第1部 1973年 第3章 同志
夏から秋にかけて、プログレの仲間が新たに加わった。
おもしろかったのは、それぞれにひいきバンドがあり、まるで担当制のようになっていたことだ。
ひとりでプログレやその他のロックのレコードを買い集め楽しむにはどうしても経済的に限界がある。そこで僕らは、あるバンドのレコード(前身のバンドやソロ活動等を含む)を、まずは仲間内でそのバンドの最高のファンを自認する一人ができるだけ揃え、かつ極力皆に聴かせるという制度を敷くことで、この経済的な問題の解消をはかったのである(我ながらなんだが、こういう熟語多用のもって回った言い方はいかにもプログレ的だと思う)。
本町中学校サッカー部のキーパー・衣笠剛は、エマーソン、レイク&パーマーの担当である。特に、ドラムスのカール・パーマーは彼にとって神の如き存在であった。
剛とは、我が家から小中学校へ通う道筋に彼の家があり、クラスも一緒のことが多かったので毎日のように連れ立って登校する仲だった。父親は工務店の社長。市内で一番腕がいいと評判の大工で「男の子は負けーなよ言い訳すーなよ」が口癖の古風なタイプだ。剛には誠という年の離れた弟がいてとてもかわいがっていたが、何かの折に剛が誠に対し、父親とまったく同じこのせりふで叱っているのを見たことがある。
剛は絵に描いたような男らしい少年だった。小柄ながらスポーツ万能で鳴らし、中学のサッカー部では、2年生にして上級生から正キーパーの座を奪い取っていた。勉強は数学や理科が得意である。だから、僕のようなスポーツが苦手の文化系の少年とは正反対のタイプなのに、なぜかウマがあった。
さて、春以来プログレに夢中になった僕は当然のように剛にもイエスの『危機』を聴かせた。しかし、反応はもうひとつだった。続いて『危機』の前作『こわれもの』も聴かせた。『こわれもの』にはイエスの曲のなかでは一番親しみやすいメロディの「ラウンドアバウト」という曲が入っている。
ずいぶん気に入ってくれたようだが、青春期特有の「電撃的ショック」を受けたようには見えない。こいつはどうもプログレのタイプじゃないのかなと思っていたのだが、夏休みに入ったばかりのある日、突然、プログレ界の住人となったのだ。
きっかけはまたも雅之。一本の電話である。その日はたまたま、剛がうちに遊びにきていた。
「おい、すぐNHKをつけろ。ELPがテレビに出ちょるぞ!」
「何!」
テレビや電話が家のあちこちにある時代ではない(友達から電話がかかってくること自体大変珍しい。友達から、いや誰かから自分あての電話がかかってきたのは、もしかしたら生涯でこの時が初めてだったのではないだろうか)。店先で受話器を置くと、僕は居間に走り、チャンネルを回した。
そこには、「動くELP」がいた。まちがいなく雑誌のグラビアで見た3人だ。僕は、子供部屋に残してきた剛にすぐ降りて来いと叫んだ。
ELPの3人のステージは、想像していたよりずっと激しく、乱暴ですらあった。若い男の汗の匂いがした。長々と伸ばした金髪が、僕ら、野球部でもないのに校則によって坊主頭を強いられている田舎の中学生には一際まぶしかった。3人とも、ぜい肉のないたくましい身体をしていた。めったに見られない、いや2度と見ることのできないであろう宝物のような映像であった。僕らは、彼らの一挙手一投足を脳裏に焼き付けるべく、じっとテレビに見入った。
「英二。ELPのレコード、持っとうか?」
番組が終わると、剛は言った。その瞬間、僕にはわかった。たった今、剛はプログレの、いや少なくともELPの虜になったのだと。残念ながら僕は一枚も持っていなかった。
翌日僕は、サッカー部の練習を終えた剛を連れて雅之の家へ行き、暑い部屋に籠って昨日テレビで見たELPの話をし、レコードを聴いた。
僕らは『展覧会の絵』そして『タルカス』の2枚を続けざまに聴いた。剛は瞳を閉じ、首を上下左右に振ったり、身体をリズムに合わせて揺すったりしながら音楽の世界に没入していた。昨日の「動くELP」を思い浮かべ、レコードの音楽にその映像を重ね合わせているように見えた。
「昨日はすまんかったのう、最初から見れんで。俺もぎりぎりまで知らんかったけん。あわてただろう」
あやまることなんかない。剛も僕も心から礼を言いたい気持ちだった。
「あの番組(『ヤング・ミュージック・ショー』というタイトルだった)だけどな、2年ぐらい前から時々放送しとるって、兄貴が言っとったぞ。ストーンズやクリームの回もあったし……。驚くなよ…」雅之はもったいつけてこっちを見た。
「3月にはなあ、ピンク・フロイドも出たんだと!」
言うなり、雅之はのけぞった。
「ピンク・フロイドのライブ! 本当か?」
「ああ、そげだ。『ライブ・アット・ポンペイ』っちゅうそうだ。インドで「エコーズ」を演奏したわけだな」
「え? エ、エコーズ! 本当か!!」僕も天井のカーリー・サイモンを仰ぎ見た。
「エコーズ」は、アルバム『おせっかい』に入っている実に感動的な曲で、僕にとってフロイドの曲の中ではあの「原子心母」や、最新作『狂気』をも凌ぐ、一番のお気に入りだったのだ。
何ということだ。「エコーズ」のライブを見逃していたとは……。一生の不覚だ。
しかもインドで演奏というのがいかにもいい感じではないか。僕は『狂気』の歌詞カードやポスターに映っていたエジプトのピラミッドのことを思い出していた。エコーズのインドライブは、いったいどのようなものだったのだろうか…(実は、この番組は、イタリアにある、火山の噴火で滅んだ古代ローマの都市「ポンペイ」の遺跡で収録したもので、雅之が言ったインドが間違いであることを後日知ることになる。僕らは「ポンペイ」をインドの都市「ボンベイ」〈現在はムンバイ〉と勘違いしていたのだった)。
くそー。ピンク・フロイドのライブ、しかもエコーズのライブを見逃してしまったのは返す返す残念だが、あきらめるほかない。仕方がない。3月といえばそのころ僕はまだプログレもフロイドも知らなかったのだから。
ところが、救いの神がいたのだ。
雅之によると、昨日のELPライブは昨年の秋ごろ一度放送したもの、つまりは再放送だったという。ということはこの春放送されたピンク・フロイドもそのうちにもう一度見るチャンスが訪れるのではないだろうか…。いやきっと再放送されるはずだ。
「今度の放送は万全の態勢で臨むぞ。録音もマイクでなくラインで採るし、写真もきっとうまく押さえてみせるけん」
僕らは思いつきもしなかったが、雅之はテレビの前にラジカセを置き、搭載のマイクで、貴重なELPのライブを「生録音」していた。それだけではない。写真が趣味という祖父に借りた自慢の一眼レフカメラと三脚をテレビの真ん前に据えて、ブラウン管に映るライブ映像を撮影していたのだ。
しかし、録音されたテープには、ELPの演奏の上に、ああだこうだとやりあう雅之と祖父の罵声、さらには人間たちの剣幕に驚いたのか飼い猫の鳴き声までかぶっていたし、ブラウン管を撮った写真も、肝心のシャッタースピードが合っておらず、上下に画像が流れていて出来の悪い心霊写真のよう。とても見られたものではなかった。
「末次、ELPは日本に来たことがあるそうだな…」
剛が突然口を開いた。雅之と剛はこれまであまり付き合いはなかったはずだ。
「おう、去年の夏、東京と大阪にな。ライブの会場はどこだと思う?」
彼らは、後楽園球場と甲子園球場で待望の来日公演を果たしていた。今となっては珍しくもない球場でのライブだが、当時は、1971年のグランド・ファンク・レイルロードと72年のELPの2つのバンドだけだった。
皆で溜め息をついた。僕は3年前に万博を見に一度だけ大阪へは行ったことがあったが、東京へは一度も行ったことがない(たぶん剛も雅之も同じだと思う)。近年、プログレを始め、外国の名だたるロックバンドが続々と来日し東京や大阪などで公演を果たしていることは雑誌で読んで知っていたが、山陰の田舎町に住む少年である僕らには遠い遠い国のできごとのようだった。まして、後楽園球場や甲子園球場は巨人軍のスター選手(この年はまさに9連覇の年である)や高校球児が躍動する野球の聖地であって、ロックのコンサート会場として使うというのは、想像の域をはるかに超えていた。今、剛が夢中になりつつあるバンドはそういうバンドだったのだ。
思えば1970年代前半の洋楽シーンは、圧倒的にイギリス勢が優勢だった。
専門誌「ミュージック・ライフ」の当時の人気投票を見ても、ビートルズ(70年に解散)とローリング・ストーンズの2大バンドに、イエス、ELPらのプログレ系、さらにレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルを両巨頭とするハードロック系と、ことごとくイギリスのアーティストが上位を占めていたが、その中でもELPは抜群の支持を誇り、特にドラムのカール・パーマーの人気が際立って高かった。同誌の1973年のミュージシャン・オブ・ザ・イヤーはELPで、パート別でも、キーボードでキース・エマーソン、ベースでグレッグ・レイク、ドラムスでカール・パーマーがいずれも首位を獲得し、なおかつカール・パーマーの票数は全パートの全プレイヤー中トップであった(ちなみに男性ボーカルのトップはミック・ジャガー、女性ボーカルはキャロル・キング、ギターはエリック・クラプトン。キャロル・キングを除きすべてがイギリス人である)。
このELPの異常なまでの人気を支えていたひとつの要因に、その外見の良さがあったことはまちがいない。
先に僕はイエスのメンバーたちを「白人の王子さま並みにハンサム」と書いたのだが、ELPは3人が3人とも「並み」どころではなく、そのまま「王子さま」であった。しかし、テレビで本物のライブを見てよくわかったが、絵本に出てくる王子さまのように「やわ」でなく、一度火がついたら手がつけられない、興奮するとナイフでオルガンを刺してしまうという暴れ者の王子さまなのだった。
この3人は、性格の異なる三兄弟のようにキャラクターがうまく棲み分けできていたところもまた人気の理由だったように思う。
野生的な雰囲気で天才肌の奇人が長男キース・エマーソン。甘い顔立ちの詩人でロマンチスト、堅実な一面も併せ持つ次男グレッグ・レイク。そして実際に年齢が一番若くルックス抜群のカール・パーマーは、少年のような純粋さを持つ努力家だが、まだどこかやんちゃところのある末っ子、というふうにだ。
それからもうひとつ。3人のイギリス人の名前が比較的短く日本人にもとっつきやすく発音しやすかったこと、並べた音の響きが韻を踏んで美しかったことも忘れてはならないし、さらにいえば、名前から想起されるイメージが良いことも大きかったのではないだろうか(僕の場合、エマーソン=偉大なる思想家、レイク=深くて神秘的な北国の湖、カール=美貌の青年皇帝、というふうに勝手に思い浮かべていたのである)。
しつこいようだが、彼らの名前(つまりはバンド名)の魅力については、こういう仮定の話でより理解してもらえると思う。たとえばだ。唐突ではあるが、リック・ウェイクマンの後任としてイエスに加入するかどうかで一時話題となった「ヴァンゲリス・パパナサシュウ」というギリシャ人のキーボードプレイヤーがいる(彼はのちに「炎のランナー」など映画音楽での成功を経て世界的音楽家となる)。
もしも、もしもだ。彼が超人気バンドELPの一員に加わったとして、こういう名前ではちょっとつらいのではないだろうか(エマーソン、レイク&パーマーの誰かを「パパナサシュウ」に変えて口に出して言ってみるとよくわかるはずである)。
ELPというバンド名についてさらに書く。後年、ELPの解散後、キース・エマーソンとグレッグ・レイクはドラマーを替えて活動を再開するが、その際、なんとPの頭文字を持つコージー・パウエル(Cozy Powell)を選んでいる。このことからも「EL&P」というブランド名の価値の重さがうかがい知れるのだ。コージー・パウエルはジェフ・ベック・バンド、レインボーなどで活躍したバリバリのハードロック系ドラマーであって(へたという意味ではない)どう考えてもプログレのタイプではない。エマーソンとレイクがそんなパウエルと組んだ最大の理由は「名前がPで始まるドラマー」で、次がマスク(ジェフ・ベックと瓜二つの精悍な顔立ち)、肝心のテクニックやセンスはせいぜい3番目ではないかとELPファンの多くは確信しているはずだ。
話を元に戻そう。それはともかく、剛はまったく違う見方で彼らを捉えていた。
「雅之、俺は英二の家で一度『タルカス』を聴いとった。でも、昨日テレビで見て初めて、こげんかっこいいバンドはないと思った」僕らは剛を見つめた。
「ELPは3人トリオだろう」
当たり前のことを言う。
「ということはな、いつもぎりぎりで勝負しとるんだ。手抜きは絶対に許されん」
4人だろうが5人だろうがプロなら手抜きなどしないと思うが、こいつに言われるとなぜか説得力があるから不思議である。
「野球でいえば9回裏で1点差、ツーアウト満塁ツースリーだな」
サッカー部のくせに野球を引き合いに出すなよ。しかし、やつの言いたいことはわかった。
「キースは鍵盤楽器なのに派手に動き回って目立つし、レイクもベースを弾きながらバンドでただ一人歌うから主役っぽい。だけどなあ、ステージのど真ん中でカールがその二人を支えとると思わんか。俺は断然、カールのファンになったわ!」
最後は、きっぱり宣言した。剛は野球におけるキャッチャー、そしてもちろんサッカーのキーパーの役割を、ELPの天才ドラマー、カール・パーマーその人に投影したのであった。
キング・クリムゾンを受け持つのは「博士」の異名を持つ湯原学だ。
本名もあだ名も賢そうだが、実際勉強はよくできた。父親が高校の古文の教師というのもいかにもそれらしい。
しかし成績がいいだけのひ弱ながり勉タイプではなかった。筋肉質でがっちりしており、陸上や水泳といった忍耐力の必要な個人競技で力を発揮した。運動部には入っていないが、走っても泳いでもかなうやつはめったにいなかった。普段は無口なのにやるべき時にはいきなり実行する、そんなやつだった。角ばった身体に、青々と短く刈りあげた坊主頭、もみあげから口周りとあごにかけては早熟の証である無精ひげをたくわえ、黒縁の度のきついメガネをかけていた。
畏怖すべき存在として湯原学の名を全校に知らしめたのが、この春の出来事だった。
あるクラスメイトとのいさかいである。そいつは隣町の小学校出身だったので湯原の恐ろしさを知らなかったのだろう。アイドル歌手の誰が一番かわいいかというたわいない話でなぜか湯原と言い合いになった(当時は天地真理、浅丘めぐみ、南沙織が大御所の3強で、桜田淳子、山口百恵、森昌子が新人の注目株だった)。それから数日後の体育の時間のこと。剣道の試合で、湯原は思い切りそいつの喉元に強力な突きを食らわしたのだ。運の悪いそいつは2、3日学校を休んでしまったという。
9月の終わり、雅之から電話があって家を訪ねると湯原学がいた。
「こいつはキング・クリムゾンの大ファンだけん。イエス派の英二と対決させたらおもしろいと思ってのう」そういって、雅之は笑った。
湯原は、思い描いていたのとちがってよくしゃべる男だった。
「4年前だぞ、4年前。1969年。『クリムゾン・キングの宮殿』の発売は。今日のプログレ隆盛はクリムゾンが決定的に影響しとるわけだ。それを忘れてもらっては困るけん。英二」
初めて口をきく相手をいきなり呼び捨てにして、この物言い。でもまあ、悪い気はしない。こいつも熟語多用のプログレ大好き野郎なのである。
「クリムゾンの世界観は、占星術、錬金術、黒魔術など古代から中世にいたるヨーロッパ美学への傾倒に始まり、ベトナム戦争に象徴されるアメリカ帝国主義や現代資本主義社会への皮肉と批判にまで含んでいる。一方、音楽表現としては正確無比のテクニックを持ちながらもジャズのもつ自由奔放さを追求するというように相当複雑な要素を持っとるんじゃ。さらに驚くべきことに、メンバー中、楽器を演奏せず作詞だけを担当する詩人までおる。こんなバンドはプログレ界、いやロック界広しといえどもキング・クリムゾンしかないだろう」
14歳の少年湯原博士はざっとこういうようなことをすらすらしゃべった。
「おまえの好きなイエスのドラマーのビル・ブラッフォードが、去年キング・クリムゾンに移籍したのは知っとうだろう。そんときやつは何と言ったか」
このインタビューは雑誌で読んだ記憶があった。僕は思わず目を伏せた。
「ブラッフォードは言った。イエスでやるべきことは全部やり尽した、とな。ふっふっふっふっふ」湯原は横目でダメを押すようににらんだ。
「ということはだな、キング・クリムゾンの方がイエスより進歩的なバンド、プログレッシヴちゅうことになるわけだろう」
僕は『危機』でイエスにはまって以来、その歴史を、一枚一枚アルバムを遡って探求する途上にあったが、彼らがメンバーを入れ替えながら(クビにしながら)見事なまでに着実に進化し続けてきたことにすでに気付いていた。悔しいが、ブラッフォードは、イエスの進化に限界を感じてバンドを去ったのだ。イエスの歴史で初めて、バンドを捨てたのだ。
なるほど、痛いところをついてくるなあ。イエスファンには手厳しい、反論のできない論理の展開ではないか。
「ではそもそもプログレとは何かというとだなあ…」
湯原は、手の甲であごの無精ひげをごりごりこすった。
「まず、作品のテーマが人間存在の本質、宇宙の根源にまで迫るものであること。次に、その作品群は、複雑なコード進行や変拍子を駆使したもので、それらは高度なテクニックに裏付けられた演奏力と、最先端で独自性のある楽器や録音技術などを用いて表現されている。キース・エマーソンが多用するムーグシンセサイザー、クリムゾンのメロトロンがいい例だな。次に、クラシックやジャズ、民族音楽など様々なジャンルの音楽の影響を受けていること」
「えーい、俺にもしゃべらせろ。プログレは1曲1曲が長いんじゃ! それからのう、おまえの話も長すぎだわ!」思わず僕は叫んだ。
「ははははは。それは思いつかんかったわ。ともかくプログレの特徴すべて満たすのは、キング・クリムゾンだけなんじゃ。今日は出たばかりのクリムゾンの新譜を持ってきてやったけん。一緒に聴いてみーか。おまえにクリムゾンの凄さがわかるかのう」
キング・クリムゾンの新作『太陽と戦慄』は重たくて暗いロックだった。「宮殿」に見られた演奏のけれんみや華麗な美しさはそこにはない。これは何度も何度もよく聴きこんでみないといかんと感じた。しかし、買いたいレコード、聴きたいアルバムは、ほかにもいっぱいある。
「湯原、俺にはクリムゾンの凄さはまだよくわからんが、クリムゾンが一筋縄でいかんことだけはわかった。だけん、これからおまえが解説役になってごせ」
いっぱいプログレが聴けるなら、友達に頭をさげるぐらいどうってことない。イエスだろうがクリムゾンだろうがいや他のジャンルのロックだって、今は何しろたくさんの音楽を聴くべきなのだ。
「おー、いつでもいいで。俺んとこにはクリムゾンはだいたい揃っとるけん。その代わり、イエスは聴かせてもらうで。イエス時代のブラッフォードを知ることはクリムゾンを理解することにつながる。俺は、初期イエスはクリムゾンの影響を受け取るとにらんどるんじゃ。お前にわかるかな。ははははは」
湯原はイエスファンの俺にクリムゾンの偉大さを十分に認めさせたと確信し、機嫌よく帰っていった。言いたいことを言ってさっさと帰るところに感心した。
「いいやつだな、湯原は。俺はもっと難しい男かと思っとったぞ」
僕は、湯原の言っていることは難しいことなのだろうが、やつ自身は実に単純な男だと思ったのだ。
それにしても雅之と湯原の接点は何だったのだろう。
「レコード屋で偶然会ったのよ」
「プログレか?」
「いんや、湯原のプログレは元々は俺らと同じ兄貴の影響でな。その時熱心に見とったのはアグネス・チャンのLPだわ。俺も同じだと話が合ってなあ。あいつも胸の大きな子が好きらしい。そのあと、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンに話が移ったわけだわ」
中国人アイドルのアグネス・チャンが今でいう「巨乳」なのは、男子の間では常識であった。例の隣町出身の少年もアグネス・チャンのファンだったら強烈な突きをくらわずにすんだかもしれんなあ、そう言って二人で大笑いした。
ところで湯原の愛するキング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップは、プログレ界有数の知性派かつ変わりものとして通っている(なにせロックギタリストのくせに、ライブの時、ステージで椅子に座ってギターを弾くのだ)。そうしてその徹底した変人ぶりを日本のプログレファンはこよなく愛し親しみを込めて「フリップ教授」と呼んでいる。ところが黒縁眼鏡をかけ無精ひげをたくわえた少年、湯原学の大人びた顔つきとたたずまいがそのロバート・フリップとどこか似ているのだ。実はこののち、いつしか湯原も博士改め「教授」の異名を得、やがてはフリップ教授を倣ってギターデビューを果たすことになるのだが、その話は次章以降で紹介しよう(勢いで先に書いてしまうが、後年、湯原は本当に某大学の文学部の教授となる)。
こうして、10月の初めにはプログレ四天王の「担当」が決定した。
ピンク・フロイド(末次雅之)
キング・クリムゾン(湯原学)
エマーソン、レイク&パーマー(衣笠剛)
イエス(僕、黒須英二)
この年1973年、4つのバンドはそれぞれアルバムを発表している。
リリース順に、4月ピンク・フロイド『狂気』、5月キング・クリムゾン『太陽と戦慄』、6月イエス『イエスソングス』ときて、12月エマーソン、レイク&パーマー『恐怖の頭脳改革』である。
一般に、このプログレ四天王にジェネシスを加えて「5大バンド」と呼ばれる。しかし、1973年時点、日本国内においては、ジェネシスはいまだマイナーな存在であった。僕は翌1974年の初め、前年1973年発表のアルバム『月影の騎士』を聴き、たちまち「ジェネシス担当」(イエス兼務)、となるわけだが、ともかくこの5つのアルバムはいずれも誉れ高い傑作揃いで、それらの魅力とまつわる思い出を書き出せばきりがないであろう。
さて、ところでもちろん僕らは、毎日毎晩「四天王」だけを聴いていたわけではない。
プログレ系ではムーディ・ブルース、ジェスロ・タル、ソフト・マシーンらのアルバムに触れていたし、洋楽に限っても、当時のロックの主流派と言っていいツェッペリン、パープル、ユーライア・ヒープらのハードロック系にはそれなりにはまりこんでいた(いったい「天国への階段」「ハイウェイ・スター」「七月の朝」に痺れずにいられる14歳の少年がどこの世界にいるだろうか?)。
さらに、ストーンズ、フー、キンクスという大物バンド。ウィッシュボーン・アッシュ、フェイセス、ハンブル・パイらイギリスの正統派バンド。グラムロックの代表、Tレックス、デビット・ボウイ。
一方アメリカでは、フォークの大御所ボブ・ディラン、人気ナンバー1バンド、シカゴを始めオールマン・ブラザーズ・バンド、グランド・ファンク・レイルロード(この年はグランド・ファンクの名で「アメリカン・バンド」が大ヒットした)、イーグルス(「ならず者」発表)、CSN&Y(ラジオでよくかかっていた)、ドゥービーブラザースら多士済々のバンドたち。
次に、ギター小僧の神様エリック・クラプトン(この年はデレク&ドミノス後の沈黙期にあった)に好敵手ジェフ・ベック(ベック、ボガート&アピスの時代)。エルトン・ジョン、ギルバート・オサリバン、ポール・サイモン、キャロル・キング、ジェームズ・テーラー、カーリー・サイモン、アルバート・ハモンドにカーペンターズ(「シング」と「イエスタディ・ワンス・モア」の2曲が大ヒットした年である)といったシンガーソングライター、ポップス系の人々。
最後に元ビートルズ組といえば、ジョン(「マインド・ゲームス」の年)、ポール(同「バンド・オン・ザ・ラン」)、ジョージ(同「ギブ・ミー・ラブ」)、リンゴ(同「思い出のフォトグラフ」)がそろって大ヒットを飛ばしている(なんて年だ)。
明らかにイギリス寄りではあったものの、ともかく、僕らは短期間のうちに信じがたいほど貪欲にさまざまなアーティストのレコードを聴き始めていた。今振り返るに、小遣いと自由な時間のほとんどすべてをレコードに費やしていたのだろう。いくら聴いても聴いてもまったく聴き足りないほどの音楽の地平が果てしなく続いていた。
しかし、しかし、誰が、誰が何と言ってもこの年1973年は、ブリティッシュ・プログレッシヴロック絶頂の年として永遠に記憶される年だと僕は信ずる。僕たちはまさにその年に、少年少女が生涯にただ一度だけ許されるロックの洗礼を受けてしまったのである。
12月の、冬休みまであと数日というその日。『恐怖の頭脳改革』(EL&P)の発売当日。僕らは満を持して衣笠剛の家に集まった。4人がプログレファンになって初めて「四天王」の、誰も聴いたことのないピカピカの新作に触れる瞬間が来たのだ。
僕、末次、湯原の見守るなか、レコード店の袋(まず包装用の大袋。次にアルバムを守る店独自の専用シート)から慎重にジャケットを取り出し(後年、映画「エイリアン」で名を馳せるH・R・ギーガーの手による、不気味なイラストと特殊加工を施した豪華版で、僕らは思わず「おーっ」と歓声をあげた)、最後に、盤を守る半透明のビニール袋からついに姿を現した垂涎の演奏の刻まれたレコード盤をターン・テーブルに置いた剛の手が、緊張と興奮のあまりブルブルと震えていたのを、あれから43年たった今でも覚えている。
来年年明けには、イエス担当の僕が、待望の新作『海洋地形学の物語』において
この名誉を担うことが決まっていた。
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