第7話 暗黙の了解

 長い沈黙。暗闇の中に時間はない。仮にあってもあまりにゆったりと流れているのだろう、ほとんど時の過ぎ去るのを感じない。そんな空間の中での、長い沈黙。周囲は漆黒の闇ととてつもない悪臭、おびただしい鮮血と脳しょう、そして垂れ流された排泄物、それらが交じり合った激しい臭いがたち込めて、匂いからだけでも逃げ出せるのならすぐにでも逃げ出したい.。そんな気持ちに私をさせた。

 さらに、今やこの箱の中には憎悪や恐怖。悲しみや狂気といった感情が渦巻いていて、どんなに理性的な人物でも、一瞬で発狂させられるような悪気に溢れていた。

 私は何かしゃべりたかった。話せば、話している間だけは、私の理性を何とか正常に保つことができると思ったからだ。でも何をどう話せばいいのかが分からない。うっかりしたことを話したら、誰かの反感を買うかもしれない。せっかくさっき立てた「沈黙は金」という誓いを破るのは怖かった。

自分がしゃべれないのなら、誰か別の人が何か話してくれないだろうか。それが理性的な言葉であったら、その言葉を辿っている間は、理性を保ち続けられるだろう。

 私は誰かが口を開いてくれるのを心の底から待った。どれくらいの間私は待ったことだろう。数十秒、それとも数十分、もしかしたら数時間。分からないが、私の忍耐がもう続かないと思った瞬間、中年が腫れ物にでも触れるように、出来るだけ慎重に、そして優しく娘に声を掛けた。

「ちょっと聞いてもいいかな」

 中年の言葉に娘は一瞬ビクンと体を震わせた。娘もかなり神経が衰弱しているようだ。そんな過敏な反応を見て私は娘が質問を拒否するのかと心配した。しかし娘も、言葉とか理性に飢えていたのだろう、黙ったままだが頷いた。

「アイツ(と言いながら、中年は今は骸となった青年の方を顎で示した)死ぬ直前に『裏切られた』とか言ってたけど、アンタとアイツの間で何か密約みたいのがあったの。さっきからそれが気になって、気になって。良かったら話してもらえないだろうか」

 中年は娘の反応を確認しながらゆっくりと、出来る限り最小限の刺激しか与えないように質問を投げ掛けた。

 そう言われた娘は、少しの間顔を強く膝に押し当てた。

「いいわ、(青年をチラッと見ながら)彼はもう死んでるんだから、しゃべってもいいわよ。そう、おじさんが言う通り彼と私はある約束をしていたの。2人で協力して生き残ろうって」

 最初は中年の質問にどう答えようかと、娘は迷っていたのだろう。しかし膝から顔を離すとすらすらと、密約についてしゃべり始めた。話しにくい内容になるのは当然で、答えることを拒否するのが普通だけれど。娘も私と同様、理性に、言葉にすがりついていたかったようだ。決心してしまえば、後はどうということはない。娘の言葉はゆったりとしながらも淀みない。

「さっきも言ったけど、私が目覚めた時、彼はもうすでに目覚めていて、立ち上がって壁の辺りを調べていたの。でも私が起きるとその気配を感じてすぐ私の方に振り返ったわ。それで私が『ここはどこなの?』って聞いたら、『どこか分からないけど、僕たち箱の中に閉じ込められたみたいだ』って言って例のレコーダーを差し出したの」

 娘は中年でも私でも、老婆でも骸でもない、虚空を見つめながら淡々と言葉を紡ぐ。できるだけ正確に、真実だけを伝えようという真摯な態度が見て取れる。

「いゃ、ちょっと待て」と私は思う。どうも娘は相当な策士のようだ。慎重に話しているのは、新たな策を張り巡らしているからかもしれないのだ。

「そしてあのメッセージを聞き終えた後、『これからどうしよう』って話になって、彼が

『ここで死ぬのが嫌なら、メッセージの指示に従うしかないようだ。この箱からはメッセージの主の手助けがなければ出られない。それを今確認し終えたところだよ』って言ったの」 

娘はここまで語ると、鼻の頭を膝でぬぐった。臭気で鼻が刺激されムズムズするのだろう。

「それで私、『殺し合いなんかしたくない』って言ったの。でも殺されるのも嫌だったから、彼に『私が気絶したことにしてくれない』と頼んだの。本物の殺し合いが始まる前に気絶してしまえば、他の人は私以外の人をターゲットにするはず。それで金属バットがあったからそれを彼の足下に転がして、『タイミングを見計らってこれで私を殴って。もちろん本気じゃ嫌よ。あくまでも他の人に嘘がバレないような程度でね。お願いよ』って頼んだの」

 娘はまた鼻をぬぐう。そして話しを続けた。

「そしたら彼が、『でも何も理由がなくて、演技だとしても君をバットで殴れないよ』と言うから、『適当に言い掛かりをつけるから、それを理由にして』って答えたら、今度は『僕にはどんなメリットがあるんだい』と訊いてきたから、『あなたがピンチになったら起き上がって助けるわ』と言っておいたの」

 娘がここまで話すと、中年が口を挟んだ。

「じゃあ、アンタがアイツを犯人扱いしたのは予定の行動だったわけだ。でもそれにしちゃあ、アイツ本気で怒っていたみたいだけど」

この意見には私も賛成だった。しかし娘は平然と答える。

「彼のこと、ちょっと追い詰め過ぎちゃったのかな。彼にしてみれば『何もそこまで言わなくても』ってことだったんじゃないの。それにあの時、おじさん(といいながら娘はキッと中年を睨んだ)が『そうか、お前が犯人か』って顔で彼を見たりするから、彼が余計に焦っちゃったんだと思う」

 娘の思わぬ反撃に中年は言い返すことが出来ず、グッと言葉を飲み込んだ。それでもこのままでは引き下がれないと考えたのだろう。

「それにしても、見事にアイツを撃退したもんだよね。少し間違えば金属バットで頭を割られていたかもしれないのに」と娘に鎌を掛けるようなことを訊く。

 娘はこの件に関してはちょっと自慢したかったらしく、ちょっとだけ胸を反らせて語った。

「彼がバットを握った時、頭か背中を叩いてくるのは分かったわ。それで彼がバットを振りかぶった時、叩く目標を大きくずらせば彼はもう一度振りかぶり直さなきゃならなくなるから、その隙を突けば安全に攻撃できるはずって考えたの。それで叩かれそうになる瞬間、体勢を思いっきり低くして、そして伸ばした右手で彼のかかとの上の部分を…」

 ここで中年はまた口を挟む。

「ていうことは、ある程度頭の中で、アイツと戦う時のシミュレーションが出来ていたというわけだ。怖い怖い。やっぱりアンタ、最初からアイツをハメるつもりだったんじゃないの」

 今度は中年が攻撃だ。娘はこれに少なからずムッとした。

「それは違うわ。彼がバットを握りしめた時、言わなくてもいいことを口走っちゃったから、私は彼を信じられなくなったの。マジでキレちゃっていて本気で私を殴るかも。そう思った瞬間のことよ。彼があんなこと口走らなきゃ、私は大人しく殴られていたわ」

 そう自己弁護する娘だったが、中年はフフンと鼻を鳴らして娘をバカにする素振りを見せる。

「どうだか。アンタはアイツを最初からハメる気だったんだ。この雌狐。売女め。生き残るためだったら何でもしていいのか」

 最初中年は娘に対してだいぶ気を遣って話していた。しかし、娘に非難するべき点があると、それを指摘するのは正義だと思うと態度が豹変した。娘を蔑み、激しい口調で罵った。時に人間は、自分に正義があると思うと往々にしてこんな豹変をする。

 中年は言い終わると私と老婆を交互に見、この主張は正しい。正しいことなのだから賛同しろと、目で訴えた。

 私は、私なりに考えてみた。中年の主張が正しいと判断するだけの材料はない。しかし、娘が青年と「密約」を交わした時、本気で襲わないようにしようとか、攻撃方法を指定しておいて青年が襲ってきた時対処しやすくしようとか、そんな打算はあったかもしれないと思った。とはいえ、そんな打算があったとしても、こんな非常事態だ娘を非難するほどではない。

 そんなことを考えて、敢えて中年に賛同はしなかった。例の「沈黙は金」というルールも守りたかった。老婆は何を考えていたのか分からない。ただ老婆も私同様、何も言葉を発せず、何も行動を起こさなかった。

 中年は焦れた。おそらく「お前らは、なんでこんな簡単な理屈が分からないんだ」と思っていたことだろう。

「そうかい。誰も賛成してくれないのかい。それなら俺1人で、この売女を殺ってやるよ。こいつをこのままにしておいたら、いつまた策を仕掛けられて、こっちが危険な目に遭うか分からないからな」

 中年はそう言うと、立ち上がりながら足下に転がっていた柳刃包丁を拾い、両手でつかんで、ヘソの辺りで構えた。

「おい、これならどうだ。これなら振りかぶらなくてもいいし、もしまたかかとを狙ってきたら、その手を足で踏みつけて叩き切ってやる。

 中年はそう言って威嚇した。というより私には、怖じ気づきそうな自分を鼓舞していように聞こえた。

 それを娘も見透かしたのか「フフッ」とまた鼻で笑った。中年を完全にバカにしている態度だ。 

「グッ」ともう後には引き下がれないと決心したのか、「バカにするな」という気持ちをひと声で表すと、中年は包丁の柄をヘソに押し当てたまま突進した。

 中年が構えた包丁がもう少しで娘の胸に突き刺さると思った瞬間、娘がさっき青年が振り上げた金属バットを、中年の胸に目掛けて投げつけた。

 中年は両手で包丁の柄をつかんでいた関係と、バットの大きさ質量のために、両手で胸に投げつけられたバットを上に向けて払わなければならなかった。まるでバレーボールのレシーブの様な格好だ。勢い胴の部分ががら空きになった。その隙を娘は見逃さず、青年を切ったメスで中年の腹を割き切った。中年は前のめりになって両手を突いて倒れ込んだ。腹は無惨に切られているようだ。着ていたワイシャツがまるで亡霊船の帆の様に、どす黒く汚れ垂れ下がっている。

 それでもまだ中年は動けるようで、必死に立ち上がろうとした。すると娘が今度は背後から、腎臓の辺りを深く突き刺した。

 中年はドッと顎から床に崩れ落ち、それからはもうピクリとも動かない。腰の部分に突き刺さったままのメスの柄が、鈍い光りを放つだけだ。

 あっという間の出来事で、私も老婆も茫然と見守ることしか出来なかった。娘は血にまみれた手を拭うこともなく、心底疲れたという感じでまた体育座りの様な格好で座り込む。

 そしてまた長い静寂が訪れる。私は、この空間の中ではの話だが、静寂が好きだ。静寂が続いている間は何も起きない。ところが誰かが口を開き、静寂を打ち破れば、諍いが起き、場合によっては殺し合いが始まる。それに冷静に考えてみれば、娘が次に狙ってくるのは私だろう。ほとんど身動きが取れない老婆ならいつ殺しても問題ない。しかし私は、生かしておけばいつ危害を加えてくるか分からない。それなら、まず危険な要素を取り除く。それが普通だ。

 この静寂が破られた時、私に危険が迫ってくるはず。そう思うと少しでもこの沈黙が続いて欲しい。そう願わずにはいられない。しかしそんな願いも叶わずにほどなくして娘が口を開いた。

「どっちが犯人なの?」

 体育座りの格好で、額を膝に押し当てたまま娘は突然こう言った。

「彼とおじさんは犯人じゃなかった。だって犯人だったらこうも簡単に私に殺されなかったはずよ。だから犯人はまだ生き残っている人間の中にいるのよ。でも私はやってない。神に誓ってもいい。こんな箱の中に神様なんて居ないのだろうけど。それでも絶対に私は犯人じゃない。だからあなたか(と言いながら娘は私を見た)、お婆さんかどちらかが犯人のはずなのよ。どっちよ。私をこんな箱の中に閉じ込めて、こんなことさせたのは」

 娘はそう言うと、自分の血まみれの両手を見て泣いた。

「こんなことするつもりなかった。私はただ、安らかに死にたいと思っただけ。でも1人で死ぬのは何か侘びしいと思ったから、自殺サイトに応募したらこの始末よ。だけどこんな酷い目に遭うほど悪いことはしていない。どっちよ、私にこんな酷いことをさせたのは」

 娘は、泪と怒りで目をギラつかせながら私と老婆を交互に見た。

 私は何も言い出せなかった。老婆より先に疑われるのは間違いなく私だ。しかしそう思うと逆に弁明しにくい。それに何を言えばいい。私は記憶を一切取り戻してはいないのだ。

 また静寂が訪れた。しかし今度の静寂は穏やかではない。いつ爆発するか分からない危険を孕んでいる。そのことは娘のギラつく目が能弁に物語っていた。

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