第1部 1973年 第1章 神の導き


「英二、今日はおまえにいいもん持ってきたで!」

 初めてプログレを聞いたのがいつだったか。正確な日付は思い出せないが、1973年の4月だったことはまちがいない。僕の名前は黒須英二。餅屋の次男坊。その時僕は、神話の国として知られる山陰の小都市に住む中学2年生だった。

「ノックぐらいせい。まずいことしとったらどげする」

 部屋の戸をガラッとあけ、少し猫背の長身を揺らしながら現れたのは末次雅之である。店先から家の中に入り、こんにちはーとよく通る大声を台所にいる母にかけただけで、すたすたと階段を上がってくる。まるで自分の家だ。

 春になってから、僕らは急速に仲良くなった。田舎町のことだから子供たちは幼稚園から小学校、中学校とほぼ同じ顔ぶれですごす。中2にして初めてクラスメイトとなった二人はラジオの深夜放送の話題からフォークソングへ、やがて洋楽、ロックへと共通の音楽の趣味を通して親しく口を聞き、たちまち双方の家を行き来するようになった。中学入学後入った柔道部を半年でやめて帰宅部になったこと、3つ違いの兄がいることも共通項だった。谷村新司の深夜放送も、ビートルズやサイモン&ガーファンクルを入門編とする洋楽も、まずはお互いの兄から教わったものだった。

「おまえ、イエスって知っとうか?」

「?」

 イエス・キリストのことでないことはすぐにわかった。いつもこうだ。雅之の兄貴の方がうちより常に数歩先をいっている。

「まあ、聴いてみ。今、一番注目されているイエスの、一番新しいアルバムだわ。イギリスのグループで、プログレッシヴ・ロックっちゅうらしい」

 雅之は自信満々の面持ちで、カメレオンのような鮮やかな緑色のアルバムを取り出した。

 イエス、プログレッシヴ・ロック…。なんだかまったくわけがわからない。えらそうでいて単純なバンド名も、プログなんとかということばも、それまで知っていた音楽の世界のものとはどうも印象が異なる。今、思い出せるのは、これまで出会ったことのない何かと出会えそうな予感がしたことだ。

 そのあとの20分が、今日に至るプログレ人生の始まりとなった。

 

 鳥のさえずり、川のせせらぎの音が少しずつ高まっていって、突然、大音量のバンドサウンドに突入した。

 このバンドの演奏がこれまでにまったく聴いたことのない種類のもので、ギターが奏でるメロディも、ドラムとベースが作り出すリズムも、まったくわけのわからないものだった。すると「アー、タッタッ」というコーラス(こりゃいったい何だ?)をきっかけに曲調が変わり、ようやく「歌」が始まった。ここまでが4、5分。こんなに長い時間「歌」が出てこないのにも驚かされる。軽快で気持ちのいいメロディだが、ボーカリストの声は女のかすれ声のような妙な声質である。音程は相当高い。バックのドラムやベースは相変わらずへんてこ(へたくそという意味ではない。たぶんものすごく上手だと思う)だし、どういう楽器なのか知らないが「ピヨピヨピヨピコピコピコ」という音がずっと背後で鳴り続けている。

 こうしてテーマらしき歌が終わると、今度は荘重なオルガンをバックにひどくゆっくりした歌が始まった(さっきのテーマらしき歌のバリエーションのようである)。この部分は主旋律とコーラスの掛け合いがとてもきれいだ。オルガン(というかよくわからないがともかく鍵盤楽器)が高らかに響きわたってこのパートが終わると、再びフルバンドの演奏に突入し、最初に聞いた歌(要はこの曲のたった一つの歌である)が、もう一度リズムを変えて演奏される。さっきよりもっともっと早く、もっともっと強くだ。

 そうして最後の最後に、背筋が震え胸がキューッとうずく瞬間が訪れた。疾走してきたリズムがぐぐぐぐぐっとゆるんだかと思うと、曲全体のなかでもっとも親しみやすく、切なく、甘酸っぱいサビのメロディが、これまでになく鮮烈なコーラスを伴い再現されたのだ。

 その心地よさをどのように表現すればいいだろう。

 真夜中に高い高い岩壁を登っていって満天の星をいだく頂上に頭をつっこみ見上げた瞬間の達成感とでも言おうか、あるいは高い高い滝の上からはるか眼下の滝つぼに向かって身を投じた刹那の浮遊感とでも言おうか。ともかく、レコードに針を下ろしてから20分かけて溜めに溜めてきた何物かが解き放たれる、信じがたい快感だった。

 あまりのカタルシスに腰がくだけたようになっていると、音楽は、冒頭と同じ、鳥のさえずりと川のせせらぎの音に包まれて終息した。


僕はしばし、言葉を失っていた。


「かっこいいだろう」

「おう。かっこいい。かっこいいのう」

「そげだ、かっこいいんだ」

「かっこいいのう。かっこいいのう」

まるで馬鹿だが、今どきの若いやつが何にでもかんにでも簡単に付ける「超」だの「すっげー」だのの形容詞を持たない僕らは、ただただかっこいいかっこいいと繰り返すのだった。

 アルバムの内ジャケットには、広大な湖から青々とした清流が下界に流れ落ちる、この世のものとは思えない景色が描かれていた。裏表紙には、5人のメンバーとプロデューサーという肩書きの人物の写真が印刷されており、これがまた6人が6人ともかっこよかった。少女マンガで描かれる白人の王子さま並みにハンサム揃いな上に、着ている服も、ポーズも、そしてまた「リック・ウェイクマン」とか「ビル・ブラッフォード」といった彼らの名前(の語感)も……。ともかく何もかもがかっこよかった。

 翌日、僕はそのアルバム『危機』を買った(以来、文字通り本当に擦り切れるまで聴いて、後年もう1枚同じレコードを購入することになる。

「雅之、俺、イエスにはほんとまいったわ! 『危機』は買ったけん、ほかのプログレのレコードを聴かせてごせ!」

 プログレッシヴ・ロック(Progressive Rock)が「進歩的なロック」を意味することは辞書を引いて確認していた。プログレと縮めて呼ぶのがいかにも通らしくてかっこいい。

「おー、いいで。そんなら今度の休みはうちに来いや。兄ちゃんが模擬試験でおらんけん、好きに聴けるで。こないだは、勝手にレコードを持ち出すなって怒られたけんのう。うちで聴くのが都合がいいわ」

 雅之は、長身で飄々としており、怒った顔、あせった顔を見たことがない。たいていの頼みごとは嫌な顔をせず引き受けてくれる、気のいいやつだった。


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