竹を取る
吾妻栄子
竹を取る
車窓から竹林が目に飛び込んできた。
車内が
私は腕時計に目をやる。
家に着くのは夕方になりそうだ。
座席で伸び上がると急に眩しくなる。
窓の外は一面青田で、その真ん中辺りに細く引かれた車道をトラックが走っていくのが見えた。
田畑が増えてくれば故郷は近い。
ペットボトルの茶を啜る。
ずっと窓際に置いたままにしていたので、すっかりぬるくなってしまった。
この前、帰省したのがお盆だから一年近くも帰らなかったことになる。
窓際に頬杖を突いて考える。
今回は大学が始まるまで家にいようかな。
電車が途中駅に停まった。
その駅名を確かめるべく目を凝らすと、窓ガラスに水滴が生じている。
まだ、梅雨は開けていないのだ。
再び視界が緑になり、雨に揺れる青竹の群が目を撫でる様に通り過ぎる。
目を凝らしても一節だけ光る竹などあり得ないのに、何故か目で追ってしまう。
竹には、そんな魔力があるのだ。
去年の盆に帰京した時の記憶が不意に呼び起こされる。
母と買い出しした夜、近所の竹に囲まれた家を通りかかった。
体に感じる微風は湿り気を帯びて生温かい。
だが、竹の葉が囁く音はいかにも清涼に響く。
「うちの庭にも竹があればいいのに」
この家に二人きりで住む老夫婦に羨望を覚えた。
「竹はね、面倒くさいのよ」
母は素っ気なく一蹴すると、声を潜めて告げた。
「雨の日だとあそこの竹が道路に折れて散らばるから、この辺じゃちょっと迷惑してるの」
耳打ちする声が更に小さく早くなる。
「旦那さんがああいう人だから、誰も言わないけどね」
私がやや痛ましくなってかの家を振り返ると、淡いオレンジ色の満月の下、天高く伸びた竹が影絵になって揺れていた。
数日後の帰京の日、バス停に向かう途中でその家の老夫婦にすれ違った。
買い物帰りらしく、おじいさんの方は西瓜を手からぶら下げている。
こちらがお辞儀すると、彼は無表情に会釈を返した。
隣のおばあさんは人なつこい笑みを浮かべて深々と頭を下げる。
それから、二人は連れ立って竹林の中に姿を消した。
朝から昼に転じつつある時刻で、照りつける陽光は執拗さを帯びてきている。
しかし、青緑の影に囲まれた二人の家は、焼き付ける日差しを殆ど遮断している。
「日本は、月の女神、独身なんですね」
切れ長の目をいたずらっぽく見開くと、あの人は、ドクシン、と明瞭に発音した。
その時、あの人が背にした窓の外では、小雪がちらついていた。
長い首をグレーの毛糸のハイネックが覆い隠しているので、
図書館の蛍光灯の下だと、普段も白い陶器じみたあの人の顔が、余計に蒼白く映る。
「かぐや姫のことですか」
私は努めて笑顔を作る。
この人も、もうすぐ独身でなくなってしまう。
「ええ」
あの人も笑顔を返してくれた。
「かぐや姫、コウテイのキュウコンも断っちゃう」
「コウテイ?」
「ああ、テンノウ、でした」
コウテイは皇帝、テンノウは天皇、と置き換えてから、
キュウコンは球根ではなく求婚を意味しているのだと思い当たる。
「天皇がケッコンを頼んだのに、かぐや姫は、断っちゃうですね」
あの人の唇を介しただけで、結婚という名詞がこれほど胸に突き刺さる。
「誰のものにもならないからこそ、女神なんですよ」
こちらは笑顔を固めたまま目を落とす。
そもそも、「皆から求められる」のが女神の前提だが。
「西洋だって、月の女神は処女神ですしね」
ショジョシン、と耳から聞いてこの人に通じるかどうか怪しい。
でも、だからこそ、敢えて口に出せる。
「アポロンは次々女を作るけど、アルテミスはずっと一人だし」
「中国、月の女神、夫、います」
あの人は笑顔で言った。
「え」
私は思わず間抜けな声を出す。
「中国の月の女神、チャン・アーといいます」
チャン・アー、と本来の低い声で発音すると、あの人は続けた。
「チャン・アー、結婚してましたが、夫、浮気して、月に上ったです」
「それじゃ、中国だと、かぐや姫はリーフンしたんですね」
“
「どうでしょうね」
あの人は笑って首を傾けた。
「チャン・アーの夫は後悔して、毎年、月のきれいな晩にはチャン・アーの好きなお菓子を備えたそうですけど。それが中国のチュウシュセツなんです」
多分、
そう推し量りつつ、こちらも笑顔で話題の接ぎ穂を探った。
「日本の
織姫は引き離された彦星と毎年顔を合わせに川のほとりに向かうが、自ら夫と別居したチャン・アーは、地上の夫を見下ろして何を思うのだろう。
「そろそろ、私はこれで失礼します」
腕時計に目をやったあの人の顔は、あくまで柔和なままだったが、私はぎくりとする。
「この十ヶ月、色々ありがとうございました」
ホテルのドアマンの様に、あの人はこちらに向かって端正なお辞儀をした。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
こちらはせかせかと何度も頭を下げる。
「奥様になる方にも、よろしくお伝え下さいね」
何、言ってんだろ。
しゃべればしゃべるほど馬鹿がばれる気がした。
「伝えます」
あの人は笑っている。
「それじゃ、さよなら」
グレーのハイネックを着た背がどんどん遠ざかっていく。
「ちょっと、待ってください」
私は呼び止めた。
あの人は振り返る。切れ長の目はまだ笑っている様に見えた。
「あの……」
言わなくちゃ、言わなくちゃ……。
「あの、チャン・アーってどう書くんですか?」
あの人は笑って頷くと、階段の途中でこちらの差し出したノートとペンを受け取った。
「嫦娥」
そこだけノートから切り取った紙片の文字に見入る。
優しげな様でどこか冷たくも見える筆跡だ。
「チャン・アー」
窓ガラスに映る自分に向かってあの人の声を小さく真似て見る。
上手く出来ているかは知らない。
突然、眼前が眩しい緑に切り替わった。
車内放送が次の駅の名前を告げる。
もう道の半分以上は過ぎた。
ゆっくり息を吸い込む。
手の中で、上下に「女」が二つ並んだ紙片と、「常」と「我」が記された紙片の二枚に分かれた。
もう一度破くと、「常」と「我」が形を失い、「女」の一字だけ記された欠片が床に落ちた。
どれも、これも、全部、もういらない。
涙を拭うと、散り散りになった紙片を拾い集めて飲み終えたペットボトルの口に入れた。
底にわずかに残ったお茶の上に、バラバラになった文字の残骸が滲んで溶けていく。
次の駅で捨てよう。
梅雨明けしない時期は、蒸していても妙に肌寒い日がある。
空調の利いた汽車の中ではちょうど良かったサマーセーターも、
バスを降りて外の空気を歩き出すと少々頼りなく感じてくる。
だが五分も歩けば家だ。足取りを早めた。
久しぶりだが見慣れた風景。
もとより一年で一変するわけはないが、田舎では時間がゆっくり流れるのだ。
それが退屈でもあるが、一方では安心させもする。
しかし、ある地点から、眼前の景色に何となく違和感を覚え始めた。
具体的に去年からどう変わったとは指摘出来ないが、何かが奇妙に欠落している。
自分の足音とほぼ同じ間隔だが、明らかに靴音とは異質な音が混ざって聞こえてきた。
しかも、その音は足を進めるにつれ大きくなっていく。
「あっ」
こちらの発した叫びがごく小さかったはずだが、老人は顔を上げた。
一人きりで小さな鎌を手にしていたが、老夫婦の夫は相変わらず無表情だった。
馴染み深い風景から姿を消したのは、林立していた竹だった。
古びて節の黄色くなった竹も、若々しい青竹も、ごちゃ混ぜになって彼の周囲に散らばっている。
竹はいずれも節の途中から切り落としたらしく、
筧の口の様に斜めに切られた、膝丈程の竹の切り株が顔を揃えている。
切り株に混じって庭土の黒く吹き出した箇所も幾つも見られたが、
それは筍を掘り起こしたからだとすぐ分かった。
どうしてこんなことをするのだろう。
老人は足下に並べた筍の中から一番華奢なものを掴んで立ち上がった。
「これ、持ってくかい」
口調は問い掛けだが、言葉の途中から手に持った筍をこちらの腕に押しつけてくる。
「いえ。結構です」
筍が転げ落ちない様に私が手で支えるたところで相手が手を離したので、結局、筍を受け取った格好になった。
湿った
「本当に、すみませんから」
こんな小さな筍じゃ食べられそうもないし、ありがた迷惑だ。
セーターの汚れを落とす手間に思いを馳せてうんざりしながら、私は押しつけられた竹の子供を手前に出した。
しかし、老人は目を伏せたまま、半ば独り言の様に答えた。
「いいって。持って来なさい」
言い終える頃には、彼は既に踵を返していた。
こちらは筍を抱いたまま、繋ぐ言葉も無い。
平屋の引き戸が軋みながら滑る音がして、老人の丸い背中が玄関の薄闇に紛れていく。
暗がりの中からこちらを振り返った白髪の顔が、お辞儀する様に俯いたかと思うと、戸はまた閉じた。
困るよ、こんなの。頭の中で呟いた。
腕に残された筍は、中途半端な重さがあった。
普通の赤ちゃんよりはずっと軽いが、子猫よりは確実に重い。
月足らずで生まれた赤ちゃんならこのくらいの重さかもしれない、と妙な想像をした。
根本にこびり付いた土を指先で軽く払おうとすると、指が湿って黒紫に染まる。
帰ったら、まず手を洗わなくちゃ。
歩きながら舌打ちをこらえて老夫婦の家を顧みる。
ちょっとした竹林に見えていた一角は、今では酷くこぢんまりした広さしか持たなかった。
家に着くと、庭の塀越しに母の頭が目に入った。
「ただいま」
「おかえり」
声で初めて気付いたらしく母は顔を上げた。
どうやら、庭の雑草を毟っていたらしい。
「これ、あそこのお爺さんがくれたの」
母に言及される前に、私は自ら腕に抱いた荷物を示して語った。
「いいって言ったのに」
どうしてこんなものをよこすんだろう。
筍のてっぺんに残っている土塊を払った。
「あのお宅、もうすぐ引き払うのよ」
母は軍手を外すと、庭仕事用のエプロンから土を払った。
「旦那さんが、お一人になったから」
話しながら、母はサンダルを脱いで縁側に上がる。
「そろそろ夕飯にするから、早く荷物を下ろして着替えてちょうだい」
「分かった」
答えながら胸の中の筍を抱きしめた。
刈り取られた芽は、もう
半分に割れた薄い卵色の月に雲が懸かり、立ち上るアスファルトの匂いが夕立の忍び寄る気配を告げていた。
(了)
竹を取る 吾妻栄子 @gaoqiao412
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