第10話

「遅いっ!」



 コクロたちを確保した後、2人を連れて指定された合流場所へと向かう。

ところが、そこにはすでにエミさんの姿があり、長らく待っていたのかムスッとした顔で苛立ちを募らせていた。

それゆえに到着早々、文句をつけられた。



「ちょっと捕まえるのに手間取ったんです……勘弁してください」

「集合時間指定したじゃない! もう1時間過ぎてるのよ?」

「スミマセン……」

「これが未練整理の期限だったらどうするの?」



 なんだか機嫌が悪いらしい。エミさんがこんなに細かいことをくどくど言う人だとは思わなかった。

 俺は女性特有のリアルな怖さを垣間見た気がした。

 そんな中、「あの」という声が上がる。

 足下を見ると、あかねがなにか言いたげな顔で見つめていた。俺はとっさに察して、あかねの背丈に合うように屈んでその顔と向き合った。



「ゴメン、さっきの話の続きたったね」

「はい」



 とあかねが頷く。

 すると、歩調を合わせるようにエミさんが割って入ってきた。



「――さっきの話って?」



 その問いに顔をエミさんの方へ向ける。



「あかねが飼い主に会ったときの話です」

「ああ、そういうこと」

「ここに来るまでの間、どうして未練整理がしたいのかっていう具体的な理由を話してくれるって約束してくれたんです」

「へぇ~やるじゃない……それで?」

「あかねも了承してくれました」



 と言って、再びあかねの方を向く。

 そして、俺は顔を近づけてあかねにあることを頼み込んだ。



「約束通り、話してもらってもいいかな?」

「……わかりました」



 俺の頼みにあかねが小さく答える――と、同時にあかねは少しつらそうな顔つきでその生い立ちを話し始めた。



「私は人間に捨てられた野良猫の子供として生まれました。兄妹は6匹で、その中で私はとても弱く、小さく、なにより成長の遅い子供でした。下手をすれば、カラスの餌になっていたかもしれません」

「野良猫か。俺の近所でもよく見かけるね」

「はい。ですから、人間の大原さんには、よくある話のように思えるかもしれません。でも、私たち猫にとっては生きるか死ぬかの話」

「確かにカラスに襲われて死んだ猫なんて話もよく聞く話だな」

「そんな私を拾ってくれたのがご主人様なんです。ご主人様はある家の軒先にある木の上で降りられなくなっているところを保護してくれました」

「そこから、君はずっと飼い主の家に?」

「はい……。ご主人様はまだ幼かった私のことを本当の娘のように可愛がってくださいました。とても穏やかで優しくて、いつもニコニコしている方でした」



 そう言って、あかねが目を閉じて1人想いふける。

 その口調は物凄く静かで、弱々しく、悲しみが溢れんほどに飼い主への気持ちがにじみ出ていた。

 俺はそんなあかねの半生に耳を傾け続けた。



「まるで日だまりみたいで、私はご主人様のずっとそばにいました。風邪で寝込んでいるときも、縁側で星空を眺めているときも」

「話の通りなら、ずいぶん幸せな人生を送ったんじゃないか? なら、どうして未練整理がしたいなんて言い出したんだ?」

「それは私の死に方に関係があるんです」

「死に方に?」

「……私は……交通事故で死にました……」

「事故? それじゃあ、あかねは飼い主に会わずに死んだのか?」

「いえ、そうじゃなくて……。正確には、私はご主人様の膝の上で死んだんです」

「それは君の飼い主も現場にいたということかい?」

「違います……。そのとき、ご主人様は自宅におられました」

「だったら、いったいどうやって……?」

「……歩いたんです」

「え……?」

「事故に遭った後。私は、右の後ろ足と数本のあばら骨が折れた状態で必死に家に戻ったんです」

「……そして、そこで力尽きたと?」

「ええ、そうです。運良くたどり着いて、私は縁側でひなたぼっこをしていたご主人の前で死んだんです」



 なんという執念だろう――。

 あかねはそこまでして主人を愛していたということか。

 そこまで話を聞き、俺は言葉にならなかった。しかし、あかねの話にはことの発端となった未練らしきモノがない。

 俺はその疑問に達し、あかねを強く追求した。



「だけどさ、あかね。その話には君の未練が含まれていないじゃないか。いったいその話のどこに未練が含まれているんだ?」

「大原さんは、私が最初にいった言葉を覚えてますか?」

「最初って……。入管局で会ったときの話のこと?」

「そうです。そのときに私がお話しした未練整理がしたいという言葉です」

「……もしかして……あかね……君は……」



 とっさに入管局でのことが頭をよぎる。



『――私、一度は天国の扉の前まで行ったんです――』



 その言葉の意味の中には、飼い主のことも含まれていたのだろう。

 おそらく、あかねは飼い主のことを思い出して振り返った。そして、足下の厚い雲の彼方に住まうであろう飼い主を頭に描いた。

優しかった飼い主、笑顔がまぶしかった飼い主――それを思い出していたに違いない。

 必死に訴えるあかねの顔には、未練整理をしたいという気持ちが如実に表れていた。



「お願いです。私に未練を整理するチャンスをください」

「……そうは言っても……」



 問屋が卸さないとはよく言ったものだ。

 俺たちが命じられたのは、コクロとあかねを連れ戻すこと。そこに付け加えて、未練整理なんか行ったら命令違反になってしまう。

 だから、俺はあかねの気持ちを前に黙さざるえなかった。



「アナタの願いに影響するからですか?」



 ところ、とっさにあかねから思わぬ言葉が飛び出る。

 それは局員しか知らない秘密――。

俺は驚きの想いから、すかさず口を開いた。



「その話をどこで……?」

「コクロちゃんです」

「……コクロが?」


 あかねの言葉にゆっくりと後ろを振り返る。

 コクロ――。

 顔を傾けて下を見ているが、間違いなく話したらしい。わざとらしく目線を合わせないようにしているようだったが、一瞬だけ目が合ったことで確信を抱けた。

 とっさに問い詰める。



「おい、コクロ! オマエ、話しちゃいけないこと話したのか?」

「…………」

「黙ってないで、なんとか言えよっ!」

「……ゴメン……」

「安易に誰かに話すなって、あれほど言ったらだろ!?」

「陸己だって、前に見送った死者に話したことあったじゃないかっ!」

「それは、俺の自己責任であってだな……。とにかく、勝手に他人の秘密をバラすようなことはやめろよな」

「――睦己は、自分の願いさえ叶えばあかねの未練なんてどうでもいいの?」

「はぁ? オマエ、何を言って……」

「あかねが最後のお願いって言ってるのに、それも聞いてあげられないほど睦己は冷たい人間だったのっ!?」


 とても突き刺さる言葉だった。

 俺はコクロの問いかけに、ただ黙るしかなかった。

 そんなことはない――すぐにそう言えばよかったのだろう。

けれども、局員の個別の願いに関する事柄は秘密事項、それとこれとは別問題。その事柄が頭をよぎって、私情と規律が混濁して俺の心をかき乱した。

ジーッと、黒いキャップに隠されたコクロの顔をじっと見つめ続ける。すると、帽子の間から涙が流れていることに気付いた。



「……コクロ? オマエ、泣いているのか?」

「泣いちゃダメなの?」

「誰もそんなこと言ってないだろ? 俺はオマエに話しちゃいけないことを話した理由を聞きたいんだ」

「そんなの、あかねの願いを叶えてあげたいからに決まってるじゃないか」

「だからって、話して良いことと悪いことがあることぐらいオマエだってわかるだろ」

「知ってるよ――でも、それでも、あかねの願いをどうしても叶えてあげたいんだ」

「……コクロ……」



 小さな身体のどこにそんな熱気が籠もっているのだろう。

 顔を流れる涙は俺に対して、強い感情論を訴えてきた。 このままでは課長の言うとおりほだされてしまう。もし、課長の指示に従うのならば、ここは感情論ではなく理性論で行動し、二人を連れて帰るべきなのだ。

 そんなことはわかっている――俺は、再度迷ってしまった。

 いま俺の胸にわき上がった気持ちがほだされたモノだっていうなら、そうなのかもしれない。

 そのことをハッキリと感じて、俺は苦しさのあまりコクロから目を背けざるえなかった。

 刹那、場違いなぐらい明るいトーンの声が発せられる。



「もういいんじゃない?」



 それはうつむいて見れなくなったコクロの身体の方からだった。

 再び顔を上げてみると、エミさんが後ろからコクロを優しく包み込んでいた。

 俺はとっさのことにエミさんに問いかけた。



「……どういうことですか?」

「だから、言葉のままよ」

「それじゃあ意味がわかりません」

「簡単に言うと、もう課長の命令は無視して『未練整理しちゃえ』ってことよ」

「ちょっと待ってください。それじゃあ、完全に命令違反なんじゃ……?」



 俺はあまりの言葉に驚かされた。

 だって、あのときエミさんは課長に問い詰めて――――違う。エミさんは一つも納得なんかしてない。

 コクロがとっさに飛び出して、言いそびれてしまっただけなんだ。俺はそのことを思い出して、どうしてエミさんが未練整理をしちゃえと言ったのかわかった気がした。



「じゃあ、こうしましょう。課長は、私たちにあかねちゃんとコクロちゃんを連れ帰れと命令した」

「……ええ、言いましたね」

「でも、未練整理をしちゃいけないとは一言も言ってないわよね?」

「それは言葉の綾になるんじゃないですか」

「言わなかった本人が悪いのよ。この際、未練整理をしてあかねちゃんに納得して天国に行ってもらう方が得だと思わない?」

「……そりゃ……そうですけど……でも……」

「往生際が悪いわねぇ……。だったら、アナタも私と一緒に未練整理をする。これで一蓮托生ね?」

「そんなの勝手すぎますよっ!?」

「やるったら、やるの!」



 迫力のある言葉が発せられる。

 俺はあまりに強気な発言に呆気にとられた。まさかエミさんがここまで感情的になるなんて思いもよらなかったからだ。

 続けざまにエミさんが言う。



「課長になんて言われようが、ペナルティ喰らって私たちの願いが叶うまでの時間が延びようが、いまはあかねちゃんをちゃんと送ってあげることの方が大切よ。だから、大原君も私の行動に従いなさい」

「……拒否権はないんですか?」

「ないわね。それに君の中でも、本当はどうしたいとかいう気持ちが固まってるんじゃないの?」



 完全に見抜かれている――いや、確かに言うとおりだ。

 俺はあかねに未練整理をさせてやりたい。エミさんの言葉にほだされたとかじゃなく、自分自身の気持ちであかねを送ってやりたいのだ。

 そのことに気づいて、俺はエミさんの問いかけに黙って頷いた。



「じゃあ、決まりね。早速、あかねちゃんのご主人様を探しましょっ!」



 とエミさんがはしゃぐような声で話す。

 当然、その言葉にあかねやコクロが喜ばないはずがない。とっさにエミさんの胸元に二人が飛びついて、三人で抱き合うような格好になった。



「ありがとう、エミ!」

「気にしないで。私もコクロちゃんと同じ気持ちだったから……」



 喜びを分かち合う三人。

 そのそばで俺だけがぽつんとたたずんでいる。そうした光景になんだか除け者にされたみたいで少し寂しくなった。

 ふと目の前のモミの木を見上げる。すると、一本の太い枝の先にピンク色の風船が引っかかっていることに気付いた。

 白いウサギのマークが書かれた風船――きっと誰かが離してしまったせいで木に引っかかったんだろう。

 それを眺めていると、唐突にコクロに声を掛けられた。



「どうしたの?」

「ん? いや木の枝に風船が引っかかってるなって思って……」

「風船?」

「ほら、そこのアレ」



 と右の人差し指で示す。

 すると、コクロがわずかに驚いたような声を上げる。そんな行為に呼応してか、同じように残りの二人からも声が漏れた。



「あら? 本当ね」

「誰か手放してしまったんでしょうか……?」



 すぐさま俺は「わからない」と答えた。

 いったい誰がこんなところに風船を引っかけてしまったんだろう?

 そんなに高くもない枝なのに、取ろうとしなかったのは固執するほどのモノではなかったということなのか。

いずれにしても、風船を諦めてしまったことに変わりはない。

 しばらくの間、俺は枝に引っかかった風船を見つめ続けた。



「そういえば、ご主人様もあの丸いのがお好きな方でした」

「風船のことか?」

「はい。ご主人様はあれの形を変えるのがとても上手な人だったんです。私にはそれがなんだかよくわかりませんでしたけど、面白がってよく飛びついことしてたのを覚えてます」

「……形を変えられる……風船か……」



 ふと2ヶ月ほど前にあった老人のことを思い出す。

 優依子と帰ったあの日――。

 俺が出会った老人は、目の前で風船でゾウやキリンを作ってみせた。それを思い出すと、なんとなくあの人があかねの飼い主だったのではないかと思う。

 けれど、違うとも言える。

 なぜなら、あの日老人は死んだ娘のことで落ち込んでいた。もし、老人の娘というのがあかねのことだったとしたら、現在の状況に対するつじつまが合わない。

 それなら、あかねはとっくに天国へ逝ってしまっているはずなのだ。



「どうかされたんですか?」

「――あ、いや。前にバルーンアートっていう風船を使ったオモチャを作ってた老人のことを思い出したんだ」

「もしかして、大原さんはご主人様にお会いしたことがあるんですか?」

「うーん、その人があかねの飼い主だったのかどうかはわからないよ。ただなんとなくそういう人がいたってだけさ」

「そうでしたか……」

「まあ、本当にあかねの飼い主さんだったとしたら、それはそれで運命的なモノだとは思うよ」

「運命的……ですか……?」

「だって、そうじゃないか。俺がオマエと出会ったのは、偶然天国の扉の前から逆戻りしてきて未練整理をさせてほしいなんてお願いをしたからなんだぞ?」

「そうですね」

「じゃなかったら、オマエはとっくに天国へ逝ってる頃だ。まあ、その人が本当にご主人様の話だったらだけどな」



 と自らに言い聞かせるように告げる。

 それから、俺は身体をあかねの方へと向けた。そして、風船に飼い主との思い出を重ねるあかねに対して、口を結んで真剣に問いかけた。



「なあ、あかね」

「はい?」

「正直な気持ちを教えてほしい。オマエは、ホントに飼い主に会いたいんだよな?」

「もちろんです……それさえ聞き入れていただけるなら、もう思い残すことはありません」

「つまり、それが終わったら、天国へ旅立つってことでいいんだな?」

「はい。もう皆さんにご迷惑をおかけするわけにもいきませんし」

「……わかった。いまさっきエミさんに手伝えってなんて言われたけど、ここからは俺の意思でちゃんと手伝うことにする」

「本当ですかっ!?」



 あかねの顔に明るい表情が広がる。

 ワッと花が咲いたような表情――まるで子供みたいだ。嬉しさに心が躍り、目の前で踊ってしまいそうな笑顔。

そんな笑顔は、俺の心をも虜にした。

 とにかく、いまのあかねは愛らしかった。だから、そんな表情を曇らせないためにも手伝わないわけにはいくまい。

 俺はあかねの手を取り、両手で包むように握りしめた。



「ああ、よろしくな」

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