狐花

水上 遥

狐花

 どこまでも行けそうな夜だった。

 秋の満月が、光の蜜を地表に落とし、それらが木々の枝からまた垂れてきて、目の前の道に落ちてきていた。

 私の手綱を握る手にも、もういくつもの光が通り抜けていった。

 この美しい夜を、背の馬車の中のあの人も見ているのだろうか、と思った。

 そして、今、どのような心持でこの帰ることの無い旅路を想っているのだろうか。

 ……それは詮無き思慮だった。

 私は、この方を無事に送り届けるためだけに、ここに居る。

 そう、強く思い返し、手綱を握る手に力をこめた。




 いつからだったろうか。

 いつから、おかしくなってしまったのだろうか。

 思えば、旦那様がキリスト教に心を奪われたあの日が境目だったのかもしれない。

 熱心に聖書を読む旦那様を、お嬢様は冷めた目で見ておられた。

 屋敷の庭に呼ばれた宣教師の話の輪にも、お嬢様は加わらなかった。

 あの日のことはよく覚えている。

 得意げな顔で、旦那様が狐のような顔をしたイギリス人を連れてきたのだ。

「さあ、みんな! 集まるんだ!」

 なんとも幸せそうな顔で、旦那様は家中の者を庭先に集めた。

 奥方やご兄弟はもちろんのこと、使用人まで全員集められた。

 集まらなかったのは、お嬢様と、お嬢様御付きの私だけだった。


 遠く、テラスで楽しそうに笑っている皆を眺めながら、白樺の木の下で、お嬢様は一人その光景を眺めていた。

「ヤジロー。馬鹿らしいとは思わない? この間までは中国との戦争で儲けていたのに、掌返したように、愛と平和、だなんて」

「旦那様は、現地からの報告に心を痛めてましたから……。その償いの気持ちもあるのではないでしょうか?」

「馬鹿馬鹿しいわ。散々人殺しの武器を売り払って、財を成したくせに、今更そのことを後悔? 昨日の夜なんか、聖書を読みながら、新しい工場の話をしているのよ。心も懺悔も、分業化出来るのよ、あの人は」

 そう捲くし立てて、押し黙ってしまった。

 こうなってしまったら、手は一つしかなかった。

「お嬢様、覚えていますか? 私を拾ってくださった日のことを」

「忘れるわけ、ないでしょ。その前口上も飽きたわね」

 そう、棘を飛ばしつつも、目は幼い頃、初めて会った日のままだった。



 舗装もされていないむき出しの道路の片隅で、手を泥だらけにしながら、猿のようにひっくり返ったり、飛び跳ねていた私を、お嬢様は本当に楽しそうに眺めてくださった。

 そして、芸の終わりに、こう声をかけてくださったのだ。

「お前、親は?」

「片親で、それも中国で死んだ」

「それなら、お父様を説得できる。私の遊び相手になりなさい」

 その時のやり取りを私は一生忘れないだろう。



「それでは、お目にかかりましょう。ヤジローの猿芸をとくと、ご覧あれ」

 一体、あの日から何度、お嬢様の為だけに飛び跳ねたか分からない。

 それでも飽きもせず、お嬢様は笑ってくれた。

 それで、私にとっては十分だった。

 いや、十分過ぎる生き方だった。

 お嬢様が、こうして機嫌が損ねたならば、その都度、道化になってみせよう。

 この先、お嬢様がどこかの家に嫁いでも、その子供にこうして芸を見せて差し上げよう。

 一生、死ぬまで、お嬢様にとっての猿で居よう。

 それで、お嬢様が笑ってくださるなら、私の人生は十分だ。

 十分すぎるほど、十分だ。

 そう思っていた。




「ヤジロー。馬車を止めて」

 不意に、背のほうからお嬢様の声が飛んできた。

 思い出に浸っていた私は、なんとか馬をいなして馬車を止めた。

 直ぐに、飛び降りてドアを開ける。

 ゆっくりとした動作で、お嬢様が降りてくる。

 そのイギリスから取り寄せられたブラウスに、件の月の光が落ちて、淡く怪しい色を放つ。

 顔を見ることは出来なかった。

 手を貸しつつも、じっと下を向いていた。

 ……本当に、美しくなられてしまった。

 自分の靴が目に入る。泥だらけだった。

 本当に、遠くに行ってしまわれた。

 そして、この先、さらに遠くに行ってしまうのだ。


「ヤジロー。控えの靴を出してくれる?」

「かしこまりました」

「少し、休憩しましょう。……今は何時かしら?」

「夜の二時を回ったところです」

「そう。……最後まで苦労をかけるわね。でも私のわがままでは無いのだから、許してね」

 そう話している間にも、お嬢様は履き替えた乗馬用の靴でどんどん池を目指して歩いていく。辺りは白樺の木が立ち並んでいて、その向こうに池が見えた。その池だけが、月の明かりを反射して輝いていた。暗闇の中、その池だけが、地べたで輝いていたのだ。

 お嬢様は、まるで何かに追われるように、その池を目指した。

 距離にすれば、たいしたものではなかった。

 それでも、まるで、何かに追われるようにして、お嬢様は木立の中を進んだ。

 私は、なるべく歩きやすくなるように、草を均しながら先行した。

 私も、何かに追われているようだった。

 月は天頂を過ぎて、傾き始めている。

「……ヤジロー。華族というのは、どういう生き物なんでしょうね」

 ふいに、お嬢様が零した。

 きっと禄でもない輩です。

 軽井沢の別荘に、明日の朝までに来い、なんて言う、そんな輩は、お嬢様を幸せに出来るはずもありません。

「きっと、素敵な方ですよ。お嬢様を余程お慕いしているのでしょう」

 そう、踏み均した。

「……そう。そうかもね」

 その後を、お嬢様が歩く。

 この夜が明ければ、お嬢様は華族の嫁となる。

 先方の気まぐれで、式が早まったのだ。

 没落した商人の家の娘にとっては、考えられない位の、好事だ。

 この機を逃せば、家は潰れるだろう。

 だから、考えても、詮無きことなのだ。

 例え、先方がどれほど不徳な人物であろうと、お嬢様は嫁ぐしか他無かった。

 そして、私はそれに供することは出来ない。

「猿などいらん」と言われたのだ。

 従者の一人によって、この縁談が破談するなど、馬鹿げている。

 だから、お嬢様を送り届ける、この夜が、私にとって最後の奉公だった。




 ロシアとの戦争が始まっても、旦那様は武器を売らなかった。

 それほどまでに、キリスト教は旦那様の心を蝕んでいたのだ。

 いや、それは道徳には即していたのかもしれない。

 ただ、世間はそれを許さなかった。

 ただでさえ、主たる商売を封じた状態で、ほかの商品にも不買運動が起こったのだ。

 ただ、このくそったれな出来事を美談として受け取る層も居たのだ。

 美しいことを、美しいと思うためには、そういう余裕がある層でなければならなかった。

 それが、今晩に繋がったのだ。

 道徳を貫いた、正義の商人を、華族が救う。

 後の歴史から見れば、美談に映るだろう。

 美談は、そこで人々の思考を停止させる。

 そして、この不幸な一夜の旅路は、お嬢様の心は、露に消えるのだ。




「ヤジロー。出会った日のことを覚えてる?」

 たどり着いた池の辺で、お嬢様は呟いた。

「ええ。覚えておりますとも。一生、覚えておりますとも」

「そう。……ねえ、私が前口上を述べてあげたのよ。後は分かるわね?」

「はい。もちろんですとも」

 白樺の木立が切れて、開けたその場所には、彼岸花が咲いていた。

 そこが、私の彼岸だった。

 賽の河原で、一世一代の猿芸を。

 土は湿っていた。

 手に泥がついて、重くなった。

 それでも、お嬢様の服が汚れないように計算して飛び回った。

 長い、長い御付きの日々で心得た特技だった。

 空と地面が何度も入れ替わる。

 輝く池の明かりに照らされて、お嬢様の顔が飛び込んでくる。

 ああ、芸をしている間なら、見ることが出来た。

 そうだ。

 この芸の間なら、お嬢様は笑顔だからだ。

 いつぶりだろうか。

 こんな風に、私の芸を楽しむお嬢様を見るのは。

 いつからだろうか。

 あんなに、屈託無く笑う、お嬢様が笑わなくなったのは。

 どうしてだろうか。

 どうして、私はもう、お嬢様の前で猿になれないのだろうか。

 詮無きことだ。

 こんな思慮は。

 しいて言うならば、時代なのだ。

 そして、私とお嬢様を出会わせてくれたのも、また時代なのだ。


 最後の宙返りを決めて、そのまま、お嬢様の前に跪く。

「ヤジロー。一世一代の猿芸でございました。どうか、どうか。その目に焼き付けておいて下さいませ。こんな汚い芸ではございますが、どうか、もしよろしければ、戯れにでも、思い出して下さいませ。それこそが、私にとって、最高の褒美にございます」

 じっと、お嬢様の乗馬靴を睨んでいた。

 顔を上げることが出来なかった。

 空は晴れているのに、目の前の地面には雨が降っていた。

 泥だらけの自分の手の上に、雨が降っていた。


「ヤジロー」

 その泥だらけの手に、お嬢様の手が重なった。

 慌てて振りほどこうとしたが、それを気にも留めず、お嬢様は硬く、私の手を握った。

 そして、そのまま私を引き起こした。

 美しかった。

 池の明かりに照らされたお嬢様の顔は、その覚悟を決められた笑みは、三千世界のどのようなものよりも、一等美しかった。

「ヤジロー」

 もう一度、お嬢様が私の名を呼んだ。

「はい。お嬢様」

 涙を拭うこともせず、私はお嬢様の顔をじっと見つめた。

「今まで、ご苦労さまでした。あの日、あなたを迎えたことで、あなたが、付いていてくれたことで、どれほど救われたかは、分かりません。もう、芸の報酬に、おやつの菓子も、ビー玉もあげられないけれど。もう、何もあげられないけれど、どうか、これを最後の褒美に、受け取って下さい」

 私の泥だらけの手に、一輪の彼岸花が咲いていた。

 その赤い狐花は、月の蜜を吸い、私の手の泥までを吸い取って、そのまま私の心の中に、深く、深く、落ちていった。



 後の世に、この夜のことを知るものは誰も居ないだろう。

 道徳を重んじ、没落した商家を救った、華族の話を、額に入れて飾ることだろう。

 だが、それでも。

 どれだけ時代が、夜を重ねようとも。

 あの池の辺で、彼岸花は、揺れている。

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