第1話 春の出会いと春キャベツ その2

 明けて翌日、水曜日の朝。

 今朝はしっかりと早起きして、朝ご飯を作ることができた。と言っても、メインのおかずは昨日の残りの冷やし茶碗蒸しだし、炊飯器にはご飯も残っていたから、作ったものと言えば半熟卵と味噌汁くらいだ。

 半熟卵は適当に茹でた後に流水で冷やしただけだし、味噌汁も例によって出汁入り味噌を熱湯に溶いただけの簡単なものだ。実にしたワカメも、乾燥ワカメを戻さないで縮んだままのを入れただけだ。

(朝からじっくり料理するのも疲れるし、まあこんなもんだよな)

 誰にともなく言い訳しながら、朝のバラエティ番組を観ながら朝食を済ませた。ちなみに半熟卵は、納豆と一緒に箸でぐちゃぐちゃに混ぜてからご飯に載っけて食べた。

「……」

 ふと思いついて、ご飯茶碗に残ったご飯の上に茶碗蒸しを載せてぐちゃぐちゃ混ぜながら食べてみたら、レンジで温め直したご飯の熱でほどよく溶けた煮凍りがお米に絡んで、思った通りに美味しかった。せっかくの見た目が台無しだったけれど、一人で食べるのには全然、問題なかった。

 昨日より余裕をもって登校していると、途中のパン屋から出てくる女生徒の姿が目に飛び込んできた。前髪で目元が隠れた横顔しか見えなかったけれど、あのちりちり髪は間違いない。クラスメイトの女子、餐庭早桜里だ。

(あいつ、昨日もパンを買っていたよな。もしかして、あれが毎日の朝ご飯だったりするのか? だとしたら、あんまり感心できないというか、身体に良くないと思うんだけど……ああ、あれか。朝食をパンと牛乳だけにするダイエットとか、そういうのか。十分に細いと思うんだけど、女心ってやつは……)

 名前しか知らないクラスメイトの体調を勝手に心配して、勝手に納得する。そして勝手にせせら笑う。

 我ながら、なんとも悪趣味なことだと思った。

 だけど、僕の勝手な思い込みは正解していたようだった。

 翌日以降もほとんど毎朝、僕は餐庭早桜里がパン屋から出てくるところ、あるいは入っていくところを見かけることになった。そして、そんな日は例外なく、彼女は買ったパンと牛乳(たまにジュース)を一時間目が終わってすぐの休み時間に食べてしまう。昼休みには学食でしっかり食べている姿を何度も目撃しているから、やはり、登校途中に買うパンと飲み物が朝食のようだった。

 ……べつに彼女を観察していたわけじゃない。毎朝見かけるし、僕自身が朝食はしっかり食べたいほうだから、つい気になってしまっていただけだ。

 気になりついでにもうひとつ、気づいたことがあった。

 彼女はいつも、一人で食べていた。休み時間に自分の席でパンを食べるのも、昼休みに学食で食べるのも一人だった。


 ●


「おお!」

 その日、教室で携帯を弄っていた僕が唐突に声を上げてしまったのは、いつも行くスーパーのサイトで特売の広告を見つけたからだ。いつもは前日のうちにチェックしておくのだけど、昨日はたまたま忘れていて、休み時間のいま、ふと思い出してチェックしたのだった。

 ――午後一時からキャベツ一玉八十八円。お一人様一玉限り。限定二百個のみ。

 今日は土曜日。

 茶畑高校は県立高だが、土曜日でも授業がある。でも午前中だけだから、授業が終わってからすぐに向かえば、特売の開始時間には十分に間に合う。

(よし……よしよし! このキャベツ、何が何でも手に入れてみせる……!)

 よく分からない気合いが胸のなかで燃え上がるのだった。

 そして迎えた放課後。時計の針は十二時半に差し掛かったところだ。僕は教師が教室を出たのと同時に、鞄を持って廊下へ出ようとしたけれど、ここで誤算がひとつ起きた。

「おいおい、飯泉いいずみ。俺たち、掃除当番だろ。そんなどうどうと、サボろうとするんじゃねえっての」

 前の席に座っている米原に、そう言って呼び止められたのだった。

 しまった……忘れていた。

「……来週月曜の掃除当番は、俺がおまえの分も二倍やってやる。だから、今日は行かせてくれ。今日だけは頼む!」

 僕は両手を合せて懇願した。

「おまえ、そこまで……あっ、そうか。そういうことか」

 最初はぎょっとしていた米原の顔が、ふいに下世話な笑顔に変わる。

「……?」

 怪訝な顔をする僕の肩を、米原はばしばしと叩いてきた。

「なんだ、そういうことだったのかよ。そりゃ、女を待たせるわけにはいかないもんなぁ」

「は?」

「いいって、隠すな。恥ずかしがるなって」

「いや、だから――」

「分かってる。みなまで言うな。掃除くらい、俺がお前の分まで引き受けてやるよ。その代わり、後で色々報告しろよな」

 米原は何やら壮大な勘違いをしているようだ。けどまあ、敢えて訂正する必要もないか。

「すまん、米原。恩に着るよ」

 僕は短くそう言うと、踵を返して教室を出た。

「上手くやれよぉ」

 米原がそう言うのを背中で聞きながら、僕は昇降口へと向かった。


 昇降口に着いたところで、僕はぎょっと立ち止まることになった。こちらに背を向ける形で、靴箱に肩を預けるようにして蹲っている女子がいたからだ。

「えっ、どうしたの!?」

 と声をかけてから、彼女の爆発したみたいなチリチリの髪に気がつく。

 あ……餐庭早桜里だ。

 僕がそう思ったのと同時に、彼女はがたっと尻餅をつきながら、こちらを振り仰ぐ。その顔はやっぱり、餐庭早桜里だった。

「ええと、餐庭さんだよね?」

「え……」

 餐庭さんは小さく肩を震わせ、怯えたように眉根を寄せる。

「あっ、僕は同じクラスの飯泉……飯泉秋寿あきとし

「……そう」

 餐庭さんは納得したように呟いたけれど、たぶん、僕がクラスメイトだというのを思い出したわけではない。僕がクラスメイトだと言ったから、じゃあきっとそうなんだろうな、と思っただけだ。

 ここ数日、餐庭さんを観察していたから分かることだけど、彼女は普段、クラスの誰ともろくに会話をしていない。男子はおろか、女子ともまともに話していなかった。

 餐庭さんはクラスメイトに関心がないようだった。だからおそらく、彼女は僕以上にクラスメイトの顔も名前も覚えていまい。当然、僕の顔も名前もだ。

「……ありがとう。でも大丈夫。少し、ふらついただけだから。気にしないで」

 餐庭さんは小さな声で言う。

 そういえば、餐庭さんの声を初めて聞いたような気がする。勝手に濁声を想像していたけれど、実際の声は水が零れるときのような、きれいな音色をしていた。

 その声をもう少し聞いてみたいと思ったからではないけれど、僕は引き続き、餐庭さんに声をかけていた。

「現に蹲っているひとに、ふらついた、なんて言われたら……放っておけないよ」

「え……」

 僕がそう言ったら、なぜか驚いた顔をされた。ぼさぼさの前髪で目元が隠れているから分かりづらいけれど、ぽかんと開いた唇はきっと驚いているためだ。

「とにかく、立ち眩みにしろ貧血にしろ、保健室に行って休んだほうがいいよ。ええと……一人で歩けそうにないんだったら、付き添うけれど……」

「……ううん、本当に平気。貧血とか、そういうんじゃなくて、ただ……お腹が空いているだけだから」

 彼女は頬をほんのり赤らめた。

「え、お腹が……って空腹!? ご飯、食べてないの!?」

「声が大きい!」

「あっ、ごめん」

 僕は反射的に口を噤んだものの、訪ねずにはいられなかった。

「……朝ご飯、今日もパンと牛乳だけだったの?」

「え……」

「ああほら、餐庭さんっていつも、一時間目の休み時間にパンを食べているでしょ。だから、あれが朝食なんだとしたら、ちょっと少なすぎないかなぁって、いつも思っていて……」

 ……って、これじゃあ、“いつも見ていました”と自白したようなものじゃないか!

 顔がかっと熱くなるのを自覚したけれど、幸いにも餐庭さんには伝わらなかったようだ。

「あ、そういえば……パン屋の近くで、きみのことをよく見かけていたような気がする。だから、どことなく見覚えがあったんだ」

「なんだ、餐庭さんもあそこでよく会うことに気づいていたんだ……っていうか、クラスメイトなんだから見覚えがあるのは当然だよ!」

「ああ、そっか。ごめんなさい」

 まったく悪びれていない謝罪に、僕はむしろ笑ってしまった。

「まあいいや。お腹が減っているだけなんだったら、購買でパンでも買って食べれば元気になるよね」

 だから僕はもう行くよ――と言葉を続けてから、この場を立ち去るつもりだったのだけど、

「あっ……」

 餐庭さんは何かを言いたげに吐息を漏らした。

「なに?」

 つい聞き返してしまった僕に、餐庭さんは恥ずかしそうな小声で言ってきた。

「わたし、今日は財布を忘れてきて……それで、今朝もパンを買えなくて……」

 ……なるほど。

 餐庭さんがこんなところで蹲っているのは、土曜日でも購買で菓子パンが買えることを知らなかったからではなかったというわけだ。

「ちょっと待ってて」

 僕は餐庭さんにそう言うと、早足で購買へと向かった。あんパンをひとつ買って昇降口まで戻ってくると、餐庭さんはまだそこにいた。蹲るのは止めていたけれど、靴を履き替えるための簀の子に体育座りしていた。

「あ……本当に待っていたんだ」

 もしかしたら帰ってしまっているかもな――と思っていたから、体育座りしている彼女を見たとき、少し笑ってしまった。

「……なんで笑うの?」

「いや、なんでもない。それよりも、はい」

 僕は買ってきたあんパンを彼女に差し出す。

「え……」

 彼女はぽかんと唇を半開きにして、僕の顔と、包装されたあんパンとを交互に見やるばかりだ。

「ええと、受け取ってくれると助かるんだけど」

「でも……お金とか……」

「このくらい、気にしなくていいよ。奢られるのが嫌なんだったら、月曜にでも返してくれればいいし……あっ、そうだ。だったら、こうしよう」

 僕は名案を閃いた。

「このパンをあげる代わりに、後でスーパーに来てくれ」

「スーパー?」

「学校からあのパン屋のほうに向かって、もう少し行ったところにあるスーパー。分かる?」

「あ……うん、分かる。たまに使うから」

「じゃあ、食べ終わった後にゆっくりでいいから来て。そうだね……一時半に、店内に入ってすぐのところで待ち合わせよう」

「……」

「じゃあ、後でね」

 僕はあんパンを押しつけるようにして彼女に手渡すと、素早く靴を履き替えて、外へと走り出した。さっき、話している最中に携帯で確認したら、現在時刻は午後一時の十分前だった。思わぬところで時間を食ってしまったけれど、全力で走ればまだ間に合う。

 僕は下校中の生徒を何人も追い越して走り、スーパーに駆け込んだ。肩で息を整えながら時刻を確認すると、一時の五分前。学校からスーパーまで五分で駆け抜けたことになる。自分でもびっくりの新記録だった。

 全力疾走したおかげで、特売用のカートに載って運ばれてきたキャベツを無事に確保することができた。しかも、二個もだ。

 キャベツを確保した後は、店内をゆっくりとまわって、他の食材や洗剤なんかも買い物籠に入れていく。それから、予定の時刻にはまだ十分ほど早かったけれど、出入り口のほうへと戻った。

 餐庭さんはすでにやって来ていた。

 僕が手を振って呼び寄せると、餐庭さんは不思議そうにしつつも近くまでやってきた。

「ありがとう、餐庭さん。わざわざ来てもらって」

 僕は頭を下げながら、すっぽかされる覚悟もしていたんだけど、と胸のなかだけで付け加えた。餐庭さんは律儀な性格のようだ。

「こちらこそ、あんパンをありがとう。おかげで一命を取り留められた」

「それは大袈裟すぎでしょ」

「うん、冗談」

「……」

「それはそれとして、わたしは買い物を手伝えばいいの? 見たところ、後はお会計するだけみたいに見えるけれど」

 餐庭さんは僕が提げている買い物籠を見下ろしながら言う。

「その会計に、餐庭さんの協力が必要だったんだよ」

「言っておくけど、今日は財布がないから、支払いは無理よ」

「それは知ってるよ。そうじゃなくて、ほら、このキャベツ。特売品なんだけど、一人一玉限定なの。でも、二人でなら二玉買えるんだ」

「ああ……」

 餐庭さんは納得の声を漏らして頷いた。

 それから二人一緒に会計の列に並んで、無事に買い物を終えた。

 スーパーを出たところで、餐庭さんのほうから話しかけてきた。

「飯泉くんの家は、ここから近いの?」

「え、うん。歩いて十分かかるかどうか、ってところかな」

「ふぅん……じゃあ、お会計に付き添っただけじゃお礼をした気がしないから、飯泉くんの家まで荷物持ちをするよ」

 そう言いながら、餐庭さんは僕の手から買い物袋を持っていこうとする。そうすると必然的に、彼女の手が僕の手に重ねられることになるわけで……。

「……!」

 僕は謝絶も何もできないまま、買い物袋を持っていかれた。

 いくら、相手がぼさぼさチリチリ髪の女子とはいえ、女子は女子だ。いきなり手を握られて平静でいられるほど、僕は女子慣れしていなかった。仕方ないじゃないか!

「どうしたの? 帰るんじゃないの?」

 固まっていた僕に、餐庭さんは小首を傾げて訊いてきた。

「あ、うん。帰るよ」

 僕は誤魔化すように歩き始めた。

 最初は互いに無言で歩いていたけれど、先に耐えきれなくなったのは僕だった。

「餐庭さんっていつも、あそこのパン屋で、パンと牛乳かジュースを買っているよね」

「うん」

「その……朝ご飯があれだけってことはないよね。自宅でも何か食べてから登校しているんだよね?」

「自宅で何か食べてから登校しているんだったら、わざわざパン屋に寄ったりしないと思うんだけど」

「あ……うん。でもほら、家で食べるご飯だけじゃ足りないから、パンを買い足しているのかもしれないし……」

「違うよ。家で食べてきていないから、パンを買って学校で食べているの」

「……そうか」

 僕はそこで少し言葉を切った。

 ずっと疑問に思っていて、もしかしたらそうなんじゃないかな、と思っていたことに、いまはっきりと「そうだ」と言われてしまった。それはすなわち、「きみの親御さんは朝ご飯を用意してくれないの?」という、さらなる疑問が出てきたということだ。だけど、さすがにこの疑問を口にするのは憚られた。

(もしかしたら、餐庭家は込み入った事情のある家庭なのかもしれない。ほぼ初対面の僕が根掘り葉掘り訊いていいようなことじゃないかもしれない。というか、もしかりにその通りだったとして、そんな事情を聞かされてしまったとしたら……聞いてしまった義務が発生するかもしれないじゃないか!)

 事なかれ主義を訴える思考が頭のなかをぐるぐる駆けまわっているうちに、僕の家が見えるところまでやってきていた。

「あ、そこの緑色の屋根が僕の家」

 そう言った僕の声は、少しほっとしたように聞こえていたかもしれない。

「きみさえ良ければ、玄関先まで運ばせてもらうよ」

「うん、じゃあ……お願いします」

 断るのも角が立ちそうだし、僕は頷いた。

 それからとくに会話もないまま、あっという間に家の前まで着いた。

 僕は玄関の鍵を開けて、

「どうぞ」

 と、餐庭さんをなかに招き入れる。

 餐庭さんは玄関の上がり口に買い物袋を置くと、姿勢を正してお辞儀した。

「今日はありがとう。あんパンの代金は、月曜日に返すよ。じゃあ、失礼しました」

「あ、うん。じゃあ……」

 僕が間抜けな仕草で頷くと、餐庭さんはもう一度ぺこりと頭を下げてから、僕に背中を向けた。と、そのとき、

 ぐううぅぎゅうぅるるるうぅ――。

 それはもう惚れ惚れするほど小節の利いた、腹の虫の鳴き声だった。どちらの腹が鳴ったのかは、自分で自分の腹を抱き締めている餐庭さんの姿を見れば一目瞭然だった。

「あ……あんパン一個じゃ足りなかったよね」

 僕はフォローのつもりで言ったその一言は、どうやら追い打ちをかけただけのようだった。

「……!」

 餐庭さんはこちらに背中を向け、お腹を両手で庇ったまま、びくっと肩を震わせる。ちりちり髪で隠れていても、きっといま、顔が真っ赤なんだろうなぁと想像できた。

「……あのさ、いま買うのを手伝ってもらったものでお昼を作るんだけど、良かったら少し食べていかない?」

 僕は自分でもびっくりするほど自然に、そう話しかけていた。

 餐庭さんも驚いた様子で、こちらに振り返る。

「きみ、料理できるの?」

「普通の家庭料理くらい、ね」

「……すごい!」

 餐庭さんは本気で感心しているようだった。僕はちょっと照れてしまう。

「やっ、そんなにスゴイってほどのものは作れないよ。あくまで、家庭料理だから」

「それでも、すごいよ。わたし、料理は全然駄目だから……」

 餐庭さんは自分で言って、自分でしゅんと俯いてしまった。

 ……どうも、これ以上の立ち話は良くなさそうだ。

「とにかくさ、上がってよ。あ、それとも、この後に用事があったりした?」

「ううん、とくに何もないけれど……」

「じゃあ遠慮しないで。僕も、一人分より二人分のほうが作りやすいし」

 餐庭さんはまだ渋っていたけれど、そこでまた、お腹がぎゅるるぅっと大きな音を立てた。

「このまま帰ると、色んなひとにお腹の音を聞かれちゃうと思うんだけど」

 僕が茶化すように言ったその一言が止めになった。

「……じゃあ、好意に甘えさせてもらう」

 餐庭さんは恥ずかしげに言いながら、靴を脱いだ。

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