第8話 状況暗転

        第8章のその前に


 未だ多くの方にご理解頂けていないのは、とても残念なことだ。

もう一度だけ言う。この本に登場する「私」はあなたで、あなたは「私」だ。だからできるだけあなたに「私」になって頂きたいので「私」は誰か。男か女か、年齢も容姿も、もちろん職業なんて絶対に明らかにしない。私にはあなたがどんな人なのか分からない。だからどんな人でも「私」を受け入れ易くするために、最後まで「私」を特定できないようにする。

 下卑た話だが「私」に股間をまさぐらせれば、男か女かぐらいは分かるだろう。しかし「私」にはそんなことは絶対にさせない。それは一重に、あなたに「私」になって欲しいからだ。最後に「私」の正体が明らかになって大どんでん返し。そんな結末を思い描いていた方には折角の予想を裏切るようで申し訳ないが、そんな終わり方はしない。

 あくまで主人公はあなたで「ノーバディ(誰でもない)」だ。それでこその「完全一人称殺人事件」なのだ。


        第8章


 殺人者は誰でも「殺したのはそれなりの理由があったから」と言うのだろう。娘の場合もそうだ。いくら自殺志願者だったとしても、殺すか殺されるかという立場になったら相手を殺しても非難されるのはおかしい。しかし私の身に立ち返ってみれば、だから娘を殺せるかという思いはある。今娘を殺せば、後は老婆だけだ。身の安全は確保できる。でも娘を殺そうとはまだ考えない。理由があるから何でもできるというわけではない。

 それでも娘は間違いなく疑いの眼差しで私を見ている。当然のことだ。分かりきっている。もしここで私にちゃんとした記憶があったらいいのだが。こんな状況になったら、もし仮に私が犯人で、その事を告白しても何も問題はないだろう。犯人ではないのならちゃんと弁明すればいいだろう。無実なら何かは出来るはずだ。しかし私には何も出来ない。告白も弁明もすることはない。 

「なぜ黙っているの。何か言いなさいよ。私は一刻も早くここから出たいの。真っ暗で、血の匂いが充満していて、ズタズタな死体が2つも転がっている。だから何か答えなさい。もうそろそろ、誰が犯人か、明かしたって問題ないでしょ」

 娘の言う通りだ。もはや実質的に、私と娘の対決となった今、誰が犯人なのか告白しても問題はないはずだ。それならやはり私が犯人なのか。それとも黙っている老婆が…。

「もういい。誰が犯人かなんて関係ない。私が最後まで生き残って、ここから出てやる」 娘はそう言い放つと、柳刃包丁を振り上げて私に襲いかかって来た。私は咄嗟のことで、まだ何も得物を持っていなかった。逃げるしかない。僅かな空間だから、少ししか逃げられないが、それでも少しでも遠ざかれば、何かチャンスが生まれるかもしれない。

 すると娘は落ちていたハンマーにつまずきよろめいた。そしてその直後、なぜか後ろから突き上げられた様に上体を反らす。柳刃包丁をポロリと落とすと、今度は前のめりに崩れ落ちる娘。その背後には老婆が立っていて、両手には短刀が握られていた。

「ぎゃーっ」

 鋭く、短い娘の絶叫。非力な老婆でも、握っていたのが短刀でも急所に突き刺されば、ひとたまりもない。

「殺すつもりじゃなかったんです。それでも、この女は許せなくて、あなたを助けてあげたくてこんな事をしてしまった」

そう言って泣き崩れる老婆。娘はもうピクリとも動かない。

 老婆は泣きじゃくりながら言う。

「さぁ、やっと次は私の番。さぁ、どうかひと思いに殺して下さい」

 私は茫然としながらも、顔を横に振る。私にやはり人殺しは出来ない。娘の様に襲いかかってくる相手ならまだしも、目の前で子供の様に泣きじゃくる老婆を刺すなんて、思いもよらない。それにこの人はたった今私を助けてくれたばかりなのだ。

 それでも老婆は懇願する。

「お願いです。私はここで死にたいんです。もう私には何も残っていない。あなたを殺して外に出られても、外で死ぬだけの話です。だから、あなたは私を殺してここを出なさい。あなたは先ほど記憶をなくしているとおっしゃっていましたね。私はそれを信じます。それなら死ぬ理由もないわけで、死ぬのは記憶を取り戻してからでもいいんじゃないですか」 私はそう言われてもただ黙ったまま。何も返事することが出来ない。

「自分で死ねとおっしゃいたいのかもしれませんが、私には怖くて自分が刺せません。ためらい傷って聞いたことがあるんです。どうしても思いきり自分を刺せなくて、何度も何度も刺し直した傷の事を言うんだそうです。そんな怖いこと私には出来ない。だからあなたに、刺して欲しいんです。もちろん感謝こそすれ、怨んだりしません。お願いです。お願いします」

 どうしたらいいのだろう。老婆の話しはもっともだ。それでも無抵抗な者を刺すなんて、考えられない。何とか老婆を落ち着かせ、冷静になって話し合わなければだめだ。

 しかし老婆はゆっくり私に短刀を手渡すと、やせ細った胸を突き出す。

「こんな地獄みたいなところ、もううんざりです。どうせ地獄なら、早くあの世に行きたい。ここよりはきっとまともなはずですから」

 私たちを囲む死体のおぞましさ。辺りを包む屍臭の不快感。暗闇の恐怖。そんな感情が頭の中で一気に爆発するのを感じる。もう私には私を止められなくなる。

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