ようこそ、地獄の台所へ

ぞぞ

第1話

 彼は運転手だ。表の顔も、裏の顔も。乗っているのはフォードのクラウンビクトリア。タクシーの運転手という昼間の仕事でよく使っていたため、その乗り心地――ハンドルの質感やコントロールのしやすさ、ドアを開ける時のスムーズな感じ――にすっかり体が馴染んでしまって、二年前、生産終了間際に貯金をはたいて買ってしまったのだ。しかし、それだけの価値はあった。彼とこのビックとの相性は抜群で、エンジンをかけた瞬間の僅かに臓器を揺するような振動も、アクセルの感触も、ブレーキのかかり具合も、まさにピシャリ。彼はすっかりビックの虜になっていた。彼が心から愛していると言えるのは、ビックと五つ年下の妹だけだった。

 運転手は、ふう、と息をついて腕時計を見、続けて右の窓に視線を投げた。見えるのは数フィート先の白いコンクリ造りの建物のみ。がらんとした、という形容が相応しい味気なさが、そこにはあった。

 しかし突如、くすんだ空間にバンという爆音が響いた。身構えてはいたが、運転手の胸で僅かに心臓が縮んだ。脅かしやがって、そんな言葉を込めて息を吐き出し、彼は身を横に乗り出して助手席のドアを開けた。しばらく待っていると、建物から男が一人歩き出てきた。落ち着き払った様子でこちらに向かってくる。ゆったりとしているようだが、みるみるうちにそいつの姿は大きくなった。

 彼は長身ではないが均整のとれた体型で、すっと伸びる首に支えられた小さな顔の上には、優しげな瞳があった。小さく、通った鼻筋に、薄い唇。その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。端正な顔立ちの上に、物柔らかさを湛えた青年だった。

 気が付くと、彼はするりとビックに乗り込んでいた。

「悪いな、手古摺ったよ」

「ああ、あと少しで置いてくとこだった」と言いながら、運転手はクラッチを踏んでエンジンを始動し、チェンジレバーを動かしてからアクセルに足をかける。クラッチを上げると、ゆっくり車が動き出した。

「でも、おかげでいい写真が撮れたよ」

「サイコ野郎」

 道路に出ると、ビックは徐々に加速した。


「で、何だよ、話って?」

 助手席の男が、黒い手袋をはめた右手でカーラジオをいじりながら、聞いた。運転手は黙ってフロントガラスを見つめた。エンジンの唸りが、低く耳に響く。だがすぐに、こう返した。

「一昨日の新聞、見たか?」

「ああ、確か」

「また殺人だってな。ヘルズ・キッチンで」

「そんなような記事もあったかな。お前、あそこの出身なんだよな」

 運転手は返事をせず、右手で尻ポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜くと火をつけた。猟奇性により世間で取沙汰されてはいるが、その実、警察もあまり動いていない事件だ。もっと言えば、有力紙では三面の隅に追いやられているような事件だった。彼がうろ覚えなのも、無理はない。

「妹なんだよ、殺されたの」

 運転手に向けた助手席の男の目が、大きく開かれた。一瞬を置いて、彼は、なるほど、と言った。瞳に被さっていく瞼が、彼の表情から驚きを拭い去っていく。

「それで、オレに殺しの依頼をしたいわけだ」

「まあな」

「情報持ってんのか? 標的の」

「いや」

 助手席の男――殺し屋は乾いた笑いを漏らした。

「あっさり言ってくれるな」

「無理か?」

「いや、別にいいさ。オレを飼ってるマフィアの連中は休暇でフロリダだ。どうせだから、今から行こう」

 運転手の腹から力が抜けていき、はあ、と自然と息が漏れ出た。代わりにぐっと足に力を込め、スピードを上げる。

 

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