第8話
管理局の長大な受付カウンターの後方には、パーテーションで覆い隠すようにオフィスがある。
このフロア自体、ちょうど体育館ぐらいの大きさがあり、それぞれゲート審査課・入国諸手続課・警備課・庶務課の4つに分けられていた。それがパーテーションによって、十字の通路を挟んで間仕切りされている。
未練整理係は、入国諸手続課の一角。
俺は、係に備えられた自分専用の事務机の上で報告書を書いていた。
「よし、この報告書は終了っと」
そう言って、持っていたペンを投げ捨てるようにしてノートの上に置く。それから、座った状態で両手をハの字にピンと伸ばした。
溜まった疲れが一気に抜けていく気がする。
それだけでも、自分が「仕事をしたんだ」という充実感が得られた。それから、俺は一息付けようとイスから立ち上がって歩き出した。
向かう先は、職員のための休憩スペースである。
ところが、その道半ば。他の課とのパーテーションの間に設けられた通路で、左側から歩いてくる人の存在に気づく。
ちょうどぶつかる勢いで鉢合わせとなり、たちまち俺は足を止めた。そして、すぐさまやってきた人物の顔を確かめた。
そこに立っていたのは、スラリとした高身長の見知った顔の女性。
うっすらと輝く茶褐色のほどよく長い髪。
世間一般で言ういわゆる『ゆるふわ』の髪が整った顔立ちを際立たせるようになびいている。
大人の女性――。
そんな雰囲気を醸し出す彼女は、俺同様に出合頭にぶつかりそうになったことを驚いたらしく、「おっと、ゴメン」と言って進もうとする足を止めていた。
「いえ、こちらこそスミマセン」
そう言って、面と向かってみた女性は俺の同僚エミさんである。
エミさんはいつも優しく、はっちゃけるほどに明るくお調子者の上司だ。けれども、最初に局のいろんなことを教えてくれた信頼できる先輩でもある。
それゆえにどことなくエミさんの人柄ならぬ馬柄に惹かれるところがあった。
「お疲れ様。ってか、ゴメンねぇ〜ぶつかりそうなっちゃって……」
「いえ、俺も誰か来るのを予測せずに歩いてましたから」
「そっか。じゃあ、お互い様だね」
「エミさんも、いまから休憩ですか?」
「ええ、そうよ。今し方、下界へ未練整理に行ってきたところ」
「ってことは、未練整理は無事終わったんですね?」
「もちろん。整理対象の方は、幸せそうに成仏していったわ」
と少し疲れた様子で話すエミさん。
一見、本当の人間のように表情豊かに話す様は年上のお姉さんなのだが、その実、生前は競走馬でコクロと同じ人の型を取った動物である。
どうしてエミさんのような生前は動物だった者たちが、人の形を為しているのかについてはわからない。
ただ、ここに来る途中で意図的に魂の形を変えられてしまうらしい。
人となった当人たちは「いつそうなったか?」は覚えていないようで、少なくともここへたどり着くまでには人型を為している。エミさんもそうした人の形を為した動物だったようで、とある願いから入管局に入局したのだと言っていた。
いつも気さくに話してくれるのは、人に飼い馴らされた動物だったからとのこと。
生きている人間である俺と会話するのがなにより嬉しいらしい。だから、いつもエミさんの顔は笑顔に満ちていた。
「大原君は、休憩室に行くところだったの?」
「ええ、午前中の未練整理の報告書作成が終わったので……」
「そうかぁ。じゃあ、私は仮眠でもしようかな?」
「ちゃんと起きてくださいよ」
「大丈夫よ。そんときは、大原君が起こしてくれるから」
「最初からアテにしないでください」
と突き放すように言葉を告げる。
すると、エミさんは「冗談よ」と俺の肩を叩いて笑って見せた。
まったく、冗談にもほどがある。
それでも毎度ほだされてしまうのは、いつも屈託のない笑顔を見せるエミさんだからだろう。そのあたりなんとなく優依子と同じで人を幸せな気持ちにする才能を持ち合わせているように思える。
たとえて言うなら、エミさんは幸せの配達人というべき人だ。
「なんでさ!」
不意に喚き声が聞こえてくる。
それは、パーテーションの向こう側から発せられたモノで、聞き覚えのある声だった。どうも誰かと揉めているらしく、駄々をこねる子供のような奇声が発せられている。
その声に俺たちは素朴な疑問を感じて、顔を見合わせた。
「なにかしら?」
「どうせまたコクロがつまんないことでわめいてるんじゃないですか?」
「――ああコクロちゃんかぁ~」
「まったく余計な仕事を増やさないで欲しいですよ」
「まあまあ……。なにが問題があったかもしれないし、とりあず見に行ってみましょ?」
そう告げるエミさんの言葉に従い、俺はその後ろ姿を追ってパーテーションの向こうへと赴く。
向かった先は、『未練整理係』と書かれたボードが吊されたカウンターである。すると、その受付カウンターでは意外なことが起きていた。
「コクロ?」
驚いたことにコクロが誰かをかばっていたのだ。
その証拠に背中には、小さな人影らしいものがある。いつもなら構ってほしさに係のみんなを困らせるコクロだが、今日はなにか特別な事情があるらしい。時折、ヒョッコリと顔を出す丸くて愛らしい赤鼻の少女がそれを物語っていた。
俺は、背伸びをして天板に手を付けるコクロに対して声をかけた。
「どうかしたのか?」
即座にコクロが顔をこちらに振り向ける。
そして、長らく俺を探していたかのように「あっ」と声を上げて話しかけてきた。
「……睦己ぃ……聞いてよぉ……」
「――またオマエやらしたんだろ?」
「違うよ。この子の未練整理をこの人にお願いしたら、『もう未練を整理するものはありません』って言うんだ」
「必要がない? それって、つまりもう天国に逝けるってことだろ?」
「それはそうだけど……。でも、あかねは天国に逝く前にもう一度だけどうしてもご主人様に会いたいって言うんだ――これって、どう考えても未練だよね?」
「言われると確かに未練だな……」
「でも、この人は入管局における未練は『死の直前に思ったこと』だって言うんだよ? それっておかしいと思わない?」
「いや、普通だろ。オマエだって、入国審査基準がどういうモノか知らないわけないだろ?」
とコクロに言ってみせる。
入管局が定める審査判定には、「死に際に思ったこと」が未練となるかどうかという明確な判定基準があった。「家族に会いたい」や「あの花の名前を知っておけば良かった」など、些細な事柄でも臨終直前であれば、未練として扱われるのが慣例であった。
そのことは入局してすぐの研修で教えられる。
だから、局員の誰もが知っていることで、なに一つおかしなことはない。にもかかわらず、コクロは納得がいかないらしい。
とっさに「そりゃあ、そうだけど……」と言って肩を落としていた。
なにか事情があるのだろう――。
俺は、そのことを問いただすことにした。
「いったいどうしたっていうんだ?」
「……あのね、この子の未練をどうしても成就させてあげたいんだ」
「見ればわかる。オマエにベッタリみたいだしな」
と言って、コクロの背中に隠れた女の子の顔を見遣る。
すると、とっさに目が合った。しかし、女の子は人見知りが激しいらしく、途端に近くにあった大理石の柱の陰に隠れてしまった。
「大丈夫。睦己はボクの親友だよ」
「……その人……人間……?」
「そうだよ」
「……ホントに……大丈夫……?」
「ホントのホント大丈夫だってばぁ~」
話の内容から察するに、どうやら俺は警戒されているらしい。
しかし、未練整理がしたい理由を尋ねるためにもその警戒を解かねばならない。けど、俺はこういうときの対処法を心得ていない。ましてや、年下で人間ではないと思われる女の子の扱いなど、入管局のマニュアルにも記載されていない代物だ。
普段、ボッチでいるせいか――俺は、女の子の扱いに困りあぐねた。
そんなときだった。
「初めまして。私はエミって言うの」
隣に立っていたはずのエミさんがいつの間にか女の子で話し始めていた。しかも、女の子の身長に合わせて屈んで話しかけている。
ちらりと横目で見た顔はいつもの幸せ一杯そうな満面の笑顔で、女の子の恐怖心を説こうとしていることがわかる。
なんともエミさんらしいやり方である。
「大丈夫よ。このムスッとしてのっぺらかんな人間とは違って、元は繊細で愛らしい馬だったの。アナタの相談に乗れるかもしれないわ」
のっぺらかんとした人間で悪かったですね――そう言いたかったが、女の子の警戒を解こうとするエミさんの行動に水を差すわけにもいくまい。
続けて、俺も女の子に向かって語りかけた。
「その……怖がらせてゴメン。俺はただ君と話がしたいんだ」
俺の呼びかけに女の子は無言だった。
けれども、ほどなくして俺とエミさんの前に歩み寄ってきた。それから、目の前でペコリと頭を下げると女の子はオドオドしく口を開いた。
「あ、あの……。私、あかねって言います」
「あかねちゃんね? 元は何だったの?」
「コクロちゃんと同じ猫です。一応、コクロちゃんよりは年上なんですけど」
と先陣を切って語りかけたエミさんに話しかける。
こうした様相に人の形を象っているだけで、なんだか普通に幼い女の子と会話をしている気分になる。
しかし、本人が口にした通り、生前は猫なのだろう。どことなく臆病ですぐにでも逃げだしそうなあたりが猫っぽい。
俺は、エミさんと交代するようにあかねと言葉を交えた。
「どうして未練整理をしたいんだ? 君はもう天国に行けるんだろ?」
「確かに。私には、天国に行く資格があるみたいです。いつの間に自分がそんな資格を得ていたのかはわかりません。ただ、理由あるとすれば、生前の私が満足して死んだんだからなんだと思います」
「それなら、未練整理の必要性はどこにも無いじゃないか」
「違うんです! 私、ここに来てから未練を整理したいと思ったんです」
それは、さっきコクロが言っていた『ご主人様に会いたい』という話のことだろう。あかねのオドオドした態度に相まって、必死な顔が主人への思いをうかがわせる。
「……実は、一度は天国の扉の前まで行ったんです」
「え? じゃあゲートを通って、入管局に戻ってきたってこと?」
「はい、そのときは警備員さんに止められました。でも、どうしてもご主人様にお会いしたくて、お願いして未練整理係の方に話を通してもらっていたんです」
「そしたら、未練整理はできないって言われたのか」
「……そう……なんです……」
なんと健気なのだろう?
そこまで自分の主に会いたかったと言うことなのか。それを知るなり、俺はあかねの願いを叶えてあげるべきだと思った。
とっさに振り返り、カウンターの向こう側に座る係員に問いかけた。
「どうにかしてあげられませんか?」
「そう言われもねぇ……。正直、俺もなんとかしてあげたいよ。だけど、こういうことは局の決まりだし、課長にでも話を持ちかけないと」
「なら、俺が直接課長に掛け合ってきます」
善は急げだ。
俺はきびすを返して、オフィスエリアにある入国諸手続課課長の机を目指した。
普段から報告書を提出する以外では接することのない課長。
当然、俺には会社勤めなどしたことはない。だが、さすがにあの世であっても役職持ちの偉い人ということで近寄りがたかった。
それでも、あかねの想いを汲み取ってやらねばなるまい。
俺は自分の席の前を通り、フロアの隅に一つだけ離れて配された机の前まで歩いて行った。
机では、課長が報告書の束に完了印を押し続けていた。
机越しに課長に立ちはだかって、「ちょっといいですか?」と声をかける。すると、課長は目の前が陰ったことに気付いて下からのぞき込むように俺を見た。
「なにか用か?」
「一つご相談があるんです」
「あのガキンチョがごねてる件か?」
「知ってたんですか?」
「――あれだけロビーでわめかれちゃな」
「だったら、課長が対応してあげてくださいよ」
「大原。局の慣例は早々に覆るモノじゃない。こういうことは神様たちのお伺いを立ててやるもんだ」
「神様の許可が必要なんですか……?」
「オマエにゃあ、まだわからんだろうが、こういうことは希にあるんだ」
「以前は、どうしてたんですか?」
「そんときはそんときよ。同じように神様にお伺いを立てたり、課長以上の局の幹部で会議決定だ」
「なら、なんでいまはなにもしないんです?」
「だから、その方法論を局長が神様と協議中だ。俺たち下っ端がどうこう言える段階ではないだけで、あくまでも待ちってことよ」
「局長が……」
言葉に詰まる。
あかねのことで入管局の上層部が動いてくれていることはわかった。しかし、それと同時に「もし却下されたら?」という不安が募る。
あんなに主人を必死に思っているあかねのことを考えると、なんとか都合してやれないかという気持ちになる。
ましてや、成仏の一歩手前で抱いた主人への思いだ。
せめて扉をくぐる最後の最後まで穏やかな気持ちで天国へ逝って欲しい。そんな気持ちに溢れて、俺は課長を説得する言葉を述べようとした。
ところがである――。
「下っ端の意見は取り入れてもらえないんですか?」
突然、エミさんが俺を強引に押し退けるように出張ってくる。そして、課長の前に立つと気に入らないと言わんばかりに机を両手で叩きつけていた。
その勢いや、鬼気迫るものがあった。
「……意見しても無駄なんですか? 天国入国管理局って死者の未練を晴らし、心安らかに天国へ逝かせてあげることですよね?」
「エミちゃん、君もか」
「私、なんとなくあかねちゃんの気持ちがわかりますから……」
「はぁ……。どいつもこいつも、情にほだされやがんなぁ」
「いけませんか?」
「悪りぃとは言わねえよ。だが、私情で仕事できんなら入管局なんぞいらねえって話だ」
「それはそうかもしれません。だけど、1個の魂として思うべきところはあると思うんです」
「言わんとしてることはわかる。しかし、それでも情だけで毎回死者を天国へ逝かせてたんじゃあ、誤って地獄逝きのヤツも入れちまうぞ?」
「わかってます。でも、今回の件はそれとはまったく別物です。課長もその辺のことはおわかりなんじゃないんですか?」
「まあ、とにかく待て。局長が戻ってきてから対応を決め――」
と課長が言いかけた直後だった。
突然、誰かがフロアマットを蹴ってオフィスエリアに踏み行ってくる足音が聞こえてきた。
振り返ると、あのカウンターにいた男性局員が焦ったような顔つきでこちらに走ってきたのである。
すぐさま課長が「何事か?」と応対する。
「大変です! ちょっと目を離してたスキにコクロ君がいなくなりました!」
それを聞き、俺は一瞬でなにがあったのかを理解した。
「課長。もしかしてコクロは……」
「……ああ。もしかしなくても、もしかしてだ」
課長が口に含んだ言葉の意味――。
それは、コクロがあかねを連れて下界に降りて行ってしまったということである。課長もコトの重大さに気付いて、眉間に指を当てバツの悪そうな顔を浮かべていた。
「勝手に流行りやがって。これだから猫は……」
「どうしますか?」
「……そうだな」
課長が口を閉ざす。
対応を考えているのだろう。わずかに考えたそぶりを見せたかと思うと、とっさに立ち上がって俺とエミさんの顔を見合わせていた。
「よし課長命令だ。大原、エミの両名は下界へ出向き、コクロと入国予定者あかねを確保ののち即時連れ帰ってこい」
それは、自分の裁量で行うということだろう。『上との協議、協議』と慎重な課長でも、こういう場合のトラブルにはどうするべきかわかっているみたいだ。
だから、信頼できる人とも言える。
俺は、その決断に答えるように強い口調で返事をかえした。
「――わかりました」
「わかってると思うが、時間が経てば地縛霊になる可能性が増える。なるべく早く見つけ出せ」
「はい、必ず見つけた帰ります!」
と言うと、俺はエミさんとともにバス停へと急いだ。
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