第3話 監獄ロック
幼い頃の彼は、とにかく退屈していた。
究極的にエリートな両親の元に生まれた至は、物心ついた時から、徹底した帝王学を叩き込まれつつ、同時にあらゆるスポーツ、あらゆる武道、あらゆる学問の英才教育を、時間の概念が狂ってしまうレベルで詰め込まれていたのだが、そんな過酷な状況であっても、彼はただ、ひたすらに退屈だった。
自由に遊ぶ時間すらない状況から、現実逃避したわけではない。
当然、無茶なスケジュールのせいで精神を病んだわけでも、心が壊れたわけでも、脳味噌が沸騰したわけでもない。
ただ単純に、やっていることが簡単すぎて、ただただ無性に、退屈だった。
そして、退屈を感じた子供がすることなんて、決まっている。
至は、逃げた。
疾風の如く、颯爽と、彼の子守とお目付け役を兼ねていた、屈強なボディーガードの群れを、見事にまいて、悠々と。
『うーん……、これもかんたんだった……』
さて、逃走には成功し、自由になったが、だからといって幼い至には、特に明確な目的があったわけでもない。ただなんとなく、暇つぶしをしたかっただけだ。
だから、てくてくと街を無計画に歩き回っていた彼が、その空き地にたどり着いたのは、まったくの偶然だった。
『わっ! しらないおとこのこがいる……』
だから、その偶然の空き地で、彼女と出会えたことは、運命のように思えた。
『はじめまして。ぼくのなまえは、ごくらくいん、いたるです』
『はじめまして! わたしのなまえは、しゅらどう、りんねです!』
初対面の挨拶を交わして、空き地に放置されていた土管に座り込みながら、軽い世話話をしてみれば、お互いに似たような境遇だということも分かり、それはそれは、大いに盛り上がった。
出会ってしまえば、その後の話は簡単だ。
幼い二人が恋に落ちるのに、時間なんて必要ない。
別れ際に、また会う約束をすれば、それだけで十分だった。
愛しい相手に会うためならば、家から抜け出すことなんて、全然まったく、わけもないことだ。だって、簡単なんだから。
その日から、至は夢を見続けている。
幸せな夢を、幸せを望む夢を、難しい夢を、ずっと、ずっと……。
ずっと……、ずっと……、ずっと……。
「おーい、生きてるかー? それともやっぱり、死んでるかー?」
「……生きてるから、腹を踏むのはやめてくれ」
幸せな夢を見ていた……、正しく言うのならば、すっかり気絶していた至を覚醒させたのは、右わき腹に感じる違和感だった。
感触からして、至は自分が堅い床の上で、左半身を下にして倒れ込んでいることはすぐに分かったので、即座に起き上り、閉じていた目を開く。
至としては、今の状況を確認するためにも、少しでも情報が欲しかった。気絶してぶっ倒れている自分のことを、容赦なく踏みつけてきた相手のことは、特に。
「なんだ! 生きてたのか! 死んでいたら服でも剥ぎ取って、防寒具でも作ろうと思ったのだがな! ガッハッハッ!」
なかなか外道な発言をしながら、豪快に笑っている男の声に、至はまったく、聞き覚えがなかった。
見た目に関しては……、よく分からない。至の目の前で、堂々と腕を組んで仁王立ちしている男の顔は、髪も髭も伸び放題で、判別ができないのだ。
まるで、首の上に頭じゃなくてマリモが乗っているような特徴的なビジュアルは、一目でも見たら忘れないだろうが、これにも至は、見覚えがない。
あのマリモの中身が、実は昔の知り合いである……、みたいな可能性も考えたが、声を聞く限りでは、どうやらそれもなさそうだった。
「いつもは飯が落ちてくる天井の穴から、大きな音を立てて落ちてきたから、てっきり配給物だと思ったんだがな! ガハハハ! いやー、勘違い、勘違い!」
マリモ男の言うように、この部屋の天井には、大きな穴が開いている。至は、チラリと自分が落ちてきた大穴に目をやりながら、身体の調子を確認したが、特に大きな問題は感じなかった。かすり傷くらいはあるかもしれないが、どうやら、ギリギリで咄嗟の受け身に成功したようだ。
至は内心、小さな頃から様々な武術を習得していてよかったと安堵しながら、鋭く視線を巡らせ、自らの置かれた状況を確認する。
まず、ここにいるのは、至とマリモ男の二人だけだ。マリモ男に明確な敵意はなさそうだが、油断はできない。
次に、至が落下してきたこの場所だが、そこは、簡単に言ってしまえば、なにも無い部屋だった。まず、窓が無い。それに、壁紙も床板も無いので、コンクリートが剥き出しになっている。そして、扉すら無いので、出入りは自由だ。
部屋の広さそのものは、それほど狭いわけではないが、生活感の欠片も存在しない雰囲気が、重苦しい圧迫感となっている。チカチカと点滅を繰り返す裸電球が、無駄に不気味だった。
「ガハハハハハ! ゲホッ! ゲホッ! ガハ! ガハ! ガハハハ!」
そんな陰鬱な空気を吹き飛ばすように、なにが可笑しいのか大笑いしているマリモ男は、笑いすぎてむせている。それはそれで、非常に不気味ではあった。
「……お前は、一体、何者だ?」
至は慎重に、だがハッキリと、相手に伝わるにように声を出し、目の前で爆笑しているマリモ男に、意思の疎通を図る。人語を喋るようだし、見た目は一応人間みたいだが、もっと珍妙な生物である可能性も、考慮しなくてはならない。
「うん? 俺か? そうかそうか! 聞きたいか! 俺の素性を聞きたいか!」
話しかけてきた至に向けて、マリモ男は嬉しそうに声を弾ませながら、突然奇怪なポージングを取り始めた。
いや、ただ両腕を折り曲げて、上腕二頭筋に力こぶを作っているだけなのだが、全体的にかなり体格が良い上に、
「ガーハッハッハッ! 遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 世間を騒がす地獄の悪鬼! 悪名轟くアウトロー! 凶悪無比の大悪党! 私立
耳が痛くなるほどの大声を張り上げて、次々に
「なっ! 当然! お前も! 知ってるだろう!」
「いや、全然知らないけれど……」
身も蓋もない至の一言で、菅田の巨体が、ギシリと
至と菅田の二人しかいない、重苦しい部屋に、身も蓋もない沈黙が訪れた。
「へぇー、菅田さんは、地獄谷高校の元総長なんですか……」
死んだ目をして体育座りをした至が、自分と同じ恰好でコンクリートの床に座り込んでいる菅田に向けて、話しかけるでもなしに呟いた。
「うむ、そうなのだ!
自らを現役高校生だと主張する菅田の言葉には疑問が残るが、しかし確かに、よく見れば、菅田の着ている衣服は、地獄谷高校指定制服であるブレザーとズボンだ。
両方とも、まるで強引に引き千切られたように短くなって、プレザーはダウンベストみたいに、ズボンは子供用の半ズボンのようになっているので、本当によく見ないと分からないのだけれども。
「ふーん、それは大変でしたね……。そんな、髭で顔が完全に見えなくなるくらい、閉じ込められてただなんて……」
「いや、俺が捕まったのは最近で、この顔は前からだが」
「……そうですか」
別に興味があって聞いた話でもなかったので、至は適当に生返事をしながら、ぼんやりと
至にとって、やることがないということは、本当に、苦痛なくらい退屈だった。
菅田忠雄の自己紹介をスルーした直後、至は固まるマリモ男をその場に残して、自らの置かれた状況を確認するために、扉もない出入り口から外に出て、この部屋以外も見て回ったのだが、そこは大体、想像していた通りの場所だった。
簡単に言ってしまえば、至が最初に落ちてきたのと同じような部屋が、ただズラズラと並べてあるだけの、非常に殺風景な空間だ。
それ以外は、なにもない。
本当に、なにもない。
大人数が集まれるような開けた場所は、存在しない。
食堂や、休憩スペースすらない。
テレビもない。パソコンもない。固定電話もない。携帯電話も通じない。本や雑誌の類もない。テレビゲームもない。アナログゲームもない。玩具もない。ラジオもないし、音楽プレイヤーも楽器もない。
とりあえず、暇を潰せるようなものは、なにもない。
時計もないし、カレンダーもないので、時間すら分からない。
窓がないので、空もない。運動場もないので、大地もない。
当然だが、この空間から脱出する手段も、存在しない。
本当に、悪夢の様に、なにもない。
それでも至はしばしの間、ぐるぐると辺りを歩き回り、他の部屋の様子も確認して回ったが、そこで見たのは、どこも大体、同じような光景だった。
天井に穴が空いた、コンクリートむき出しの部屋の片隅で、切れかけの裸電球に照らされながら、どこかに集まるでもなく、ポツンポツンと、膝を抱えていたり、無気力に寝転がっていたりしている、薄汚れた男たち。
モヒカンが多いが、割と普通の髪型もいる。そしてよく見れば、全員が同じブレザーを元にした改造制服を着ているのも分ったが、しかし、そんなことは関係無い。誰も彼も生気のない顔をして、誰も彼も同じに見えた。
そして至は、しばらく目的もなくうろうろとした後で、その死んだ顔の男たちと同じような顔をしながら、とぼとぼと元の部屋に戻ると、まだそこにいたというか、部屋の中央で寂しそうに膝を抱えて体育座りしていた菅田の横に腰を下ろし、自分も同じような格好で、虚空を見つめだしたのが、つい先ほどだ。
「おっ! そういえば、俺は見事に自己紹介を終えたが、まだそちらの素性は聞いてなかったな! さあ! お前は一体、何者だ!」
至が戻ってきてからの菅田は、再びテンションを上げて、多少強引にでも会話を続けようとしているが、これは単純に、菅田本人が暇を持て余しているからだろうと、至はぼんやりと当たりを付ける。
そして、その推測は、悲しいくらい正解だった。ようするに菅田は、極限まで退屈していたところに、外部から新しい刺激がやってきたので、喜び勇んで飛びついてきたにすぎない。
「……僕の名前は、極楽院至だ。
だがしかし、だからといって、至が菅田を無視する理由はない。
言ってしまえば、至も暇なのだ。
これからまさに、地獄のように暇になるのだと、嫌というほど分かっていたのだ。
「ほう! 天道ヶ峰の! なるほど! そう言われれば、着ている制服が俺たちとは違うではないか! ガハハハ!」
一応、天国ヶ峰と地獄谷の生徒は敵対関係にあるのだが、状況が状況だからか、菅田は至に対して、敵意を持つでも、警戒をするでもなく、ただ豪快に笑っている。
いや、状況がどうこうというよりも、これが菅田忠雄の性分なのだろう。
「うん? しかし、生徒会長? そんな大物が、なにがどうして、こんな場所に?」
頭の上に、盛大な疑問符を浮かべた菅田に向けて……、というわけでもないが、至はどこか機械的に、聞かれたことに対して、ぼんやりと口を開いた。
「……簡単に言えば、政敵に
「……せいてき?」
まず言葉の意味が分かっていなさそうな菅田は置き去りにして、至は淡々と、まるでマニュアルでも読み上げてるような無機質さで、説明を始めた。
「ここは、コキュートス……。天道ヶ峰高校の地下に存在する私設収容所の、封印されたはずの最下層だ」
もはや菅田の質問に答えているというよりは、自らの知識を機械的にアウトプットするかのように、至は死んだ目で続ける。
「最上層であるリンボより下層の収容所は、非人道的だという批判を受けて、はるか昔に全て閉鎖されたのだが、コキュートスはその中でも別格……、というより、別の目的を持って造られた施設になっている」
生気のない顔をしながら、膝を抱えてブツブツと呟き続ける至の様子からは、栄誉ある天道ヶ峰高校生徒会長の威厳は、微塵も見られない。
「はい? 別の目的?」
菅田から飛び出た疑問の声に、反射のように答える姿は、生きる
「それは、他の階層は収容所であると同時に、更生施設としての側面も存在したことに対して、このコキュートスは完全なる監獄であり、収容者を隔離することだけを目的としているという意味である……」
頭の片隅から、かつて生徒会長に就任した際に読み
本当に、どうしてこんなことになってしまったんだ?
「つまり、更生を諦められた者を放り込み、閉じ込め、放置することだけを目的とした場所であるために、ここから脱出することは、まず不可能である。それと同時に、ここには本当に、なにも存在しないので、コキュートスに閉じ込められた者たちは、その精神をジワジワと腐らせることになる……」
ペラペラと自動的に情報を垂れ流しながら、至の脳内は現状を嘆いているが、その原因は、もうとっくの昔に、分かっているのだ。ただ、自分がマヌケだったというだけの話だと。
「おお……! ここはそんなに危険な場所だったのか! ……って、あれ? でも非人道的だからと閉鎖されてたんだよな? なんで稼働してるんだ?」
菅田から上がった当然の疑問に、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、至はなんとか、真実を絞り出す。
「それは……、うちの副会長の仕業だ……」
そう、そうなのだ。間違いなく、それが全ての原因だ。
「僕はコキュートスの封印が解かれていたことも、そこに地獄谷の生徒が幽閉されていたことも、なにも知らなかった」
そう、極楽院至は、知らなかった。なにも気付かなかった。
「全ては副会長が……、彼女が僕を陥れるために用意した、周到な計画だった……」
結局のところ、極楽院至は、
「……秘密裏に地獄谷の生徒を襲撃、二校の抗争を激化させて、僕の仕事を増やすことで
恐らく、副会長である宇良の手によって、上がってくる情報も操作されていたであろうことを考えれば、至は自分の
本当に、見事にしてやられたものだ。
「あー、……なるほど! つまりお前は、仲間に裏切られたってわけだ!」
「……まあ、そうなるな」
そう、つまるところ至は、裏切り者の手によって、
裏切られたことが、ショックだったわけではない。そんなものは世の常だ。悪いというなら、弱肉強食の掟を忘れた自分が悪い。
ただ、その裏切りにまったく気が付けないほどに鈍っていた自分自身に対して、至は衝撃を感じずにいられなかった。
極楽院至は、そこまで盲目になってしまっていたのかと。
「……僕をコキュートスに閉じ込めたら、後は事後処理か……、生徒会長は激務に耐え切れず、自ら逃げ出したと発表……、副会長である自分が、次の選挙まで生徒会長代理として収まると宣言するとして……、その後は……」
嘆いてみても、特にやることはないので、至は頭の中でツラツラと、今後の展開を予想してみた。このままでは暇すぎて、脳が活動を止めてしまいそうな危機感が、彼にそうさせたのかもしれない。
「……その後の選挙で、確実に勝利するためには、揺るぎない実績が欲しいな……」
天道ヶ峰高校において、宇良副会長の評判は上々だが、それでもこれまでは、優秀すぎる至の影に隠れてしまい、あまり目立っていたとは言い難い。
天道ヶ峰のトップを決める選挙ともなれば、それは熾烈な争いとなることは確実といえる。宇良は折角、自らが生徒会長の椅子に座るために、ここまでしたのだ。慎重な彼女なら、最後まで確実に勝利できる筋書きを、描いているはずだろう。
なにか確実な……、それを成し遂げることで、天道ヶ峰の全校生徒から感謝されるような、劇的な実績を……。
「……地獄谷高校を、潰すつもりか!」
その考えに行きついた瞬間、腐りかけていた至の脳内に、凄まじい閃光が瞬いた。
自分で抗争を激化させ、自分で収める。究極の自作自演だが、今まさに、天道ヶ峰の生徒たちが受けている被害を考えれば、効果は抜群だろう。
だがしかし、今の至にとって、そんなことはどうでもよかった。
宇良の策略なんて、どうでもよかった。
彼にとって大切なのは、危険に
「菅田」
「お、おう? なんだ?」
決められたレールの上を歩くのも嫌いではなかったし、周囲の期待に応えるのも悪くなかったが、こうなってしまっては、仕方ない。もうすでに、他人の手によるものとはいえ、至はそのレールから、転げ落ちてしまったのだ。
立場も、しがらみも、もう、なにもない。
この盲目を
だったらもう、退屈を感じた子供がすることなんて、決まっている。
「ここから、脱走するぞ」
「……ほう! そいつは随分、楽しそうな提案だな!」
愛する者を守るため、至は閉じていた目を開けて、立ち上がる。
さあ、ここからは、
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