信じる力 pride

 風景は今までとは微塵たりとも変わってない。

 しかし、空気に違和感を感じる。

 月夜の爽やかな空気は消え去り、ジトっとしたやたらと重力がかかった重たい空気が刻三を襲う。

 そしてその空気が変わった場所に足を踏み入れた瞬間、ツキノメとクララの喚き声が耳に届いた。

 外から見ればエサを食べる魚のようにしか見えなかった2人だが、心に住まう何者かがいう『亜空間』の中で声までもが閉じ込められていたのだ。


「おい、大丈夫か!?」

「大丈夫なわけないでしょ! アァァァ」


 ツキノメは返事と共に苦痛の叫びを上げた。


「お、おい!」


 刻三は不安になりそっと右手を伸ばす。

 月光すら入ってこない闇色の世界で刻三の腕ははっきりと浮かび上がった。

 まるで全てを支配する何かのように。


「やめてっ!」


 ツキノメが高らかに叫ぶ。


「敵に……、ましてや刻のアーカイブ使いに情けなんてかけて欲しくない!」


 懇願するようにさえ聞こえた。クララはクララ自身の誇りとプライドを掛けてこの闘いに挑んでいたのだ。

 それゆえに刻三てきから伸ばされる手は地獄へいざなう悪魔の導きに見えたのかもしれない。


「うるせぇ! お前のそのチンケな誇りやプライドで自分の命を落としっちまったら何もかも無意味だろうが! 誇りやプライドってのは大事だと思う、でもな、時にはそれらを捨てなきゃいけないときだってある」

「そんなの綺麗事よ! 一度手放した誇りやプライドは返ってこない。私がここに立つ意味が無くなる」

「無くなったらもう1回作り直せよっ!」


 刻三は手を伸ばしたまま力の限りでクララの心へと伝わるように語った。


「そんなこと……、強いひとにしかできない……」


 刻三の言葉が伝わり始めたのか、クララは声を震わせだした。


「プライドや誇りってのは簡単に捨てられねぇ。捨てた後が怖いからだ。それらが無くなったら自分が時分じゃなくなるような気がするからな。でもな、それらを手放す勇気を持ってるやつのが手放せねぇやつよりよっぽど強いと思う」


 穏やかな口調でそう語り、刻三はより一層右手を強く伸ばした。

 刻三の右手が掴まれた。弱々しく握られる。怯えたように、疑うように握られる。

 手を握られた瞬間、刻三はそんなクララの心情が指先から体中に流れたような気がした。

 刻三は大丈夫、信じろという思いを込めギュッとクララの手を握った。

 男の刻三の手とは違う柔らかくまるっとした手だ。

 指までもがふっくらとしており、丸みを帯びた手、という印象を受けた。

 そしてその瞬間、クララの表情から苦痛が消えた。

 和やかな表情へと変わったのだ。


「ありがとう、刻の使い手」

「あぁ。それと……、俺は刻三だ。堀野刻三。覚えとけ」


 刻三はそう告げ、笑ってみせた。その笑顔を真正面から受け、クララも微笑を浮かべた。

 刹那、クララはバタッとその場で倒れた。


「おい、大丈夫か!!」


 急いで駆けより、声をかけるも返事は無い。

 抱きかかえ耳をクララの口元へと持っていく。

 柔らかそうなその唇の色は青紫色へと変化しており、刻三の心拍数は急上昇する。

 隣では立ったまま苦痛の表情を浮かべ悲鳴を上げているツキノメがいる。

 刻三はそんなツキノメをそっちのけでより一層顔をクララの口へと近づける。

 精神と耳を研ぎ澄ませてクララの呼吸音が聞こうとする。

 すーすー。

 クララの口から規則正しい呼吸音が聞こえた。

 刻三はホッとしクララの頭をサッと撫でた。


「よく休めよ」



 耳元でそっと声をかけてからクララを丁寧に地面に寝かせた。


「次はお前だ。ツキノメ」

「ぐぅ……。あっ……」


 ツキノメはまともに答えることはできないようで痛みを堪える変な擬音語で答える。

 辺りは徐々に景色を歪ませ、『亜空間』本来の姿をみせようとしている。

 半壊し元奴隷産出国シバラの唯一の宿舎はまだ『亜空間』からでも認識できるが、ところどころ青緑色のような景色に変わりつつあった。


「早く手伸ばせっ!」


 願うように祈るように刻三は左手を伸ばす。

 しかし、ツキノメはそれに応えようとしない。返事をしなければ手を伸ばす様子も伺えない。

 そうしているうちにも新たな場所が背景を失い、青紫色が支配権を奪っていく。

 ぐっと力を入れ、手を伸ばす。

 クララの時もそうだったが、ある一定以上近づけないのだ。

 『亜空間』という特殊な場所だからこそ引き起こる現象なのか。それとも刻三が刻を司る者で現世に『亜空間』を引きずり出した張本人だからなのか、はたまた2人が『亜空間』の要となっているかなのか。

 どれが理由か分からない。それに今述べたのがあってるかどうかも分からない。

 だが、このままツキノメを助けられ無かったら刻三たちが『亜空間』に閉じ込められ、出られない可能性が出てくるのは確かだった。

 もう景色はほとんど残っていない。地面の乾いた土までもが姿を隠し、代わりに奇妙な青緑色が這い出した。

 気分を害するようなその色合いが徐々に精神を侵食し、刻三の心に恐怖と不安を植え付ける。


「お前が俺を殺そうとしてる理由は分かんねぇ。でも、俺はツキノメ……、お前を殺したくない! 命は一つなんだ。早く俺の手を掴め!」


 刻三の声に焦りが見え始める。

 刻三自身は理解できないが明らかに表情も強ばり、当初の態度とはまるっきり変わっていた。

 『亜空間』という場所がそうしたのか、刻三自身の心情が変わったのか……。

 それは刻三自身にも分かってない。が、刻三の心の2人を助けたい、という意思にかすみがかかることは無かった。

 必死に腕を伸ばす刻三にようやくツキノメが反応を見せた。

 ピクリと指先を動かしたのだ。しかし、それ以上は動かない。何かに縛られているのかと思わすほどに動かない。

 刻三は胸中で叫び訊いた。


『おい、どうなってる!?』


 しかし、返事は返ってこない。いつも刹那の時間で返ってきていた返事が返ってこない。

 心に住まう何者かは返事をする気がないのだ。

 薄気味悪い青紫色が侵食するこの『亜空間』。刻三は一瞬の迷いの末、差し出していた手を引っ込めた。

 ツキノメは僅かに動かせた頬の筋肉を器用に動かし、裏切られた、と言わんばかりの驚嘆の顔を浮かべた。

 青紫色に支配され、視界がはっきりとしなくなったその場所でツキノメのその表情は強く刻三の目に焼き付けられた。

 奥歯を噛み締め、刻三はすやすやと眠り続けるクララの肩に手を回す。

 そしてそのまま手を首の下に滑り込ませる。栗色の髪の毛から漂うほんのり甘い香りを鼻腔に感じながら力を入れる。

 クララの体が持ち上がり、青紫色の地面から背が離れる。

 浮かんだ体を右手で支えつつ刻三は起き上がったクララの下へと回り込んだ。

 力なくぶらぶらとしている手を自分の首周りに巻き付かせる。

 そしてそのまま刻三は立ち上がった。クララをおんぶする刻三の出来上がりだ。

 完全に青緑色の世界となった『亜空間』で刻三は眠るクララを背負い、再度ツキノメへと近づいた。

 ツキノメは悲鳴をあげることは無くなったが、代わりに涙を流していた。

 悲鳴を涙に代え、痛みを堪えているのだろう。

 刻三は右手でクララの両太もも裏を抑え、クララが落ちないようにしつつ左手をツキノメに伸ばした。

 力強く伸ばしたその手にツキノメの手が触れることは無い。

 どれほど待ってもツキノメから手は伸びてこない。

 ツキノメの表情は苦痛に満ちている。どうにか救ってやりたいと思う刻三に心に住まう何者かが口を開いた。


『こやつらはお前を苦しめたやつだ。どうして助ける?』

『目の前で苦しんでるのに見逃せって言う方が無理だ。それにこいつらは……、俺が刻のアーカイブを保持してるから襲ったんだ』


 弱々しい声を心の中で生み出し、何者かに返す。


『ほう。だが、お前は誰も救えん。お前がここから出る方法を教えてないからな』


 いたずらっぽい声音で何者かは返した。


「それでも俺はこいつらを救う!」


 刻三は心に住まう何者かと眠るクララ、それから苦しみ涙するツキノメに宣言した。

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