竹に似た恋

 鎌倉の中心から少し外れた里山の隙間に、一つの寺がある。それほど大きな寺ではない。ただ、この時勢には珍しく、小さいながらも立派な竹林を有していた。

 その寺の住職は、この寺が出来た北条の時代より、代々この竹林を任されてきた。それは見事な竹林なので、俗世から離れた娯楽の少ない身の上としては、ささやかな楽しみとして、どの住職もその竹林に余計な手を加えるでもなく、幾度かの戦乱があった時でさえ、身を粉にして守りながら、愛していた。


 さて、いつの時分か。おそらく太平の世だろう。何代目かの住職が初めて竹林に手を加える。


先代から譲り受けた大切な竹林だった。日々の勤めの間、その住職は竹林に入る。そこには「時代」とか「時勢」と言った概念が無いように思えた。そこでは住職は寺の住職では無かった。竹林の中の、竹の一つとなることが出来た。俗世からも、また出家した身であるにも関わらず、その世界からも、逃れることが出来た。風が吹く。笹が鳴る。岩から溢れた水が小さな滝を作る。それは地べたにたどり着く前に、霧となって消えていく。生き物の気配すらしない。森閑。

 そこにはただ見ている目があるだけだった。目はこの竹林の真ん中から少し外れた辺りに、ぽかんと浮かんでいる。目の裏には頭は無い。頭どころか、住職の身体すらない。住職は竹林に居るのではない。竹林になっていた。遠くの小さな山に西日が落ちる。そこで無粋なカラスがやっとカァと鳴く。そしてまず耳を取り戻す。寺の近くの村から夕食の匂いが漂ってくる。それで鼻を取り戻す。カラスの鳴き声と夕食の匂い。音と匂いで、そろそろ夜が来る、と思う。そして頭を取り戻す。そこまで行くともう戻れなかった。気づけば太平の世の住職になっている。竹の裏から虫の声が聞こえてきて、時間が流れ始める。後はまた、その流れの中へ帰っていくしか他無かった。


 ある日のことだった。この寺に一人の旅人がやってきた。聞けば遠く北のほうから、この寺の竹林の噂を聞いてやってきたらしい。生まれの村では木こりをしていたそうだ。その旅人曰く。

「私の村には竹という物がありません。子供の頃、昔話の中でそれは美しい姫が光を放ちながら出てきたといいますが、私の知っている木々はいくら切ってもしっかりと身の詰まった年輪しか見せません。例え手のひらに乗るような小さな姫でも、入れるような隙間はありません。竹には年輪すら無いというではありませんか。恥ずかしながら学の無い私にはそれがどういった木なのか。本当に私がいつも切り倒している木々のように生きているものなのか。ある日ただ疑問に思いました。愚か者の恐らく一生に一度の問題です。……二月ほど前に妻に先立たれましてね。これはいい機会だとばかりに、それを確かめるために、ここへ参ったというわけです」

 熱心に話す旅人を見て、住職は唸った。というのも、竹林は代々、その寺の住職しか入ることが出来なかったからだ。遠い先代の誰かが決めたらしい。この竹林を守るためなどと言えば聞こえが良いが、恐らくただの独占欲だろうということは、この代の住職にもあたりがついていた。その気持ちは痛いほどに分かる。自分とて、あの竹林に入る時は一人だ。共に入った者といえば、先代くらいだった。その先代も既にこの世には居ない。今、竹林は住職一人のものだった。

 ただ、住職がここで旅人を突っぱねられぬ事情もあった。住職は孤独だったのだ。あの竹林の素晴らしさを語る相手が居なかった。唯一、それを知っている先代も既に亡く、一人竹林に入っては、またこの時代に放り出される日々だった。

あの喪失感を分かち合える者が居たら。そういう欲求が住職の中に生まれた。しかし、長い間受け継がれてきた決まりだ。そう簡単にこのどこの馬の骨とも取れぬ人を招き入れるわけにはいかない。そこで住職は一計を案じた。

「申し訳ないが旅人。あの竹林はこの寺の住職以外は入れぬ決まりだ。ただ、わざわざこの寺を訪ねてきた貴方を無下に突っぱねる、というのも心苦しい。これで貴方の心が充たされることはないだろうが、どうだろう。毎日そこへ入っている私が、竹林について何でも話してあげよう」

 最初は不満げだった旅人も、一度竹林の話が始まれば、鼻をふんふんと鳴らして熱心に聞き入った。住職は説法が上手かった。ただ、普段の説法よりも竹林について語っているこの時の方が熱が入っていた。するすると言葉が口から流れ出てくる。まるで岩から流れ出た水が霧になっていくように。瞑想している時よりも集中している。まるで口以外に他の身体がなくなったかのように。旅人と対自している自分の姿を、斜め後ろの仏像の目を通して見ているような錯覚に陥る。竹林以外でそんな感覚を初めて味わった。

 一通り話を終えると、住職の企み通り旅人からの質問攻めにあった。それについて住職は丁寧に答える。また、旅人が質問する。答える。心の底から望んでいた、竹林についての語らいの場だった。住職は孤独ではなかった。今、自分はこの木こりの男と竹林を共有している。それは竹林の中でさえ感じることの出来なかった満ちたりた心持だった。


 やがて夜もふけて旅人は近くの集落の宿へと帰っていった。思えばこの寺の住職になってから初めて竹林に足を運んでいない日だった。それでも住職は満足していた。竹林に行けば、確かに一時充たされるが、出る時には酷い喪失感に苛まれる。今日は充ちたりたまま床につけるだろう。自分の中に溜まっていた何かが緩やかに流れ出しているのを感じる。それは恐らく、竹林の中で長年感じていたもの達だった。その流れ出る音を聞きながら、静かに住職は眠りについた。


 ごおおおおっという音で住職は目を覚ました。それは自分の中から聞こえてきた音だった。辺りはまだ暗い。夜は明けていないが、大分遅い時間帯のようだった。しかし、既に音は止んでいた。住職はその音に聞き覚えがあった。覚えはあったが思い出せない。飛び起きたせいで乱れている床の上に禅を組み、心を落ち着かせその音について考えた。答えはすぐに分かった。

 あの音は、竹林で聞いた音だ。正確に言えば、竹林で住職が身体を無くしている間に感じていたものだった。よくよく思い出して見れば、その音は幾重にも折り重ねられたものだった。一度に押し寄せて来たからあんな轟音に聞こえてしまったが、構成しているものは些細なものなのだ。住職はふうと息を漏らした。なんだ、悪夢か、何かの前兆かと思ったが、何のことは無い。あの旅の木こりと話したせいで浮かれてしまっていたのだろう。そう、住職は解釈した。竹林の夢だと分かると深く安堵した。しかし、何故そんな音が聞こえたのだろうか、と疑問に思う。

 冷やりと嫌な汗が、住職の背中を伝った。

 床に就く前に感じていた、あの穏やかに溜まっていたものが出て行く小さな流れが、無い。まるでせき止めていた堤防が決壊したかのように。


 住職は寝巻きのまま、竹林へと走った。近づくに連れて、森閑としているはずの竹林から、カーンカーンと音が聞こえる。そしてその後に続く何かが倒れるようなズーンという鈍い音。こんなに煩かったのかと思うほどの激しい笹の擦れる音。寝ぼけた鳥がバタバタと空へ飛び立つ音。住職にはもう何が起きているか分かっていた。そしてそれを引き起こしたのが自分の浅はかな欲望だったということも。それでも、何かの間違いであってくれと祈りながら住職は走った。


 夜の竹林は、たとえ満月の夜であっても仄暗い。仄暗いはずであった。ところが今は、その一角だけ、静かに月明かりに照らされていた。その中心には昼間の旅の木こりが、何本もの切り倒した竹を抱えて立っていた。それは何故か一つの神聖なものに思えた。今宵はやけに虫が煩い。

 住職は肩で息をしながら、ただ呆然と旅の木こりを見ていた。ゆっくりと木こりの目が住職を捕らえる。そして心ここにあらず、と言った口調で語りだした。

「住職。あなたが言っていたように、ここは素晴らしい場所だった。こんな美しい林は長い間木こりをやっていた私だってみたことがない。でもね、木だって生き物です。人と同じです。年をとります。そして年輪に自分の生き様を残します。それが、この竹ってものはどうですか。いくら切っても年輪など出てこない。生き様が、分からない。どこまでもスッとまるで昔話の姫のように美しくあるだけだ」

 そこで木こりは大きな声で笑い出した。

「私はあの昔話が大嫌いでね。だってそうでしょう。あれほど無理難題を男達に押し付けて、あれほど愛しても女は何も答えてくれない。返してくれない。月へと帰って行ってしまった。だからかな。いくら切っても空っぽだ」

木こりはそこまで一気に捲くし立てると、誰かの名前を叫びながら、夜の闇へと消えて行った。後には切り倒された竹と住職だけが残された。代々住職に愛されてきた竹林はもう無かった。ただ、ザアザアと岩から流れ出る水と、鬱蒼とした竹やぶがあるだけだった。




 鎌倉の中心から少し外れた里山の隙間に、賑やかな寺がある。その寺の裏にある少し歪な形をした竹林には、そこで取れたものを使ったのだろうか。竹で出来た、ささやかな開かれた茶室があった。そこには周辺の集落からはもちろん、遠方のほうからもわざわざ人々が足を運んでくることがあった。その茶室はいつの時代か、風変わりな住職によって建てられた。言い伝えによれば、その住職は大変人嫌いな、まるで鬱蒼と茂る竹薮のような人物であったが、ある日を境に、人が変わったように開けた人物になったという。彼は寺の裏庭にある竹林に手を加え、人が散歩しやすいように整備し、最近ではこの寺の名物となっている水の沸く岩の周りの竹を刈り取り、それを望める場所にこの茶室を建てた。その住職は人と話すことが何より好きだったという。

 整えられた竹林には日差しが差し込み、茶室から賑やかな人の声が聞こえる。住職はその景色を、亡くなるまで満足げに眺めていたそうだ。

 岩から流れ出る水は、長い年月の間に岩を削りとり、小さな川を作っていた。余程風の強い日で無い限り、霧になることは無かった。茶室の賑やかな雰囲気はどこ吹く風。今日も笹は気ままに揺れている。


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