「キョンくん、キョンくん……大丈夫?」

なんだか後頭部にやわらかなマシュマロみたいなもんが、それも特大の……この匂い、この弾力、未来のほうのあれだ、あれしかない……お、お、溺れる!

このまま気絶したフリでもしてようかな、もう少し。

「キョンくん! キョンくん! 目を開けて! お願い……」

薄目を開けるとやはり朝比奈さん(大)の胸元に顔をうずめ、抱きかかえられている俺であった。

「朝比奈さん、俺は!? ここはどこですか?」

大げさに驚いてみせてはいたが、後頭部はしっかり、胸元に抱えられたままだ。

「3年前の7月7日よ、もちろん。みくる(小)にはそれしか指示を与えていないもの。みくる(小)は遡航平面状しか往き来できないTPDDしか携帯してないし、でも、なにか変ね。とても違和感があるわ、いえいえ、この平面上でのわたしは、これ以上言ってはいけないのね。この子おぶっていってね、寝てる間にチューくらいしてもいいわよ、ウフフッ、それは冗談。この道をまっすぐ進むと中学校があるわ、そこで……誰かくるわ、キョンくん、隠れて……」


 俺たちの脇をニケツのママチャリが横切った。

俺は自分の目を疑った。 ハンドルを握っていたのは俺だったからだ。今から見ればずいぶんと幼い顔の俺自身をどんな暗がりだろうと俺が見紛うはずがなかった。そして、ケツに乗っけてたのは佐々木!だった。

 朝比奈さん(大)は夜道のほの暗さに気づかなかったらしい。

「まあ、かわいいカップルね。塾の帰りかしら、あら? この時間平面にこんなシークエンスあったかな?」

「朝比奈さん、俺たちは3年後に戻ろうとしたんですよ。それが三度目の三年前の7月7日にまた舞い戻ったらしい。それも外部からの強烈なエネルギーだかなんだかに邪魔されてね、その強烈なエネルギーの正体をどうやら朝比奈さん(小)は分かっているらしいんですが、禁則事項だと言って教えてくれないし……」

朝比奈さん(大)はなにかを言いたそうだったが、そのステキな唇に人差し指を押し当てるしぐさをして俺たちを送り出した。

 聞きたいことが山ほどあるんですよ朝比奈さん(大)。

 数歩歩いて振り向いたがそこには朝比奈さん(大)の姿はなかった。

「むにゃ、むにゃ……キョンくん。どうやらあなたたちは次元断層にはまっちゃったみたい。わたしも含めてね、とても強大なエネルギーがキョンくんの3年後への帰還を邪魔してるの。とりあえずわたしに分かっていることはこれだけ。涼宮さんに会うというクエスト以外にここから逃れる選択肢は今のところ見当たらないの、ごめんなさいね……」

 おんぶしている朝比奈さん(小)が耳元で囁いた。

朝比奈さん(小)の口元から出たのは明らかに朝比奈さん(大)の言葉だった。

「やれやれ」

三年後に戻れない? 次元断層? ループしてるだと!? まさかまたエンドレスな夏休みのような事態に陥るんじゃないだろうな……。

 あの時、長門の脳みそに蓄積された膨大な記憶の量を想像して俺は吐き気がした。638年と110日、毎日おんなじ繰り返しをあいつは秒単位で克明に記憶していたのだ。

 ヒューマノイド・インターフェスといえど、その膨大な記憶の断片に変調をきたし、その要因であるハルヒを排除した世界を夢見たとしてどうして責められよう。 俺はこの時、初めて長門を女の子として意識したのだ。それは間違いない。

 何度も世話になっておいておこがましいのだがやはりどこか人間らしくない長門に覚えていた違和感が消し飛んだ瞬間だった。

 一皮剥いた長門は、小説好きの臆病で引っ込み思案な女の子なのだと……。


 朝比奈さんをおぶってヘトヘトの疲れた体を引きずりながらも俺の頭はフル回転をやめない。海馬のあたりがズキズキ傷む。

 ハルヒはグラウンドにあのへんてこりんな文字を描かなかった。朝比奈さんがTPDDを失くさなかったので、長門の力を借りることもなかった。

 ゆえに長門が部室でくれたポケットの短冊も使わずじまい。

 まてよ、このまま長門に会って次元断層ってなもんに閉じ込められたらしいんだ、またあの悪夢のようなループにはまりそうなんだ!助けてくれと言ったら、どうなんだ? それともハルヒに会い、グラウンドにヘンテコリンな文字だかなんだかを描き、朝比奈さんがTPDDを失くし、長門に会うという一連のシークエンスを達成しなければクエストは成就されず、このループから抜け出せないってことなのか?

この平面上ですでに時系列は破綻をきたしているのか? 俺は中坊の可愛いハルヒに流されてそういった瑣末をすっとばしていた。

 「朝比奈さん(小)寝言でもいいから教えてくださいよ。TPDDの航行を妨げて俺たちをまたここに戻らせた強大なエネルギーの正体ってなんなんですか?」

 俺は背中で安らかな寝息を立てている朝比奈さん(小)に返答など期待もせずに話しかけた。

「むにゃ、むにゃ……キ、キョンくんがこんなにマシュマロ好きだなんて思わなかったですぅ、スヤスヤ、むにゃ、むにゃ……」

はぁ、まぁ、そうだろうな。期待通りの答えだった。やれやれ、こんなにマシュマロ好きにさせたのは誰あろう、貴女と未来の貴女なんですがねぇ、ははは、相変わらず背中にその感触感じて、疲れもいくぶんか吹っ飛ぶといえば吹っ飛ぶんですが。


 校門に着いた頃、小雨が降り始めた。

門扉は簡単に開いた。目を凝らすとシルエットではあったけれど確かにそこにハルヒがいた。一心不乱に例の象形文字だか、クメール文字だか、エニグマでさえ解読不可能であろう謎の落書きをグラウンドいっぱいに描いていた。


 「誰? 誰かいるの!」

濡れないように朝比奈さんを木陰に降ろしハルヒに近づく。

「こんな時間に中学校のグラウンドに忍び込んでなにやってんだ? 雨も降ってきたぞ」

「あんたこそ女の子をおぶってこんな時間になにやってるのよ! 不審者! 通報するわ」

 こんな時間にグラウンドに落書きしてるお前はどうなんだよ、と、突っ込んでも仕方あるまい。これがハルヒなのだ、変わってないよなハルヒ。

 「姉貴は眠り病って奇病を患ってるんだよ。ところかまわずどこでも寝ちゃうんだ」

「ふん、そんな変な病気聞いたこともないわ。ちょうどいい、あんたヒマなら手伝いなさい。そこの倉庫に石灰あるからリヤカーに積んでもってきてよ!」

「はい、はい」

 相変わらず人使いの荒いヤツだ。俺も俺だ、雨だってのにいそいそと石灰取りに校舎裏の倉庫に向かってる。

 戻るとハルヒが土砂降りの雨のグラウンドの真ん中でずぶぬれになりながら立ち尽くしていた。

 「なんで!? なんで七夕に雨が降るの? せっかく書いたのに消えちゃうじゃない!」

 雨はますます勢いを増し、ハルヒが描いた絵だか文字だかをあらかた消し去っていく。

 俺はなんだかわけも分からず愛おしさがこみ上げてくる。ハルヒ、もういいだろ? どんなに頑張ったって理解してもらえないことだってあるんだ。

お前がどんな衝動に突き動かされてその行為を行おうとしてるんだか、俺にも分からん。

 しかし、こんな土砂降りの七夕の日に女の子がここまで懸命にしなきゃならないことなのか、これが?

 端から見ればどうしたって奇行にしか見えない。

「なぁ、風邪でも引いたらどうする。こんな意味の無いこともういいだろ、帰ろう、夜道は危ないから送っていってやるから」

「ほっといてよ! わたしにだって分からないの! なぜ、こんなことしてるのか……でもしなきゃ駄目なの! しなきゃ伝わらないの!」

 泣いてるのかハルヒ。ずぶ濡れの姿で俺の前に立つハルヒの瞳に涙が……俺にはそう見えただけのなのかもしれない。

「なぜわたしはこんなつまんないとこにいなきゃならないの!? なぜわたしは一人ぼっちなの!? 世界中がなぜわたしに逆らうの!? なぜわたしはそれに抗ってはいけないの!? なぜわたしは……」

三年後のお前は俺の前で泣き顔ひとつ見せたことなどないのだがな。

 数秒後、土砂降りの雨の中で俺は、わけもわからずハルヒを抱きしめていた。

「もういい、お前の不平も不満も、誰にも理解されなくても、世界がお前に抗っても俺はお前の側につく。だから、もうやめろ」

ハルヒはほんの少しだけ、抵抗の素振りを見せたが、大人しく俺の腕の中に身を預けた。

 俺はほんの一瞬でもこの土砂降りからお前を庇う。そう決めたんだ!!

 恋してんのか俺? 中学生のハルヒに? 恋してるのか俺? あの時、このままこの時間平面に留まるという選択肢が脳裏を過ぎった。

 俺はこいつのためにここに留まってもいいとさえ思ったのだ。

なにもかも捨てて、たいしたものを持ってるわけでもないのだが俺はお前の傍にいたい、とさえ思った。

これが恋なのか? ハルヒ! 俺はお前を守りたい。あらゆる世界の抗いからお前を守り抜きたい。ずぶ濡れで立ち尽くすハルヒはそれほど幼く、か弱く見えた。

 「あんたのこの温もり、なんだかすごく懐かしい。あんたとは初めて会った気がしない。どこかで会ったことある?」

 そういえば一度だけあの閉鎖空間に閉じ込められた時、決死の覚悟でお前を抱きしめキスしたことを思い出した。しかし、あれは夢だったのかもしれないし、三年後のお前にだし。

 俺は無言のままハルヒを見つめた。なんて瞳をしてやがる。そういえばマジマジとこいつの瞳など見たことはなかったな、吸い込まれそうなほど澄んでやがる。


 「あんた名前は?」

「ジョンだ、ジョン・スミス」

「なによそれ、ふざけないでよ」

「名乗るほどのものじゃないってことで許せ。とりあえず帰れよ、この模様だか文字だかは雨がやんだら俺がなぞって完成させてやるから、なっ。お前にとっては大事なものなんだろ、これ。ライン引きも石灰もリヤカーも片付けておくよ」

「あんた、見かけによらずいい人みたいだね。わたしはハルヒ、涼宮ハルヒ!忘れたら許さないから!」

ハルヒは帰りがけにこう聞いた。

「その制服、北高?」

「ああ、そうだ」

「また会える?」

「……もちろんだ。お前、いや涼宮ハルヒが望めば、いつだって俺は傍にいるさ」

我ながらキザなセリフに苦笑する。暗闇だし雨だ。ハルヒには分からないだろうな。

 三年後のハルヒにこんなこと言ったらきっと一笑に付されるだろう。

あんた頭大丈夫だとかなんとか、ばっかじゃないのだとか……やれやれ。

「信じていいの?」

「信じろ、それが初めの一歩だ」

「うん」

「み、未来で待ってる」

「ばっかじゃないの、あはは」

振り向いた笑顔がまぶしかった。

 この時空間で一秒、一分、一時間、一日、一年、あるいは永遠にお前といっしょに過ごせたらきっと楽しいだろうな、俺は本気でそんなことを思った。

 俺の思惑なんぞは気にもせず小走りにハルヒは暗闇に消えた。

 

 名残惜しかった。もう少し話していたかった。これってやっぱり恋なのか?恋したのか俺?


 雨上がりの夜空。所々に水溜りが残るグラウンドに俺は、寸分たがわず例のヘンテコリンを描いた。

 クシャクシャになってはいたが長門からもらった栞まで確かめた。

今ではそのクメール文字だか死海文字だかわけの分からない文様が「わたしは、ここに、いる」そういう意味だと俺は知っている。

 どうやら無意識のうちにハルヒが全宇宙へ向けて発信したメッセージらしいことも分かっている。

 そして、これがハルヒをめぐるあらゆる事象の発端だということも……。

ハルヒにとって大事なことは俺にとってもおろそかにはできないことになっていた。そういう事態に俺はため息をついた。

 「やれやれ」

 しかし、しかしだ。ここに留まったとしてどうやって生活するんだ? どうやって高校に通うんだ? そんな俺がどうやってハルヒと同じ時間を歩める? どうして傍にいられるっていうんだ!?

 だいたいこの時間軸にさっき佐々木をケツに乗っけた俺がいるってのに!? 三年後の俺の居場所は?

 「きゃああ」

朝比奈さんの叫び声に俺はわれに帰った。

「朝比奈さん、どうしたんですか? いつ目覚めたんですか?」

校舎の暗がりから小ぶりな人影が現れた。

「な、な、な、長門さん!?」いくぶん、恐怖に捉われた朝比奈さんの声。

長門だと!? なぜ長門がここにいる? 

「有機生命体二体確認。当該情報を認識。該当者、涼宮ハルヒ識別不能。情報統合思念体、確認を求める。なぜわたしのミッション・ネームを知っている? これを記したのはあなたか? 涼宮ハルヒはどこだ?」抑揚のない長門の声が響く。

 矢継ぎ早の長門の問いに俺はタジタジ。朝比奈さんは引きつったまま微動だにしない。

「明確な回答がなければ、この時間平面上の不要因子二体を速やかに排除せよと命を受けた」

 「おい、おい、おい、おい! 長門、ち、ちょっと待ってくれ。今から説明するから、ってかお前はあのマンションで待機モードじゃなかったのか?」

「……なぜ、それを知っている? なぜわたしのミッション・ネームを知っているのだ? 明確な回答がなければ……」

 グラウンドが一瞬ゆらゆら揺らいだ。みるみるあたりが見知らぬ景色に変貌する。荒涼たる砂漠? いや違う、どこか別の惑星!? 見たこともないような奇岩が林立する。月面ってこんな感じか? いやいやYOUTUBEで見た火星の表面か?

「な、長門! 落ち着けって、ちゃんと、ちゃんと説明するってば!」俺は声の限りに叫んだ。

長門の唇がすばやく動く。

 近くにあった岩の塊が俺と朝比奈さんに向かって牙を剥く。

「ひぇええええ、長門さん……凶暴すぎますぅううう」

「な、長門! やめろっ、やめてくれ!」

俺は朝比奈さんを抱えながら逃げ惑う。岩石は雨、あられと俺たちを襲う。

だめだ、このままでは一分ともたない。眼鏡の奥の長門の瞳は本気モードだった。

 数百のバスケのボール大の岩石の塊が降り注ぐ。もうだめだ、こんなもん避けられるはずない!

もうだめだ、ここで死ぬのか? まさか長門に? 恋を知ったばっかだぞ俺!

 死ぬには早すぎるだろ! どう考えたって。

 数百の岩石の塊が俺たち数センチのところでいっせいに静止し、地面にパラパラと落ちた。

まるで、見えない壁があるように、それは、俺の目の前で留まり、力なく地面を叩いた。

「長門さん! やめて!」

その声は朝倉? 朝倉涼子だった。



 


 



 






 


 

 






 




 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る