Ⅱ
「キ、キ、キョンくん……」
「うはっ!? あ、あ、あ、朝比奈さん!」
押入れからひよっこり顔を出したのは誰あろう朝比奈みくるさんであった。
ピンクのハートが散りばめられたパジャマ姿で!?
パ、パ、パジャマだと!?
「ど、ど、ど、どうしたんですか? こんな時間に」
「古泉くんに言われて……キョンくんを助けろって……あの、あの、その……」
萌え要素たっぷりなその仕種に萌え死にそうだ、あはは……。
谷間から覗くそれはなんですか!? マシュマロみたいなそれから目を反らすには大変な労力が必要なんですよ。
しかし、そんなことはおくびにも出さずにおれは言った。
「またなんか唆されたんですか、古泉に?」
「まぁ、そう、いえ、いえ、そうじゃなくって多分キョンくんのことだから、あのー、そのー、そういう色恋沙汰に疎いでしょ……だから、古泉くんがわたしの、そのーTPDD(Time Plane Destroyed Device=タイムマシンのようなもの)使ってね、もう一度戻ってみろって言うの、戻ってみたらなにかその涼宮さんとの関係に新しい発見があるかもって……」
「はぁ?また戻るんですか? 三年前の七月七日に……」
「そう、前回はなにか忘れ物をしたようなね、そんな気がするの。とっても大事なことをね、なにか分からないんだけれど、ずっと引っかかっているの」
「まぁ、朝比奈さんがそう言うのなら、行くこともヤブサカではないのですが、またまたTPDDなくしちゃったとか、またぞろ長門の世話になるとか……」
「だ、大丈夫ですっ! わたしだって成長してます。もうそんなヘマはしません!」
いくぶん、怒り気味の朝比奈さんであったが、これがまた可愛い。どこまで萌えさせる気なんですか、いや、ほんとに。
結局パジャマ姿で時間旅行はまずいだろってことで、朝比奈さんは俺のジャージ上下に着替えた。
朝比奈さんが肩に手をかけると同時にそれはやってきた。
眩暈とともに奈落の底に落ちてゆくあのいやーな感覚。そして、例によってあの公園のベンチに……。
「また来ちゃったね」と言いながら木陰から朝比奈さん(大)が現れた。
「はい、まさかまた3年前の7月7日に戻ってくるなんて思ってもみませんでしたよ」
「よく寝てるね」
おれの肩に頭をのせて朝比奈さん(小)は熟睡状態である。
「ダメよ、寝てるからってキスなんかしちゃ、ウフフ」
「なんか一度目とは言うことが違うような……」
「そりゃーね、多少オリジナリティがないとキョンくんだって退屈でしょ、ウフフ」
「で、再度の3年前に退行。これには古泉がどこまで絡んでるんですか? 長門も絡んでたりするんですか?」
「ごめんね、禁則事項なの」
街灯の灯りに照らされた朝比奈さん(大)は殊のほかいろっぽかった。意味もなく胸元のホクロを確かめた。あるある、確かにある。
「キョンくん、悪いけどおぶっていってね、することは分かってるよね、多分おなじ」
「あの、あの朝比奈さん……」
「うん? ああ指切りする? もちろんこの子には内緒にしてね、わたしと会ったことはね」
おれは前回のように東中を目指して歩いた。もちろん朝比奈さん(小)をおんぶしてだ。
なんだこの違和感は? なにかが違うような気がした。今までの所は全く同じ展開なのだが、なにかが違う。そんな気がした。
案の定、校門には人影はなかった。確かハルヒがいたはずだ。よじ登ろうとするハルヒがいたはずなのだが……。
門扉の隙間から辺りを覗く。
グラウンド横の芝生にポツンと人影が見えた。
門扉は造作もなく開いた。どうやらハルヒが前もって開けていたのだろう。
なぜだ? 校門をよじ登ればハルヒ一人ならなにも門扉の鍵を開けておく必要などないではないか? 俺が来ることを分かっていたのか? それとも違う誰かを待っていたのか?
寂しそうなその姿に俺は声をかけずにいられなかった。
「おいおい、こんな時間になにやってんだよ? 襲われでもしたらどうすんだ」
「……! あんただれ? うるさいわね、ほっといてよ」
ハルヒだった。なんだかシチュエーションが違うがこいつは紛れもなくハルヒだ。
東中の一年生。Tシャツ、短パン姿の涼宮ハルヒ。無造作に伸ばした黒髪がやけに長い。
「こんなとこに一人でいたらほっとけないだろ、女子は特にだ」
「一般人なんかに興味ないの、わたしは! 特に女子をおんぶしてる不審者なんかに声をかけて欲しくなんかない!」
とりあえず俺は朝比奈さんを芝生に寝かせ、ハルヒに一歩近づいた。
なんだか、懐かしかった。中学一年生のハルヒに会うのはこれで二度目だ。こんな妹ならもう一人いてもいい。
「姉貴は眠り病を患ってるんだよ。眠り病だよ。所かまわず寝ちゃうんだ」
「ふん、そんな胡散臭い病気初めて聞いたわよ。いいからほっといてよ、うざいから」
「俺には小五の妹もいるんだ。だから、なんだかほっとけない。家に帰れよ、まさか家がないなんて言うなよ、送ってくから」
「……いいからほっといてってば! こんな世界うんざりよ、なにもかもが平凡で、なにもかもが退屈で、凡庸なこんな世界! わたしの居場所じゃない!」
なんだかなー、反抗期が終わって思春期真っ盛りの女子中学生っぽいな、ハルヒにもこんな多感な時期があったんだな、神のごとき力を宿してる現在のお前よか、よっぽど可愛げがある。
「……もう、やだ……誰もわたしのこと分かってくれない」
すすり泣き……はぁ? ハルヒが泣いてるだと!?
確かに潤んだ瞳からはしずくが一滴、二滴、泣き顔のハルヒなど、多分これが見納めだろう。
「中坊の分際でなに言ってんだよ。お前にはずっともっと楽しい未来があるじゃないか」
俺もしかしなに言ってんだろうな。こんな状況だってのに慰めの言葉一つ浮かばない。
北高生になったお前が誰に会うと思う。宇宙人に未来人に超能力者だぞ。
俺や、長門や、古泉や、朝比奈さんがどれだけお前に振り回されてると思ってるんだ!? もう毎日が非日常なんだぞ、夏休みを638年と110日延々と繰り返したんだぞ!
ハルヒが鼻を啜りながらこっちを睨む。抑えようとしても涙があふれる。
なんて瞳をしてやがる、吸い込まれそうだ。
鼻をかめ、そして、涙を拭えとハンカチを渡す。
妙にしおらしく俺からハンカチを受け取る。どうやら警戒心がいくぶんか緩んだようだ。
「まぁ、とにかく、俺の言う通りにしろ。芝生に寝ころべ。星空が見えるだろ」
訝しげな視線を向けたままハルヒが芝生に寝ころぶ。俺もつづく。
天空には幾千の輝く星が見えた。
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ……」俺はわざわざ大げさな身振り手振りを交え指さしながら言う。ハルヒが遮る。
「真夏の大三角……でしょ?」こっちを見るハルヒの瞳から涙は消えていた。
「そうだ、ベガとアルタイルが……」
「織姫と彦星……でしょ?」
なんだよ、知ってるのか……まぁ、ハルヒだからな、頭いいからなこいつ。
「ねぇ、あんた。宇宙人っていると思う?」
「いるんじゃねーの」
長門にはいつも苦労かけてるなぁ。
「じゃあ、じゃあ、未来人は?」
「一人知ってる」
朝比奈さん、あなたの煎れるお茶は最高です。
「超能力者は?」
「それも一人知ってる」
古泉、お前はこの件にどこまで絡んでるんだ?
「異世界人は?」
「まさに俺だよ。別の次元域からきてるもん」
幾千の星空の下で交わす妙なテンションの会話にハルヒがクスッと笑い声を漏らした。
「あんた、面白い。なんて言う名前?」
「ジ、ジョン……ジョン・スミス」
「バ、バカじゃないの! なによ、その偽名」
「名乗るほどのものじゃないってことでいいだろ。だけど、けどな、誰もお前を理解してくれないなんて思うなよ。少なくとも、少なくともだ、どこかに、きっと、どこかにお前を分かろうとしてくれるやつはいる」
穴の開くほどじーっと俺を見詰めるハルヒの瞳から曇りが消えた。この世界がお前を理解しようとしなくても少なくとも俺は理解しようと試みるだろうし、誰一人お前を認めなくても、俺はお前の側につく。
「会ったばかりだってのに、よくそんなこと言えるね、ジョン……」
「いやいや、別の場所、別の次元で会ってるかもしれん。それも何度もだ」
なに言ってんだ俺……古泉の転生、輪廻の受け売りかよ。いつの間にか古泉の言葉に毒されてるじゃんか、俺。
調子にのって俺は続ける。
「お前だって俺と初対面な気がしないんじゃないのか? どこかで会ったことがあるような気がしてるんじゃないのか?」
ハルヒが俺の視線を捉える。真剣なその眼差し、いくぶん照れる。なんでだ? なんでこんな中坊の眼差しに照れるんだ?
「お前、お前って……わたしだってちゃんとした名前があるの!」
すっくと立ったハルヒは短パンについた芝をほろいながら言った。
「ハルヒよ、涼宮ハルヒ! ジョン、忘れたら許さないからね! わたしの名前は涼宮ハルヒよ!」
今の自分を分かってくれる誰かが欲しかったのかハルヒ。誰でもよかったんだろうか? それとも俺を認めてくれたのか? あの時、北高の教室であんな出会いをしなかったら、俺たちはもっと素直になれたのか、どうなんだハルヒ?
ここにいるハルヒにそれを問うたところで、いやいや問うことすら茶番だろう。
今の俺は眠ってる女の子をおぶって夜中に徘徊している不審者に過ぎないのだから。
なにより俺はこの次元の人間ではないのだ。三年後の7月7日の七夕からやってきたのだから……。
「忘れないよ。絶対に忘れない。涼宮ハルヒ」
「帰る。またどこかで会える?」
踵を返しハルヒがグラウンドを横切る。
あわててハルヒの後ろ姿に叫ぶ。
「おいおい、なんか忘れてることはないか? なにかしようとしてここに、こんな時間に忍び込んだんじゃないのか?」
振り向いたハルヒは今まで見たこともないような飛び切りの笑顔でこう言った。
「ジョンと話してたら忘れちゃった。ねぇ、また会える?」
「ああ、きっと会える。お前、いや涼宮ハルヒが望めばきっと会える」
「うん、またね」
ハルヒが消えた暗闇を見続けた。
名残惜しかった。ひよっとして俺はこの次元のハルヒに恋しちゃったりして……。いやいや、そんなことはありえん! あんな小生意気でこまっしゃくれたヤツに恋など……。
落ち着け、ただでさえ、ハルヒがしなきゃならないことをせず立ち去り、時系列があやふやになってんだ! ハルヒがグラウンドになにも描かなかったことが3年後になにか影響を及ぼすのか?
ハルヒがグラウンドに描いたあのヘンテコリンな模様が情報フレアを起こし、統合情報思念体がそれを感知して長門を……。
ここは冷静に、とりあえず一度戻って古泉や長門の助言でも訊いてみよう。とにかく落ち着け。
気を沈めるために、天空に浮かぶ大三角を見た。それは一段と光を増したように見えた。
しかし、グラウンドに描いたアレはどうすんだ? あれは、事実だったんだぞ、
俺も手伝ったんだぞ? 手伝ったってか、ほとんど描いたのは俺だ!
地方の新聞にまで載った既成の事実なんだぞ。 それともここはハルヒが改変した世界だとでも? いいのかよ、このままでいいのかよ……?
このまま戻っていいのか?
とりあえず朝比奈さんを起こそう。
「朝比奈さん、起きてください。朝比奈さん」
「ふひぇえええ、キ、キョンくん? あれ? ここはどこ? わたしは誰?」
もうもうなに寝ぼけてるんですか? そんな萌え声でキョンくんなんて呼ばれたら……なにか間違いしでかしそうです。そのピンクのほっぺた齧りますよ、あはは。
そんなことはおくびにも出さず俺は言った。
「朝比奈さん、そろそろ戻りましょう」
「はい……涼宮さんには会えました? なにか新しいことでもありましたか?」
「いや、それが会えたことは会えたんですが……なにかがちょっとづつ、あの、違っているような……とりあえず戻りましょう、ねっ」
「はいはい、じゃあTPDDセットしますね」
「お願いします。TPDDちゃんとありますよね」
「もう、キョンくん。信用してったら、長門さんのお世話にはなりません!」
肩に朝比奈さんの掌の感触を感じた。景色がゆらゆら歪む。奈落の底が見えた気がした。
「キ、キョンくん! TPDDが制御できないの! なにか外部から強大なエネルギーが……あああぁぁぁぁ」
「朝比奈さん! き、強大なエネルギーって?」
「き、き、き、禁則事項ですぅ……」
俺と朝比奈さんはもちろん3年後には戻れなかったのだ。
ど、どこなんだここは?
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