第1話 春の出会いと春キャベツ その3
僕は来客用のスリッパに履き替えた餐庭さんを、居間に通した。
我が家はいわゆるLDKで、居間と食堂、台所がひとつの大部屋にまとまっている。だから、僕が台所に立って料理を始めると、居間のソファに座ってもらっていた餐庭さんはいつの間にやら食卓のほうに移っていて、僕が料理するのを後ろから眺めていた。
「何を作るの?」
そう聞かれて、僕はちょっと考えてから、こう答えた。
「レバキャベ炒め、だね」
「……レバニラ炒めのニラじゃなくてキャベツ版?」
「正解。あ、ニンニクは入れないほうがいい?」
「ううん、平気。というか好き」
「なら、ちょっぴり入れるよ」
今日のお昼は、豚レバーとキャベツを炒めるだけの『レバキャベ炒め』だ。といっても、使うレバーは生のものではなく、一昨日に塊のまま茹でたレバーを味噌漬けにしていたものだ。
その味噌漬けレバーを薄く削いだものと、ざく切りしたキャベツを炒めるわけだが……すぐには炒めない。
(まずはイメージだ。炒め物は一瞬で決まるから、手順をしっかりイメージしないとだ)
まずは頭のなかで炒めてみる。レバーとキャベツでは当然、火の通り方が違うわけで、何も考えないで一緒くたに炒めたら、一方が焦げて一方が生焼け、という事態にもなりかねない。
(普通はレバーに火を通したところでキャベツを投入するものだけど、今回は生レバーじゃなくて茹でたレバーを使うわけだから……あれ? 一緒くたに炒めちゃって良いのかな? あれ?)
首を捻りつつもう一度イメージしてみたけれど、やはりそれで良いような気がする。
――といわけで、イメージは固まった。後は実際に炒めるだけだ。
まずは中華鍋に胡麻油をたっぷりめに引いて、細切れにしたニンニクを炒める。炒めると言うより、鍋底に溜めた油で素揚げする感じだ。そうやってニンニクに熱を通しながら、フライ返しで油を掬って鍋肌に塗りつけるようにして、鍋全体に油を馴染ませていく。
油から湯気が立ってきたら、キャベツとレバーを一気に投入して、一気に炒める。火は強火で、弱めてはいけない。がんがんに熱した油で一気に仕上げるのが炒め物のコツだ――と、僕は思う。
普通のフライパンで、弱火や中火なんかで野菜炒めを作ると、『野菜炒めの野菜スープ漬け』とでも名付けたくなるような、べしゃべしゃの出来になってしまう。あれは美味しくない。
そうならないために、湯気が立つほど熱した油で素揚げするようなつもりで野菜の表面を一気に焼き固めるのだ。
そのとき気をつけることは、一瞬たりとも鍋を混ぜる手を止めないことだ。だから、火を通した後にかけまわす調味料も、あらかじめ全部混ぜ合わせておく。今日のレバーには味噌味がしっかり染みているから、市販の塩だれをそのまま使った。
最後に、これまた市販の煎り胡麻を振りかけて完成だ。
「はい、おまたせ」
できたて熱々レバキャベ炒めの大皿とご飯二膳を角盆に載せて、餐庭さんの待つ食卓に持っていった。なお、ご飯は、熱いままラップで包んで冷凍庫に仕舞っておいたのを電子レンジで温め直して茶碗に盛ったものだ。
「ありがとう。いただきます」
餐庭さんは小さくお辞儀をすると、大皿の炒め物に箸を伸ばして食べ始めた。いつもの癖で、取り分け用の小皿を出し忘れていたけれど、餐庭さんは気にせず、ご飯の上にレバキャベ炒めを載っけて食べた。
「ん……んっ、んん! おいひっ……!」
餐庭さんは一口食べるや、リスが頬袋にものを溜め込むみたいな勢いで、炒め物とご飯をまとめてがつがつ掻っ込み始める。
「って、僕の分がなくなるじゃないか!」
僕も彼女の向かい側に着席すると、ご飯をレバキャベ炒め丼にして食べ始めた。
……うん、美味い! 思わず自画自賛の味だ。
ニンニクの香りが染みた熱々の胡麻油で一気に仕上げたキャベツの甘みと、しゃっきり瑞々しい歯応え。薄切りでも濃厚な味を主張する味噌漬けレバーの、しっとりした食感。ともすればしつこくなりがちな胡麻油の風味を、レモンの酸味が利いている塩だれが、きりっとした後味に仕上げさせている。最後に振った煎り胡麻の香ばしさも、舌をさっぱりさせるのに一役買っていた。
ただし……どうせご飯と一緒に食べるのなら、塩だれではなく醤油だれや味噌だれのほうが良かったかもしれない。塩だと、少々あっぱりしすぎだったかも……。
そう思って餐庭さんの顔をちらりと窺うと、餐庭さんはちょうどご飯茶碗を空にしたところだった。
僕と目が合った彼女は、少し恥ずかしそうに口元を笑ませる。
「ごちそうさまでした……とっても美味しくて、がっついちゃった」
「いい食べっぷりだったね」
少し笑いながらそう言ったところで、僕は餐庭さんがまだ右手に箸を持ったままなのに気がついた。
「ご飯のおかわり、持ってこようか?」
「あ……うん」
餐庭さんはいっそう恥ずかしそうにしながらも、空のご飯茶碗をこちらに差し出してきた。
冷凍ご飯をもう一膳分、レンジで温め直してあげると、餐庭さんはレバキャベ炒めの残りと一緒に、また見事な食べっぷりを見せてくれた。
食後の緑茶を飲みながら、僕はいまさらなことを訊ねた。
「なりゆきでお昼ご飯を出しちゃったけれど、良かったのかな。餐庭さんの家でも、お昼ご飯を用意していたんじゃない?」
餐庭さんはゆっくりお茶を啜ってから、言った。
「飯泉くんもなんとなく分かっていると思うけれど、家は母子家庭なの。母さんもわたしも料理の腕はからっきしだから、ご飯はそれぞれ買って済ますようにしているの」
「じゃあ、家に帰ってもご飯はないっていうわけか」
「そういうわけ。だから、お昼をご馳走してもらって感謝しているよ。ありがとう」
そう言いながら、餐庭さんは鞄から財布を取り出した。
「いいよ。お金は」
僕はその動きを止める。
「でも、ただでご馳走になるのは……」
「本当にいいって。このくらいでお金をもらったんじゃ、かえって申し訳なくなっちゃうし」
「……だったら、洗いものはわたしにさせて」
「うん、それなら是非ともお願いするよ」
交渉成立だった。
お茶を飲み干した餐庭さんは、張り切って洗いものを始める。
僕は固く絞った台拭きで食卓を拭きながら、台所に立つ餐庭さんの背中に向かって、なんとなく話しかけた。
「今日のお昼ご飯って、僕が誘わなかったら何を食べるつもりだったの?」
「ん……スーパーのお弁当、かな。土曜日は学食がお休みだから」
「ああ、そっか。お昼はいつも、かならず学食で食べていたもんね」
「かならずって、まるで毎日欠かさず観察していたみたいな言い方だ」
餐庭さんは肩越しにちらりと振り向いて、冗談めかした。
「あっ、いや、僕もお昼は学食だから、いつも見かけるなぁって」
なんて誤魔化し笑いを浮かべてみたけれど、冷静に考えてみると、学食に餐庭さんがいるかどうかをいつも気にしていた僕は、ちょっとストーカーっぽかったかもしれない……。
「あっ、そうだ!」
なんて、思わず話を逸らしてしまった。
「……?」
「餐庭さん、夕飯はどうするの?」
「やっぱりお弁当かな」
今度は振り返らないで洗いものを続けたまま、餐庭さんは言った。
そのとき、餐庭さんがどんな顔をしていたかなんて見えなかったし、声だって普通だった。でも、なぜか僕はこんなことを思った。
一人で夕飯を食べていると、部屋のなかの誰もいない空間がやけに広く感じられるんだよね……。
……気がつくと、僕は餐庭さんに言っていた。
「どうせだし、夕飯も食べていったら?」
「え……」
ちょうど洗いものを終えたばかりの餐庭さんが、びっくりした様子で振り返る。前髪で目元が隠れていても、戸惑っているのが一目で分かった
僕はしどろもどろになりつつも口早に続ける。
「あ、ええと、ほら……弁当を買いに行くのも面倒だろうし、弁当代も馬鹿にならないって思うし、それに僕としても、一人分だけ作るよりも二人分くらいまとめて作ったほうが楽だし……どうかな?」
僕が言葉を重ねる間、餐庭さんはじっと僕を見つめていた。そして、僕が言葉を切ると、餐庭さんは少しだけ黙った後、おずおずと口を開いた。
「……迷惑じゃない?」
「全然!」
「じゃあ、またしてもお言葉に甘えさせてもらうよ」
「うん、そうして。あっでも、あんまり期待はしないでね」
「いまのレバキャベ炒めと同じくらい美味しいの、期待してる」
餐庭さんは楽しげに口元を微笑ませた。
「そのくらいの期待にだったら、応えられるよう頑張ってみるよ。さて……」
僕は壁掛け時計を見上げて、続ける。
「夕飯時までにはまだまだ時間があるし……餐庭さん、一度帰ってから、六時くらいにまた来るようにする? って、家が遠いんだったら、それじゃかえって面倒かな」
「家は、ここからわりと近いよ。でも、帰ってからまた来るのは面倒だから、飯泉くんさえ良ければ、夕飯のときまでここにいさせてくれないかな」
「え……うん、べつにいいけど……」
「ありがとう」
餐庭さんは軽くお辞儀をすると、居間のほうのローテーブルに鞄から取り出した問題集やノートを広げて勉強を始めた。
僕も他人のことは言えないけれど、餐庭さんも大概、マイペースなひとだと思う。
まあ……寛いでいるようだし、いいか。こっちはこっちで、夕飯の仕込みを始めるとしよう。
普通なら夕飯を作り始めるには早すぎる時間だけど、いまから取りかかれば、じっくり煮込むことができる。……というよりも、煮込み料理を作りたいから早めに取りかかる気になったのではなく、その逆だった。
いつもなら勉強するにしてもゲームするにしても、居間のテーブルやテレビを使っている。でも今日は、そこに餐庭さんがいるわけで……居間に行くのが照れくさくて、いまから料理を始めようと思い立ったのだった。
で、いまから作るのなら、時間のかかる煮込み料理にしよう――というわけだった。
(煮込み料理というと……おでん、ポトフ、シチューやカレー……あっ、こういうのはどうだ!?)
冷蔵庫や野菜籠の中身と相談しながら、頭のなかでレシピと手順を組み立てていく。
「――よし!」
頭のなかで料理が完成したところで、実際の調理に取りかかった。
作るのはロールキャベツだ。ただし、キャベツのなかに詰めるのは豚挽肉ではなく鶏挽肉で、煮込むスープもトマトやコンソメではなく、水炊きの汁にする。
名付けるのなら、『鶏肉ロールキャベツの水炊き風スープ煮込み』だ……って、そのまんまか。
そんな由無し事を考えながら、まずは水炊きのスープを準備する。といっても、冷凍で売っていた鶏のぶつ切りをそのまま鍋に放り込んで、水から煮立てるだけだ。
詰め物を作る。冷蔵庫から出した鶏胸肉の挽肉、卵、塩、片栗粉をボウルのなかに入れて、とにかく捏ねる。そこへさらに、新玉葱と椎茸のみじん切りも入れて、もっと捏ねる。椎茸は、干し椎茸をタッパーのなかで水に漬けて、昨日から冷蔵庫に入れておいたものだ。
しっかり混ざって粘りけが出るまで捏ねたら、ひとまずはそのままにしておく。
次はさっき買ってきたキャベツの葉を一枚ずつ剥がして芯を切り取り、鍋に沸かしたお湯でさっと湯がいて柔らかくする。茹ですぎると味が抜けそうなので、さっと湯がいたら、後は麺棒でごろごろと伸して柔らかくさせてみた。
一方、数分ほど煮立たせていた水炊きのほうにはアクがたっぷり浮いていたので、それをお玉で取り除く。そうしたら、火を弱めてさらに煮続け、鶏の旨味が汁にたっぷり染み出ていくようにする。
水炊きのアク取りが終わったら、いよいよ肉団子の種をキャベツで包む作業だ。
肉団子は手の平に包めるくらいの俵型にして、広げたキャベツ葉の手前端に置く。そうしたらキャベツをくるくると巻いていくのだけど、このとき片側の葉だけを折り畳んで巻き、コロネのような三角錐の形にする。折り畳まずに尖らせたほうの葉は、巻き終わった後に指でぐりぐり押して、ロールの内側へと巻き込んでいく。こうやって巻くと、爪楊枝で留める必要がないのだ。
そうやって葉巻型に成形したロールキャベツを量産したら、保温鍋に敷き詰める。鍋の端にできた隙間にも、キャベツの芯を押し込んでおく。鍋底をロールキャベツでぴったり埋めたら、その上に、水炊きの汁から上げた鶏のぶつ切り、別に用意した人参の半月切り、長ネギの斜め切りを載せる。そして最後に、水炊きの汁を静かに注いでいく。
保温鍋というのは、魔法瓶の鍋版とでも言うようなものだ。鍋自体より一回り大きな蓋付きの容器に鍋を容れることで、火にかけ続けなくとも鍋の中身に熱を加え続けられる、という調理器具である。
保温鍋を使う利点は、ガス代が節約できるだとか色々あるけれど、個人的には煮崩れないというのが、すごくありがたい。ちょっと巻きが緩かったりするとすぐに崩れてしまうロールキャベツには、最適だと思うわけだ。
具材とスープを入れた保温鍋を一煮立ちさせたところで保温容器に容れて、調理完了だ。後は一時間から二時間くらい放置するだけだ。
(さて……)
伸びをしながら壁掛け時計を見ようとして振り向いた途端、予想以上に近いところからこっちを見ていた餐庭さんと目が合った。
「うわっ!?」
僕は飛び上がって驚いた。
餐庭さんはてっきり、居間のローテーブルで勉強していると思っていたのに、いつの間にやら台所近くのダイニングテーブルに座っていて、頬杖を突きつつこちらを見ていたのだった。
「あ、餐庭さん……いつから、そこに……というか、何をしているの……?」
僕が心臓がばくばく言うのを手で押さえながら問いかけると、餐庭さんは頬杖を突いたまま、淡々と答えた。
「三十分か四十分くらい前から、かな。料理しているところを眺めていたの」
「え、そんなに前から……っていうか、そんなにずっと!? 三十分も眺めていられるほど楽しい動きはしていなかったと思うんだけど」
「ううん、楽しかった。誰かが料理している姿を見るの、久々だったから……?」
餐庭さんは自分の言葉に、自分で首を傾げた。頬杖を突いたままだというのに器用なものだ。
そうえいば、餐庭さんは母子家庭で母親も餐庭さん自身も料理をしないと言っていたけれど、以前は父親が料理をしていたのだろうか? だから、男の僕が料理している姿に懐かしさを覚えたのだろうか……?
僕がそんなことを想像していると、餐庭さんははたと思いついたように立ち上がった。
「料理が終わったのなら、洗いものはわたしがする」
「あ、うん。じゃあ……お願いします」
一瞬、じゃあ一緒にやろうか、と言いかけたけれど、それを言葉にする勇気はなかった。
いくら餐庭さんがチリチリ髪の女子っぽくない女子でも、やっぱり女子だ。台所に並んで立って洗いものなんかして、肩がぶつかったり、手が触れ合ったりしたら、僕はうっかり皿を割ってしまうかもしれない……そこまでは言い過ぎかもだけど、無駄に緊張することは間違いなかった。
というわけで、僕はダイニングテーブルに着席して、餐庭さんが台所に立って洗いものをするのを眺めていた。さっきと互いの位置を入れ替えた構図だ。
後ろ姿をただ眺めているのも間が持たないし、何か話しかけようか……そう思っていたら、餐庭さんのほうから、僕に背中を向けたまま話しかけてきた。
「料理が出来るの、すごいね」
「え……いやっ、そんな大したものじゃないよ。結構適当にやっているところも多いし」
「そうなの?」
「そうだよ。例えば、本当なら冷凍肉は解凍してから煮たほうがいいんだけど、出汁が取れればいいし……って、冷凍のままで煮ちゃったし」
「それ、何か問題?」
「え」
「出汁が取れればいいんでしょう。なら、当に適しているという意味での適当なやり方だったのでは?」
「え……そ、そうかな?」
「わたしに聞かれても分からない」
餐庭さんは呆れたような声で笑いながら、洗った鍋や食器を水切り台に載せていく。料理はからっきしだと言っていたけれど、その言葉を疑ってしまうほど手際が良かった。
餐庭さんは洗いものを短時間で終わらせ、台所全体を台拭きで拭くところまでやってくれた。
「餐庭さん、洗いものは手慣れているんだね」
「作るのは母さんの仕事で、片付けるのはわたしの仕事……昔はそうだったから」
餐庭さんは、はにかみ笑いしながら振り返る。でも、僕の顔はたぶん変なふうに引き攣っていたのだろう――振り返った餐庭さんは、あ、と声を漏らしてから苦笑混じりに頭を振った。
「ごめん。こういうことを言うと、みんな、そういう顔をするんだった。忘れていた、ごめん」
「いや……なんかこっちこそ、ごめん」
ここからどう会話を繋げていいのか分からなくなってしまう僕に替わって、餐庭さんは心持ち弾んだ声で聞いてきた。
「そういえば、飯泉くんのご両親は共働き?」
「あ……ううん。父さんが急に転勤になって、母さんもそれについていったんだけど、僕は受験間際だったから、こっちに残ることにしたんだ。だから、一人暮らしみたいなものかな」
「……編入手続きすれば良かったんじゃない? それとも、そんなにいまの高校が良かったの?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど、面倒だったというか……」
「一人暮らしがしてみたかった?」
「……うん、まあ」
からかい混じりに言われて、僕は観念しながら頷いた。
餐庭さんは、それがさも面白いことのように笑う。少し芝居がかっているようにも見えたのは、僕の気のせいだろうか。
やがて笑いを収めた餐庭さんが、ふと感心そうに言った。
「なんにしても、すごいね。わたしと似たようなものなのに、ちゃんと自炊しているなんて、すごいよ」
「そんなに大したことじゃないって、本当に。料理するのは小学生の頃から趣味みたいなものだっただけだし」
「それがもう既にすごいよ。わたしなんて、あなたは片付けをやってくれればいいからね、って遠回りに手伝いを断られるくらいだったもの」
「それはそれは……まあ、子供に包丁を持たせたくない親もいるだろうし、仕方ないよ」
「フォローありがとう。でも、わたしが断られた手伝いは、煮物の味付けやパスタを茹でることだったんだけどね」
自虐のつもりか、餐庭さんは肩をこっそりすくめる。
こういうときにどうフォローすればいいかなんて分かるはずもない僕は、素直に話題を逸らすことにした。
「でも、きっと他の家事はできるんでしょ。だったら十分、餐庭さんもすごいよ」
「そうかな?」
「そうだよ! 僕なんて、それこそ料理以外は、先月までまともにやったこともなかったもん。掃除は地味に疲れるし、洗濯物は干すのも取り込むのも大変だし……うん、すごいよ」
大きく頷いた僕に、餐庭さんはくすぐったそうに微笑んだ。
「……あっ、そうだ」
ふいに餐庭さんが、ぱんっと両手を合せて言った。
「わたし、いまからお掃除をさせてもらう」
「え、うちの掃除をしてくれるってこと?」
「うん、そう。ご飯を食べさせてもらうんだから、お礼にそのくらいの労働はさせて。あ、もちろん、個人の部屋には入らないようにするから安心して」
「安心って!?」
「わたしも、うっかりベッドの下に掃除機をかけようとして、変な写真集を見つけてしまったりしたくないもの」
「そんなところに隠してないよ!」
「ふぅん、持っていることは否定しないんだ」
「あっ」
いまさら口を押さえた僕を、餐庭さんは唇の片端だけで笑った。
それから三十分後――。
宣言したとおりに家中に掃除機をかけてくれた餐庭さんと僕は、居間のソファに座って一緒にゲームをしていた。
餐庭さんはずっと、居間のテレビ脇に置きっぱなしにしていたゲーム機が気になっていたらしい。
「夕飯までまだ時間があるけれど、どうする?」
掃除を終えた餐庭さんにそう尋ねたとき、餐庭さんは迷わずゲーム機を指差して、
「これがやりたい」
まるで、お菓子をねだる子供のように言ってきたのだった。
そんなわけで僕たちはゲームに興じているわけだが……残念なことに、僕は二人で同時にプレイできるゲームを持っていなかった。そのため、餐庭さんがコントローラーを握っている横で、僕があれやこれやと口出しするという形で遊んでいた。
テレビ画面のキャラクターを操作するのに、いちいち全身で跳ねたり仰け反ったりしながらゲームする餐庭さんの姿を横で見ているのは、存外に楽しいものだった。
時間はあっという間に過ぎた。さっき閉めたカーテンの隙間から見える空もすっかり紺色になっている。
「ねえ、そろそろいいんじゃない?」
ゲームが一段落したところで、餐庭さんが言ってきた。
「そろそろ?」
聞き返した僕に、餐庭さんは呆れ顔。
「晩ご飯。お鍋。ロールキャベツ」
「あっ」
はたと時計を見上げると、もう午後六時を過ぎていた。そりゃ、外も暗いわけだ。カーテンを閉めた時点で気づかなかったとは、僕もよっぽどゲームに熱中していたらしい。自分でプレイしていたわけでもないのに。
「もう十分に煮えているだろうし、じゃあ、ご飯にしようか」
「うん!」
僕たちはゲーム機を片付けると、台所のほうへと向かった。それを待っていたかのように、タイマー予約していた炊飯器が炊き上がりを告げる電子音を鳴らす。
自動で保温設定になった炊飯器のスイッチは切っておくとして、まずは鍋のほうだ。僕は保温容器の中から、まだじんわりと温かい鍋を取り出す。
その鍋を一度、火にかけて温め直してから、二人分の大鉢に取り分ける。薬味もいくつか用意する。ご飯も二人分、茶碗によそう。それらを餐庭さんが食卓まで運ぶ。
「じゃあ……いただきます」
「いただきます」
着席した僕たちは、いそいそと食べ始めた。
(さて……)
大鉢には人参や鶏肉も盛りつけてあるけれど、まずはロールキャベツだ。僕は俵型に巻かれたキャベツのひとつに箸をつける。挟んだ箸にそっと力を込めると、二重に巻かれたキャベツの葉も、その中身の鶏団子も、しっとりと柔らかな手応えを返しながら、二つに切り分けられた。
うん、これだよ、これ。まったく煮崩れていないのに、何時間も煮込んだみたな、この柔らかさ。これこそ、保温鍋で煮る良さだよ!
……と、一頻り感動したところで、切り分けたロールキャベツを箸で持ち上げる。キャベツの鮮やかな翡翠色と、鶏団子の淡い乳白色の取り合わせがまた、なんとも春らしい。
箸で持ち上げたそれを、小鉢に垂らしたポン酢をつけて、口へと運ぶ。
「ん……」
そっと歯を立てた途端、ロールキャベツはしっとりほろりと崩れて、溢れる旨味を口いっぱいに満たさせる。
鶏出汁の染みた鶏団子のこくがありつつもあっさりした旨味と、鶏出汁が染みつつもなお主張してくる春キャベツの甘みが、口のなかでいっぱいに絡み合う。ポン酢の優しい酸味と塩気は、女生徒が教師の目を盗んで刷くリップのように、肉団子のこくとキャベツの甘みをはんなりと際立たせてくれる。って、自分でも何を言っているのだろうか。ともかく、美味しいということだ。
「このロールキャベツ、とろとろで美味しい」
餐庭さんもうっとりと溜め息を吐いている。
「一緒に煮てある人参も、お葱もとろとろだし、鶏のお出汁がたっぷり染みていて美味しい……」
「保温鍋で煮ると、具材の味は抜けないのに、汁の味はしっかり染みるんだよ」
「へぇ、便利なのね」
「でも……鶏肉はやっぱり、ちょっと微妙だね」
冷凍のまま何十分も煮立てた鶏肉は、たしかに鶏の味はするんだけど、鶏のスープを染み込ませたパンみたいな食感だった。いったん旨味が全て流れ出るまで煮込んだ後に保温し、汁気をふたたび染み込ませたのだから、まあ当然の味と食感だ。
「……そうかな?」
と、餐庭さん。
「わたしは鶏肉も十分、美味しいと思う。骨もぽろっと離れて食べやすいし」
「そうかな?」
「うん。美味しい」
餐庭さんは、はっきりと頷いた。なんだかそれが、僕にはちょっと照れ臭かった。
その後も、僕たちの間に会話が止むことはなかった。
餐庭さんが勉強していた科目は何かと訊ねたところから、お互いの得意科目、苦手科目についての話題になり、それから僕が持っているゲームは他に何があるのかという話題になって、餐庭さんがやってみたいゲームについて聞いたりしているうちに、僕たちは満腹になっていた。鍋はまだ少し残っていたけれど、僕も餐庭さんもご飯を一度ずつおかわりしていて、もうお腹いっぱいだった。
「ふぅ……まだ残っているけど、もう食べられないよ」
幸せそうに微笑む餐庭さん。
「うん、僕もだ。残ったのは明日の朝ご飯にでもするかな」
「あ、ずるい」
拗ねた口振りをする餐庭さんに、僕は少し楽しくなってしまう。
「鍋にした日の次の日の朝食は、残った汁で雑炊かうどんっていうのが定番だよね。ご飯もうどん玉もあるし、どっちにしようかなぁ」
「自分だけずるい……」
餐庭さんは心底から羨ましそうに、ますます唇を尖らせた。その顔に、僕は肩を震わせて笑ってしまうのだった。
食後の緑茶で一服した後、餐庭さんは食べ終わった皿を洗いたいと言ってきた。
「いや、いいよ。もう外も真っ暗だし、早く帰ったほうがいいと思うんだけど」
僕はそう言って申し出を断ろうとしたのだけど、餐庭さんは頑として譲らなかった。言い争いをしても時間が過ぎるだけで不毛だったし、結局は僕のほうが折れて、餐庭さんにまたも洗いものをお願いした。
そんなわけで、餐庭さんが家を出たのは、午後八時になろうかという頃になってしまった。
「ごめんなさいね、こんなに遅くまでご厄介になってしまって。それに、わざわざこうして送ってもらうなんて……」
一緒に夜道を歩いていると、餐庭さんが何度目かの謝罪を言ってきた。
僕は大きく頭を振る。
「いや、送るよ、当然。もう人通りもかなりなくなっているし、一人で歩かせられないって」
「飯泉くんは意外と紳士的だ」
冗談めかして、ふふっと笑う餐庭さんに、僕は顔が熱くなるのを実感する。良かった、暗くて。
「でも本当に、送ってくれなくても平気だったんだ。わたしの家、ここからすごく近いから」
「そうは言っても……」
「はい、見えてきた」
「え?」
餐庭さんが指差したほうを見ると、五階建てのアパートが建っている。
「あのアパートの四階の、こっち側にベランダが面している部屋。あれが、わたしの家よ。ね、送ってもらわなくても平気なくらい近かったでしょ」
「……そうだね」
実際、五分も歩いたか分からない距離だった。
確かにこれなら、しつこく迫ってまで送らなくても良かっただろう。要らぬお節介だったか……。
「――でも、」
アパートの前まで来たところで、餐庭さんはこちらにくるりと振り返る。
「送ってくれて、ありがとう。あと、それも」
餐庭さんはそう言いながら握手するように両手を差し伸べてきて、僕が手に提げていた小さな紙袋を持っていった。紙袋の中身は、残ったロールキャベツとスープの入った密閉タッパーだ。餐庭さんがあんまり「ずるい、ずるい」と言うから、タッパーに詰めてあげたのだ。
「それ、冷蔵庫で二日くらいは保つと思うけれど、できるだけ明日の朝に全部食べちゃってね」
「分かってる。飯泉くん、お母さんみたいだね」
餐庭さんは眉をへの字に寄せて、茶化すように笑う。
「それ、口うるさいってこと?」
「心配性だってこと」
「悪かったね、心配性で」
僕は仏頂面で言ったというのに、餐庭さんはさもおかしげに笑ってくれたのだった。
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