第1話 異変 7月21日
目を覚ますと部屋は薄暗かった。
眠りに落ちる前のことを思い出しながら上半身を起こす。
「くっ…。ぐうぅ……」
その時、今まで経験したことのない鋭い痛みが頭の中を駆け巡り、激しいめまいを巻き起こす。全身の毛穴が開き、じっとりとした嫌な汗をふきださせる。
「なん…だ…これ…」
うめき声をもらしながら頭を押さえ、ベッドの上でじっと耐える。
きっと、数分も経ってはいないだろう。しかし俺にはとても長い時間のように感じられた。
ようやく症状が治まりふぅと息をつく。
「なんだったんだ…」
そのまましばし茫然としていると、さっきまでのことがまるで嘘だったかのように調子が戻ってくる。一度下に下りて麦茶でも飲もう。
そう思い立ち、ベッドから立ち上がった瞬間だった。
「なんだこれ…?」
そこにあったのは見慣れない、年季の入ったテーブルだった。部屋にテーブルはあったがこんな物ではなかったぞ…?
なんとなく部屋を見渡してみる。
違和感。違和感。違和感…。
紛れもなく俺の部屋のはずなのに、どうにも拭えぬ違和感。
全く別の部屋になっている、というほどではない。ともすれば見逃してしまいそうな小さな違和感がそこら中に転がっているかのような感覚。
形容しがたい不安に苛まれながら、逃げ出すように部屋を出る。そうだ、俺が寝ている間に愛美がなにかしたんだろう。今朝朝飯を食わなかったことを根に持っていやがるな。可愛い奴め。いや、可愛くない。
自らを落ち着かせるためにあれこれ夢想しながら顔でも洗おうと1階に下りる。
するとなんだかいい匂いが鼻孔をくすぐってきた。この匂いは味噌汁だな。愛美のやつ味噌汁なんて作れたのか。
「おい、愛美」
部屋の有様について問いただそうと、キッチンに通じる扉を開きながら声を掛ける。はたしてその目に飛び込んできたのは全く予想だにしない人物だった。
「あら涼、おはよう。今日は早いのねぇ」
「母さん…!」
そう。俺の母親、大崎美奈子である。いつの間に帰ってきたんだ?仕事で帰宅がまちまちな母は、家に帰る前には必ず俺に連絡をくれていた。あぁ、寝ていたから気付かなかったのかな。
「母さん、帰ってたんだ」
「朝から何言ってるの?寝ぼけてるのかしら」
朝…?そんなに寝ていたのかな…。穏やかにほほ笑む母をしり目に顔を洗うべく洗面所に向かう。
- - -
リビングに戻ると、ちょうど2人分の朝食の準備が完了したところだった。
「朝ご飯できたわよ」
「あぁ、いただきます。母さんの朝飯は久しぶりだな」
席に着きつつなんとなく放った言葉。俺にとって母親の作った朝食は本当に久しぶりだったから。
しかし、その言葉を聞いた母さんが訝しんだような眼差しを向けてきた。
「また変なこと言って…。毎朝ちゃんと作ってるじゃないの。まだ寝ぼけてるのね」
「えっ?」
呆れたような表情で朝食を食べ始める母。いやいやそっちこそ何を言ってるんだ。仕事に追われてあまり家にも帰ってこないのに。
やや苛立ちを感じてしまい、嫌味のように母に言葉を返す。
「母さんこそ何言ってるんだよ。いつも作ってるのはだいたい俺だよ。たまーに愛美も作るけど」
そう、確か昨日は愛美が用意してくれたっけ。昨日のやり取りをぼんやり思い出しながら言うと母さんの口から帰ってきたのは、およそ思いもよらない言葉だった。
「涼、大丈夫?愛美さんって誰?」
「はぁ?」
訝しむような表情の母。思わず間抜けな声が出る。
「いやいや、朝から変な冗談やめろよ」
そんな冗談を言うとは珍しい。
微妙な冗談のセンスに戸惑いつつ味噌汁に口をつける。
「昨日は何時頃帰ってきたんだ?学校から帰ってすぐ寝たから全然気付かなかった」
「涼…?昨日はお母さんお休みだったから、ずっと家に居たわよ?晩御飯も一緒に食べたじゃない」
「はいぃ?」
今度は右京さんが出る。今日の母さんは変だ。会話がいまいちかみ合わない。
…俺がおかしいのか?
「そうだっけ…?」
「そうよ。久しぶりにお母さんが作った夕食を2人で食べたじゃない」
「愛美は?」
「どちら様なの…?あぁ!彼女さん?涼、いつの間に彼女さんを?」
「な、何言ってるんだ、母さん…」
やはりおかしい。会話が全くかみ合わない。
そこではたと気が付いた。朝食は2人分。俺と、母さんの分。
愛美の分は用意されていない。
朝からの奇妙な出来事の連続。否応なく不安が胸に押し寄せる。
「くっ…!」
ばっと立ち上がりリビングを後にする。
「涼?!どうしたの!」
心配そうな母の言葉を背に、急いで階段を駆け上がる。
不安を解消するには自分の目で見て確かめればいい。
自室の前を通り過ぎその奥にある愛美の部屋の前に立つ。経験したことのない緊張感。今までこんなに緊張しながら妹の部屋を開けたことがあっただろうか。大丈夫だ。扉を開ければ、愛美はいる。
「…ふぅ」
自分を落ち着かせるために軽く深呼吸をする。今日だけでいったい何度目だろうな、自分を落ち着かせるのは。
汗ばんだ手でドアノブを握り、その手に力を込める。
「…よし」
意を決して勢いよくその扉を開く。
「嘘…だろ…?」
そこは俺のよく知った妹の部屋などではなかった。
今ではもうすっかり使わなくなったブラウン管テレビ。俺が昔遊んでいたであろうおもちゃ。読んだことはおろか手に取ったことすらないハードカバーの本。その他にもどこか古ぼけた品々が雑然と置かれていた。どこからどう見ても物置部屋である。
「どう…なってんだ…?」
俺の頭では理解が追い付かなかった。
何がどうなっている?
昨日帰ってきたときには特に違和感はなかった。
まるで違う世界にでも迷い込んでしまったような、頭の中を誰かとまるごと取り換えられたような。何とも言えない漠然とした不安が恐怖になりかけていたとき、心配で見に来たのだろう母が声を掛けてきた。
「大丈夫?顔色悪いわよ。今日は学校を休んだら?金曜日だし、3連休にしてもいいんじゃないかなぁ」
「あぁ…。休む…」
絞り出すように言葉を返す。あれ?今日は土曜日じゃなかったっけ…?まぁそんなことは今はいいや…。
― ― ―
自室のベッドで横になる。
あれほど違和感にまみれていたこの部屋も、より大きな違和感で上書きされた今ではそれほど気にならなくなっていた。
一晩のうちに世界か、俺の頭がおかしくなってしまったのだ。
確率が高いとすれば後者の方だろうな。病気か何かか?どっかで頭打ったっけ俺。
こういう時はどうすればいいんだ。誰かに相談か?誰に?啓祐あたりか?いや、啓祐は授業中だろう。返事がすぐに帰ってくるとは思えない。いつ帰ってくるかもわからない返事を待つ気にはなれなかった。
「なんだってんだよ…」
なにが起こっているか理解できないもどかしさ。なにをしていいか分からない焦り。不安に胸が押しつぶされそうだった。
「…そうだ」
そこですっかり置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。スマホは俺の記憶の通りの機種だった。そんな当たり前のことに少し安堵する。
「ない、か…」
一縷の望みを託しスマホに愛美の痕跡を探すが、何一つとして見つけることができない。まるで初めから存在しなかったかのように、この世界から消失してしまった。
「そうだ…。ωちゃんねる。いや、でもな…」
俺がよく見る大規模掲示板“ωちゃんねる”その中のひとつVIP板。あそこは専門板などとは違い雑談板のような扱いになっている。
「たまにあるよな、異世界に迷い込んだ的なやつ…」
興味本位で覗いたことはある。だいたいが冷ややかな反応だ。信じる者などいないのかもしれない。かくいう俺も、自分がこんな状況に置かれなければ鼻で笑っているだろう。
「ええい、駄目で元々だ」
あそこは人だけは多い。少なくともすぐに何らかのレスはつくだろう。もしかしたら誰かしら話を聞いてくれるかもしれない。
「これでよし、っと」
とりあえずVIP板にスレを建てる。
スレタイは『朝起きたら周りの状況が一変していた件』とし、あえて>>1には詳しいことは書かなかった。
するとすぐにkwskや、どうしたなどのレスがつく。ここで自分が置かれている状況を伝えるべく文字に起こす。改めて文章にすると自分の中でも整理がつき、少しだけ落ち着くことができた。
「さて、どうなるかな…」
朝起きてから今までの状況を説明するレスを投稿する。話がややこしくなりそうなので日付が一日戻っている感覚については書かないことにした。
すぐにぽつぽつとレスがつく。
「そうだよなぁ…」
内容は冷ややかなものばかりだった。ある程度予想していたことだがそれでも落胆してしまう。
諦めてスマホを閉じようとしたとき、新着レスがついたことを知らせてくれる。見るだけ見ておくかと更新をタップ。
23:以下、VIPがお送りします2017/7/21 9:12:51
>>1の記憶の中での昨日なにか変わったことはなかった?
例えば体調が悪くなったとか
ID:kagjeif4y
「体調…。そういや昨日はすこぶる体調が悪かったな」
いつの間にか良くなっていたことと、立て続けに起こった色々な出来事のせいですっかり忘れていた。それにしてもよく分かったなこいつ。
昨日の体調不良、ついでに寝起きで起こった強烈な頭痛とめまいについても伝えるレスを投稿し、しばし反応を待つ。
26:以下、VIPがお送りします2017/7/21 9:15:17
>>1と同じ症状の人を知っている
詳しく話がしたい
捨てアド晒すからメールしてくれ
ID:kagjeif4y
「なん…だと…」
思いがけないレスだった。自分の置かれている状況について何か情報が得られるかもしれないのだ。
しかし、“症状”という言葉が気にかかった。やはり病気…?“愛美”なんて人間は存在せず、この記憶は何かの病気が作り上げたとでも…?
複雑な心境の元、次のレスに晒されたアドレスにメールを送信する。
するとすぐに返信が届いた。
『私にもあなたと同じような経験がある。直接会って詳しい話をしたい。時間と場所はそちらに合わせる』
同じような経験…?信用できるのか?
思考を巡らせていると追撃のようにもう一通届く。
『私と一緒に奪われた家族を取り戻そう』
奪われた…?
誰かが連れ去ったとでも?
今の状況は、誘拐とか家出とかそういう類のものとは到底思えない。
それはスレでも再三伝えてある。なんなんだこいつは…。
― ― ―
その後何度かメールのやり取りをして、偶然にも俺と同じ神奈川県在住だということが分かったのでとんとん拍子に明日直接会う約束を交わした。
ネットで知り合った人間にリアルで会うのは初めてだ。正直あまり気は進まないが、今はそうも言っていられない。
メールの相手の言っていることが本当なのか。
明日待ち合わせ場所にちゃんと現れるのか。
現れたとして本当に何かしらの心配はないのか。考え出すときりがない。
今日は間違いなく俺の人生で一番の激動の一日だった。
こうしてベッドに横になっていると、だんだんと眠気が襲ってきた。
俺の神経もずいぶんと図太いものだ。こんなわけのわからない状況でも眠くなるとはな。
まぁいいや。朝から立て続けにいろいろなことが起こりすぎた。少し寝ても罰は当たるまい。それにひと眠りして目覚めたらすべて元通りなんてこともあるかもしれないからな…。
不安な未来を想像しながらも、淡い望みを託して今は眠ろう……。
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