序章3話

平地に並ぶ棟群と園庭を囲うように堀と壁が築かれたものが、学園だ。

その外周、成人の男子とあっても歩破するだけで一苦労だ。

その難を、学園内の部活動においては、基礎体力を養う走周路としている部も存在する。

それだけではない。

学徒による学園内では憚られる魔法練習、自身にまとわり付く贅肉と向き合う決を固めた者にも好評だ。

そして、ここにも一人。

部の活動以外で、学園外周に佇む者が。


現在。

現在時間。

夜明け前の暗がりの中でハネンル=エー=ファノは、首から革紐で吊り下げた時計を握り締めていた。

右手の中。

クロノから半ば強制的に貸し与えられたこれは。

当初、あれこれ彼に文句を吐き並べたファノの意に反して、結局は彼女の生活必需品と成り上がった。

あの頃は、若かった。

と言い訳したいところだが、その出来事は僅か二年前。

ファノがクロノに初めて出会った頃、延いては彼女が学園に籍を置くようになった際の話だ。

しかし、一つだけ弁解させて欲しい。

クロノの奴は、時計における基礎的な概念や用法のみならず、この機械と他の機器用いた天文式計測の類まで自身の頭に叩き込もうとしたのだ。

星の並びの意味と、太陽や月の動き、その「読み方」は一族に伝わる教養として身につけているにも関わらず。

「こちらの方がずっと正確で実用的だから」と食い下がってきたのだ。

奴を説得するのが、どれだけの骨折りだった事か。

しかし、「一日」や「一時間」といった区切りをつけた時間の中で。

個々の事柄についての配分を定め、その進捗状況を確認するには、この小さな機巧装置は正に適任だ。

特に、この早朝における日課以外は、日々諸職務に追われる身には。

それだけは、自身に時計を貸し与え、その基礎読法を教えたクロノに対して感謝すべきだろう。

或いは、「バカな『時間師』と時計は使いよう」と言ったところか。


「おや、ハネンル先生ではありませんか」


不意に、ファノは背の方角から呼びかけられた。

その内容から察するに、声の主はこちらに敵意や警戒の念を抱いていないだろう。

そもそも、その者とは日が浅い仲ではない上に。

ヒトの言葉で表せば、「気配」が明らかに得物を抜いたあの時の、緊張感を孕んだものではない。

ここまで用心するのは本能か、或いは「一族の教養」か。

いずれにせよ、この平和な学園生活の中でも、簡単には薄れないものだ。

振り返る途中の一拍で、ファノは自嘲的な表情を浮かべた。

これだから、「いつもイライラしているように見える」と評されるのであろう。

しかし、それは「血」か「生まれ」が為している事象の故、仕方がないと言えば仕方がない。


「ああ、シュシェール先生。おはようございます」

「おはようございます」


予想と寸分違わず。

否、確信していた、振り向いた先にいる人間を。

この学園における魔法史担当であるシュシェールの今朝は、普段の教職衣ではなく、運動に適した軽装であった。

そこから考えるに、その軽装の下にある恰幅のよい体躯を、幾らか細くする腹積もりだろう。

しかし、まずは一度の食事量を幾分か減らすのが効果的だろう。

前に、何度か昼食や会食を共にしたことがあるが、体を動かす授業も常としている自身と同じ量を平らげていたのだから。

と言いかけたが、さすがのファノも胸中を悪戯に口にする程思慮浅はかではない。


「先生は普段からこれを?私はトスゴーラ先生に『良い方法がある』と教えて頂いたのですが」

「はい、この学園に赴任してきた頃からずっと」

「それはそれは、私は今日初めてなので。さすがは体術の教師もやっておられるだけありますな!」


一度は抑えたはずなのに。

少々、揶揄いたくなる。


「いいえ、どちらかといえば教頭という立場から行っている事です。健全な心身とは、常日頃の鍛錬によって形作られる、とは私の部族の教えで。曲りなりにも人の上に立つ者だからこそ、こうやって普段から自分に日課を貸しているのです」


ついに、言葉にしてしまった。

ファノが口走る返しの最中に、徐々にシュシェールの笑みが苦笑いに変わっていく様。

これだから、学園教職員の少なからずから、「蛮族生まれの、小生意気な小娘」と陰口叩かれるのだろう。

一族の誇りを貶されるのは我慢ならないが、実際にまだまだ小生意気な小娘である事は、普段の教務から痛感している。

常日頃の行い。

自らの台詞が脳裏で蘇る、笑い話以下にもならない。

その意味では、教頭として学園に着任当初から、クロノは妙に自身に馴れ馴れしかった。

意識を向けて感じる、胸前の質量。

大層な魔力を消費して異世界から召喚したという、この時計を自身に貸し与えたのだ。

名は「デイトナ」というらしい。

クロノ曰く、「異世界において随分高名な工房の随分高名な逸品」とのことだが、名も銘もどうでもよい。

しかし、時計に疎いファノでもこの堅実な作りの機巧品はお気に入りだ。

それにしても、眼前の老教師は、件の変わり者時間師と茶事仲でもある。

程々にしておかなくては、この品を貸し与えられた義と、もはや短くはない教師と教師の縁において、クロノに背くことになる。

それから、二三言交わし、ファノとシュシェールは互いの体力領分に見合った速度で、学園外周路に着いた。


「程々」と胸中で誓ったが。

ヒトの老教師が一周歩く時間の中で、ファノは何度も彼を追い越し駆けた。

今朝だけで計十八周、これでも今日はこれから二度の体術授業を控えている故に抑え気味だ。

「これ見よがし」では決してない。

それはシュシェールも感じ考えるところだろう。

良くも悪くも、ヒトとは違う。

自身を覆うこの毛並みは、ヒトの生活に合わせ短く切りそろえた爪は、野性の性を感じさせる立ち耳と髭は。

間違いなく、獣人族出身の証。

故にファノは、体毛の上にベルトを巻いた感触を嫌い、腕時計をわざわざ紐で首から吊り下げ愛用しているのである。


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