに次の授業の予習をしたりして、誰にも話しかけられないようにして過ごした。米原も僕のピリピリした雰囲気を察したのか、話しかけてはこなかった。

 昼休みも、学食ではなく、購買で買ったパンを中庭の隅っこで一人ひっそりと食べ、授業開始の一分前まで教室に戻らないようにした。

 餐庭さんは大丈夫だろうか……と、休み時間中に何度か気にしてみたのだけど、餐庭さんはいつも通り、誰かとお喋りに興じたりすることもなく、机に教科書とノートを広げて勉強していた。

 餐庭さんの後ろ姿はいつもとまったく変わらない、完璧なくらいいつも通りだったけれど、僕にはなぜか、とても苦しそうに見えた。

 それなのに……僕は何もしなかった。

 近づいて声をかけたりしたら、付き合っているなんていう噂を肯定するようなものだし、何もしないのが正解だったと思う。でも、そう思うけれど、それでも何かするべきなのではないか――と思い悩んでいるうちに、その日の学校は終わってしまった。

 放課後の鐘が鳴るなり、餐庭さんは誰よりも早く教室を出ていった。

「なあ、いいのか……?」

 米原が餐庭さんの出ていったほうを見やりながら小声で訊いてきたけれど、僕には溜め息を吐くことしかできなかった。

 その晩、餐庭さんは僕の家に来なかった。

 いままでだって、べつに毎日かならず来るという約束をしていたわけではない。だから、とくに連絡もなく姿を見せなかったというのはおかしなことではない。というかむしろ、それが当たり前なのだ。連絡もなく、当たり前のようにやって来ていたことのほうが不自然だったのだ。

 だから、すっかり日が暮れた時刻になっても居間がしんとしていることを理不尽だと思ったり、テレビの音がやけにうるさく聞こえるなと苛立ったり、二人分作った晩ご飯が冷めていくことにやきもきしたり、待ちきれずに一人で食べてしまった後も、残ったもう一人分には手をつけないでラップをかけて取っておく――なんてことは全て無意味だ。

 なぜなら、餐庭さんは当然のように来ないのだから。

 そう――来なくて当然。それなのに、僕はその晩、携帯が気になって、夜半になっても寝付くことができなかった。

(連絡くらいしてくれたっていいじゃないか……!)

 携帯になんのメッセージも入ってこないことが眠れないほど気になるのに、僕のほうから連絡を入れることは、

(べつにそういう約束をしていたわけじゃないし、僕から連絡する理由がないし……)

 ……などと考えてしまって何もできないでいるうちに、僕は携帯を握ったまま眠りに落ちたのだった。


 翌朝、寝坊した僕は、昨日の晩ご飯の残りを掻っ込んでから駆け足で登校した。

 教室に着いたのは予鈴が鳴った直後で、クラスメイトはとっくに着席して授業の用意を始めていた。だけど……

(……あれ?)

 何か奇妙なものを感じた。

 昨日の教室も居心地悪かったけれど、それとも微妙に違う感覚だ。間違い探しの絵を探しているような錯覚に囚われつつも、僕はとにかく自分の席に着いて、息遣いを整えながら授業の準備をする。

(なんだろう、この妙にざわついているような、戸惑っているような……僕が来る前に、教室で何かあったのか?)

 息が整ってくるにつれて、最初に感じたその疑問がぐるぐると渦巻いてくる。

「なあ、米原。何かあったのか?」

 今日は真面目に前を向いて座っていた米原の肩を小突いて訊ねると、米原は驚いたような顔で振り返った。

「なんだ……おまえは知っているのかと思ってた」

「知ってた? 何を?」

「あれだよ」

 米原はそう言って顎をしゃくり、斜め前方にある席のひとつを指し示した。餐庭さんの席だ――

「――って……」

 そちらに目をやった途端、声も思考も、頭のなかから吹っ飛んだ。

 餐庭さんの席に、知らない女子が座っていた。僕の席からは後ろ姿しか見えないけれど、それでも餐庭さんでないことは一目瞭然だった。なぜなら、餐庭さんの席に座っている女子の髪は、さらりと流れ落ちるような直毛だったからだ。

 はっと気がついて教室中を見まわす。でも、あの爆発したようなチリチリ髪は、教室のどこにも見つけられなかった。それから改めて、教室を見まわし、欠席がないことも確認する。

 ……あれ? それって、どういうことだ?

 欠席がないということは、餐庭さんもこの教室内にいるというわけなのに、見れば一目で分かるチリチリ髪が見つからないとは一体どういうことだ?

「えっと……米原、餐庭さんは?」

 僕が戸惑う様子を眺めていた米原は呆れたような顔をしてもう一度、餐庭さんの席を顎で指した。

「餐庭なら、そこに座ってるだろ」

「え、でも……髪が……」

「そうだよ。だから、おまえに、どういうことなんだって訊いたんだよ。おまえなら、どうして餐庭の髪がいきなり爆発を止めたのか知っているのかと思っていたのに……なあ、本当に何も知らないわけ?」

「知らないよ……」

「そうかそうか。付き合ってるんじゃないんだったもんな」

 米原は茶化すように言いながら前に向き直った。一瞬ムッときたけれど、わざわざ言い返すほどの気は起きなかった。そんなことより、いまは餐庭さんのことで頭がいっぱいだった。

 改めて、僕は餐庭さんの席に座っている女子を見る。

 たしかに背格好は餐庭さんと同じくらいだ。首や耳をすっかり隠すくらいの髪も、餐庭さんと同じくらいだ。あのチリチリ髪を一本一本まっすぐに伸ばしたら、いま僕が見ている髪になるかもしれない。

 とすると、やっぱり……いま餐庭さんの席に座っている、まっすぐな髪のあの女子が餐庭さん本人なのか……?

 僕が彼女をじっと凝視してるうちに授業開始の鐘が鳴って、一時間目の授業を受け持つ先生が入ってきた。先生は出席簿を手にして教室内を見やり、餐庭さんの席を見て驚いた顔をする。

「餐庭……だよな」

 先生が漏らしたその言葉に、餐庭さんの席に座る女子は、

「はい」

 ただ一言、はっきりと答えた。

「……そうか。うん、そうだよな」

 先生はぎこちなく言いながら出席簿を置いて、授業を始める。だけど、僕の頭は、いま彼女の発した声のことでいっぱいだった。一言しか発さなかったけれど、いまのは間違いなく餐庭さんの声だった。

 ということは、やっぱり……餐庭さんの席に座っている彼女は、餐庭さん本人だということなのか!?

 授業と関係ないことで悩んでいる僕をよそに、先生は授業を進めている。

「じゃあ……餐庭、この問題を前に出て解いてみてくれ」

「はい」

 先生に当てられた彼女は、席から立ち上がってホワイトボードの前まで行き、そこに淀みなく数式を書きつける。

「……うん、正解。いいよ、席に戻って」

「はい」

 餐庭さんはこちらに向き直って、自分の席へと戻った。

 そのとき、彼女の顔が見えた。

 眉のあたりできれいに整えられた前髪と、はっきり見える二つの瞳。小作りな鼻筋に、リップも何も付けていないのだろう薄い唇――ふわりと流れるストレートの髪型とも相まって、それは誰が見たって美人だと言い切るに違いない顔立ちだった。

 彼女は間違いなく美少女だった。爆発したようなチリチリ髪をぼさぼさに放置していた餐庭さんとは大違いの、可愛い少女だった。だけど同時に、僕は彼女が餐庭さんであることも確信していた。顔の下半分――鼻や唇、頬のほっそりした輪郭は餐庭さんだった。

 ……もうこれ以上、疑う理由を探すのは止めよう。

 彼女は餐庭さんだ。どうやってかは知らないけれど、餐庭さんはチリチリの髪をまっすぐにしたのだ。ストレートパーマとか、そういうのを施したのだろう。

 でも、なんで今日? 昨日まで身なりにまったく頓着していなかったくせに、どうして今日、いきなり変身したんだ? 一体どうして? 僕は一体どうしたらいいんだ?

 千々に乱れる思考を束ねられないまま、一時間目は終わった。ノートは真っ白のままで、授業の内容は当然、少しも頭に入っていなかった。

 先生が教室を出ていってすぐ、米原が振り向きながら話しかけてくる。

「んで、朝の話の続きだけど……餐庭がいきなり一晩で劇的イメチェンしたのって、おまえと本当になんも関係ないの?」

「いや……知らん……」

「そうかぁ?」

 米原はまた茶化すように言ってくる。

「んまぁ、なんにしても、クラスに可愛い女子が増えるってのは大歓迎だよな。っつうか、俺もあんな可愛い子と付き合ってるとか噂されてぇ! ああくっそ、餐庭があんな美人になるって分かってたら、俺もガンガン攻めてたのに……おまえ、三手先まで読み切れる軍師か! 孔明か!」

 朝にほとんど喋る時間がなかった分を取り戻すかのような勢いで、米原はべらべら捲し立ててきた。

 僕は、

「そうだな」

 とか、

「面白いな」

 とか、適当に相槌を打っていたと思う。正直、まったく聞いていなかった。ただずっと、他を見るふりをして、視界の端で餐庭さんのことを見続けていた。

 餐庭さんは休み時間になるたび、女子連中に取り囲まれて質問攻めにあっていた。

「この髪どうしたの?」

「どうしてイメチェンしたの?」

「好きな人でもできたの?」

「っていうか、やっぱ飯泉と付き合ってるの?」

 ……そうした好奇心丸出しの質問を、餐庭さんは「どうでもいいでしょ」の一言で撥ね除けていた。

 最初のうちはそれでもしつこく集っていた女子たちも、三時間目が終わった後の休み時間には大分数が少なくなっていた。

 昼休みに入ると、餐庭さんはすぐにどこかへいなくなった。僕は米原たちと学食で食べたのだけど、学食で餐庭さんを見ることはなかった。

 午後の授業が始まる前には、餐庭さんも教室に戻ってきたけれど、もう誰も話しかけにはいかなかった。

 僕も一日ずっと、斜め前方の席に座る餐庭さんの後ろ姿を目の端で見ていただけで、一度も話しかけることはなかった。餐庭さんからも、僕に話しかけてくることはおろか、こちらに視線を投げてくることもなかった。

 僕たちは一度も目を合わすことさえないまま、放課後を迎えた。

 掃除当番を終わらせて戻ってくると、餐庭さんはまだ教室に居残っていた。自分の席に座って、誰かを待っているかのように、所在なさそうにしていた。

 僕は気にすることなく自分の席に戻って鞄を取り、教室を出た。餐庭さんの席のすぐそばを通り過ぎるとき、一瞬、餐庭さんが僕のほうに何か言いたげな視線を投げてきたような気がしたけれど、気づかなかったふりをして教室を出た。

 教室にはまだ他にもクラスメイトが残っていて、そっちのほうが気になったのだ。

 廊下をなぜかいつもより大股に歩いて昇降口まで降り、靴を履き替えて校門を抜ける。同じ制服の連中がまばらに歩いているなかを足早に擦り抜けて数分ほど歩いたところで、ついに、背後から大声で呼び止められた。

「待ってよ!」

 僕の足は、びくりと止まった。

 自分でも、声をかけられることを――声をかけてくる相手が後を追ってきていることを予想していたのかどうかは分からない。でも、僕の心を占めていたのは、驚きではなく緊張だった。

「……」

 なんと返事するべきか分からないまま、僕はぎこちなく振り返る。かけられた声で分かっていたけれど、すぐそこに立って僕を睨んでいたのは餐庭さんだった。逃げるように足早だった僕を追いかけるため走ってきたのだろう――白々しいほどまっすぐだった髪を乱れさせ、肩を大きく上下させている。

「はあっ……飯泉くん、どうして……避けるの……!?」

 息を切らせながら投げつけられる言葉に、僕は思わず目を逸らした。

「べ……べつに、避けてなんかないよ」

「目を逸らしながら言う!?」

「それとこれとは関係ないじゃないか。だいたい、僕と餐庭さんはべつに、一緒に話ながら下校したりするような仲じゃないし」

「……そうでしょうね。わたしなんかと一緒に下校して、変な噂を立てられたりしたら嫌だものね」

 餐庭さんの声が一段低くなる。ぼさぼさだった前髪から解放された瞳が、恨みがましく僕を睨む。

 ……って、どうして僕が全部悪いみたいに睨まれなくちゃいけないんだ?

「それはこっちの台詞だよ」

 考えるよりも先に、言葉が口を突いた。いったん口火を切ると、言葉は後から後から溢れて出る。

「餐庭さん、せっかくイメチェン成功したのに、僕と一緒にいたら変な噂を立てられて嫌な思いをすることになるんじゃない? それじゃ男も寄りつかないし、せっかく可愛くなれた意味がないでしょ。それに僕だって、きみに目をつけた男どもに誤解されるのも迷惑だし、因縁を付けられたりしたら面倒ってだけじゃ済まないだろうし、そんなの御免だよ」

 餐庭さんに向かって捲し立てながら、頭の片隅に残っていた冷静な部分が青ざめている。どうして僕は餐庭さんにこんなことを言っているんだ? 僕は何が気に入らないんだ? どうしたいんだ!?

「……」

 餐庭さんは何も言ってこない。黙ったまま、驚いたとも不思議がっているとも見える目つきで、僕をじっと見ている。

 なんだよ……何か言えよ。言ってくれよ。

 でないと、僕はまた馬鹿なことを言ってしまうじゃないか――!

「……わたしは、」

 僕が沈黙に耐えきれなくなる寸前、餐庭さんが口を開いた。

「わたしはただ……きみが、女性に対する趣味の悪い男だなんて噂を立てられたら嫌だろうと思って、わたしなりに頑張ってみただけなんだ。きみに嫌な思いをさせるつもりじゃなかったんだ……すまなかった。ごめんなさい」

「あ、謝られても……困るし……」

 僕の口を突いたのは、またしても責任を擦り付けるような言い草だった。

「そうか……うん、ごめ――ああ、違う。わたしがきみに謝るようなことは、何もないんだったね」

 餐庭さんは明らかに無理している様子で微笑む。

「あ――」

 僕はいまさら、弁解の声をかけようとする。でも、かけようとしただけだ。あ、から先の言葉が何も出てきやしない。餐庭さんは僕の言葉を待っていてくれたというのに!

「……じゃあ、わたしは行くね」

 餐庭さんはもう一度、全然楽しくなさそうに微笑んで、踵を返した。

「あ……」

 僕がまたしても、あ、しか言えないでいるうちに、餐庭さんは僕に背を向けて走っていってしまった。餐庭さんのアパートは僕の家と同じ方向だから、餐庭さんがいま走っていった方角は、家に帰るのとは全然別の方角だ。

 闇雲に走っていただけなら追いかけたほうがいいんじゃ――。

 一瞬、そんな思いが過ぎったけれど、

(……大丈夫だよ、子供じゃないんだ。それに、僕に追いかけられても迷惑なだけかもしれないし)

 言い訳の気持ちで、すぐに塗りつぶされた。

 僕は一人でとぼとぼと帰宅した。この期に及んで後ろ髪を引かれるように重たくなる足取りに、自分で自分に舌打ちが止まらなかった。

 舌打ちをするくせに、踵を返して追いかけようとはしない――自分がこんなに駄目で無様なやつだったことを、僕はいままで知らなかった。よくまあ、知らずに今日まで生きてこられたものだ。

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