第31話 人であるために⑪

「も、もやし、お前が悪いわけではないのですから…… べ、別に心配してるわけではないのですが」


 アキラが静流に背負われて帰って来た時は情けないと鼻で嗤っていた楓だったが、目を覚ましたアキラの尋常ではない様子を見て、脅えた子犬のように首を竦めている。

 アリスが円盤片手にオロオロと歩き回り、安斎はいつものようにデスクの前で手を組み事の成り行きを見守っていた。

 

「心配かけてすみません楓さん。僕は大丈夫です」


 どこを見ているのかわからない曇った瞳を中に彷徨わせ、深々とソファーにもたれ掛るアキラの姿は、誰が見ても大丈夫そうには見えなかった。見ていて痛々しいなほど憔悴している彼が、今日何を見てしまったのかをここにいる全員が既に知っている。

 静流が想いきり吸い込んだ煙を苛立たしげに吐き出した。壁に貼られた「禁煙」の文字を指摘する勇者はこの場にはいない。いつだってそれはアキラの役目だったのだ。

 カチ、カチと、時代遅れの掛け時計の秒針の音が鼓膜に痛い。そういえばアキラがメビウスに来るまで、この事務所はいつもこんな感じだったと、ほんの数か月前の乾いた日々を思い出して静流は乱暴に煙草の火を消した。

 5分経っただろうか、それとも30分経っているのだろうか。重苦しい空気にアリスの挙動がいよいよおかしくなってきた時、唐突に事務所のドアが開いた。


「こんばんは。アキラ君が大変だって聞いて……っ」


 挨拶もそこそこに事務所に駆け込んできた一人の少女。


 声音こそ若干の焦りが見えるものの、顔の筋肉がその役割を完全に放棄したと思えるほど完璧な無表情の少女の名は、磔ノ谷 御門とこのや みかど

 

 腰まで届く黒髪。少し吊りあがったアーモンド型の大きな目。

 芸術そのものである鼻筋と完璧なラインを描く輪郭は最早幻想的ですらあり、少しだけ厚ぼったい桜の花弁のような唇が照明など無いというのに艶々と輝いている。


 何度見てもため息が出そうになる。美少女とか美女という括りはとうに超え、世界中でただ一人、現実をはるかに超えた先で美という概念をそのまま体現するかのような生き物だ。

 才能では無理がある。努力など顔を出す余地も無い。チートとか神の贈り物ギフトとか、女神すら屈辱で膝を折るであろうレベルの異常な美貌を持つ少女。それが磔ノ谷 御門である。

 そして超常の美貌と同じくらい目を引く要素が彼女には在る。

 目だ。その瞳が死んだ魚より生気が無く、底なし沼のように黒く、昏く濁っている。


「御門、取り乱すな。お前が取り乱して下手したら死人が出る」

「だ、だって、アキラ君が…… アキラ君ケガは? だいじょうぶ?」


 屈んだ御門が心配そうにアキラに手を伸ばし、そしてビクッと怯えたように引込める。

 それと同時に俯いた御門の顔は無表情なのに、濁った瞳が酷く悲し気に揺れていた。

 共感は出来なくとも、経験で静流はその気持ちを理解出来る。

 

 御門は精神感応テレパスだ。

 テレパスはレベル3にもなると、その半数が自我を保てずに発狂すると言う。

 どんなにいつも微笑みを絶やさない人格者とて一つや二つ、誰もが人には言えない黒い感情を抱え、それを必死に隠して生活している。人は笑い、迷い、悩み、嘆き、憎んで、そしてまた笑って生きていく。


 そんなヒトが奥底で持つ汚泥のような黒い感情を、自身の能力で直接脳髄に叩き込まれ、共感し共鳴し、時には嫌悪して自らの想いと重ねあわせていくうちに、他人と自分の境界線があやふやになる。

 そして他人の痛みを自分の痛みと錯覚してしまった時、人は壊れるのだ。


 そうしてテレパス達は、人という名の怪物に囲まれて生きる事を余儀なくされている。

 力をコントロール出来ない場合、無数の人々の感情が無差別、無制限に流れ込んでくる。そんな悪夢に耐えられるよう、人の心は出来ていない。

 触れずとも人の心を読み、そして干渉する事の出来るレベル4で自意識を保っているテレパスは例外なく化け物だ。本人たちもそう思っている。


 そして御門はレベル5災害級だった。

 隠している薄汚い本音を他人に知られるのは恐怖だ。当たり前である。誰もがそう思うだろう。自分だって嫌だ。

 だからテレパスに居場所などどこにも無かった。心を覗かれているのではないかと疑われ、避けられ拒絶され、そして憎まれる。テレパスが他人に『触れる』というのはそういう事だ。

 

 だからこそ御門は手を引っ込めたのだろう。

 テレパスの悲しい定めを知ってもなお、今まで御門に手を差し伸べる者など誰一人としていなかった。同僚である楓も上司である安斎も、そして他ならぬ静流自身も。

 そんな馬鹿げた行動には出なかった。おそらくはアキラが初めての人物であったはずだ。

 「僕は嫌じゃない」と、頼りない笑みを浮かべ、彼女に手を差し伸べたアキラだからこそ、御門はアキラを失いたくない。嫌われたくない。憎まれたくない。

 だから余計に触れる事が出来ないでいるのだ。恐怖すら覚えているに違いない。



「あ、アキラ君、何も食べてないって聞いたよ? あのね…… 私、お弁当つくって来たの。お、おおおお友達だから。私達お友達だから一緒に―――」

「御門、今は放っておけ。それがお互いの為だ。それよりどうだった? 何か収穫はあったか?」


 幾分ションボリした御門が、バックから取り出しかけた包みを再びバックに戻して静流に向き直る。


「サイコダイブしましたが、その子は押入の中にいて何も見ていませんでした」

「見ていない? 押入のすぐ外で凄惨な犯行が行われたというのに?」

「はい。犯人は宅配業者を装って侵入しています。玄関の方から悲鳴が鳴った時、彼のお姉ちゃんに『絶対に出てきちゃ駄目』と押入にとじこめられて…… その後2・3度悲鳴を聞いてますが、それも途中でぷっつり途切れています。声や音も全く聞こえませんでした。全てが終わってから押入を出て、惨状を目の当たりにして気絶しています」

「途中で音が途切れた…… 間違いない。なんらかの能力が発動したんだ…… そうなると……」


 言葉を切って考え込む静流。

 現在、能力はある程度大別されているが、紐を解いてみるとその中身は千差万別だ。

 聞いた事も無い事象を操る能力の可能性も否定できないが、敵が使用した能力は、おそらくは空間操作系か音に干渉するタイプのものか、感覚変異の発展型だろうと思う。


 防音効果など期待できない押入の戸一枚隔てた外では、姉が強姦され、横では母親が焼かれていたのだ。気づかない方が無理だ。なのに少年の思念に潜った御門は音や声すら御門は拾えなかったのだという。

 ならば『音がしなかった』ではなく、『音が聞こえなかった』のだろう。そしてそう考えれば、現場で感じた違和感の説明がつく。遺体がチンピラに発見されるまで、通報する者は誰もいなかった。

 犯人は悲鳴や絶叫を完璧に遮断し、近隣住民に怪しまれずに犯行に及び、そして悠々と出て行ったのだ。

 普通にやっていたのでは無理だ。必ずそこに能力が介在している。


 思考の途中、突然アキラがポツリと「シンゴ君、生きていたんだ、良かった」と呟いた。御門がアキラに何か言いたそうに目を向けるが、彼の虚ろな瞳を見ると、悲しげに視線を逸らす。


「アキラ君、そんなに辛いならその部分だけ記憶を消すことも……」

「御門、アキラに軽蔑されたくなかったらそれ以上はやめろ」

「ご、ごめんなさい……」


 御門を見て苦笑する。

 アキラと出会う前の彼女であれば考えられなかった反応である。いつも何を言われても我関せず、無表情で我が道を貫いていた。感情を表に出して狼狽えることなど無かったし、このようにして凹むことも無かった。

 段々と感情を取戻し始めている彼女を見るのは嬉しくもあり、そして悲しくもあった。取り戻したものを大事に抱えたまま出来るほど彼女の仕事は甘くないからだ。


「話を戻そう。みんなもこのまま聞いてくれ。今警察はDNA検査に入っているだろうが、特定には時間がかかる」


 DNAのデータベースは21年前に一度散逸している。

 国民全てのDNAを登録しデータベースを構築する動きがあるが、それは将来の話だ。現状では、DNAを採取できたとしてもバンクに登録されていなければ見つけ出すのは困難である。

 

「だが、これは我々にとっては都合がいい。その間に何としても犯人を処理・ ・しなくてはならない。敵は間違いなく能力者だ」


 初めて安斎が口を開く


「根拠は?」


 静流が不敵に嗤いながら言った。


「『勘』、だよ」

「ほう、『勘』かね。我々は武装集団だ。動くのには根拠が要る。それなのに根拠は無い。証拠も無い。犯人の足取りも解らない。それでも敵は能力者だと。だから我々に動けと。理由は私の勘だ。と、そういうことかね?」


 事務所に沈黙が落ちる。

 再び時計の秒針だけがその存在を主張する。

 普段のおちゃらけた雰囲気とはまるで別人のように鋭い眼光を飛ばす安斎。組んだ手で顔の下半分を隠し、目だけが剣呑な光を帯びて真っ直ぐ静流を睨み付ける。

 静流はその視線を真っ向から受け止め、さらに笑みを深めて言い放つ 


「ああ、そうだ。理由はそれだけではないが憶測の域を出ない。だが私の『勘』が言っているんだ。『敵は能力者だ』ってね」

 

 そして静流は見た。

 安斎の見えない口元が確かに歪むのを。


「そうか。ならば信じよう。さて、何をしたらいいかね? とりあえず私は土下座の作法を復習しておこう」

「感謝します支部長。それではアリス、まずお前に潜ってもらうぞ」

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