第29話 人であるために⑨
「そんな、あの部屋は……っ」
野次馬を掻き分け、警官を突き飛ばし、静流の制止を振り切って駈け出したアキラ。
静流が焦ってその後を追った。
ドアが開け放しにされた入口から時折漏れるシャッター光。まさしく実況見分の真っ最中で、警察の集まり具合を見ても発見からほとんど時間が経っていない事は明白だ。
「アキラ! 待て!」
現場保存は古今東西変わらぬ捜査の鉄則である。
証拠を確保・保全する最も大事な一場面を乱す事は、捜査官にとっては最も許しがたい愚挙だ。荒らされたその分だけ検挙が遠のくのだからそれも当然。
だからそれを知っていて放置する捜査官もまたいない。アキラが階段を駆け上がり、2階の踊り場に達した時、
「おいガキ! 待てっ! 景山ぁっ! そのガキ止めろっ!」
怒声を上げたのは古臭いコートを羽織った中年の男。
見覚えがあるのは、昨日、監察医務院で出会ったからだろう。確か荻沼というメビウスを良く思っていない捜査官だ。
すると、荻沼のどなり声を聞いた一人の若い刑事がアキラの前に立ちはだかり、羽交い絞めにした。
「ちょ、ちょっと駄目だって君! 今は検分中で被疑者もいるんだからっ!」
「あそこにはっ! カレンさんがっ!」
それでも息を荒げて部屋に行こうとするアキラは周りなど見えていない。暴れはしないものの、強引に足を前に踏み出そうとしている。
しかし、如何に一人の高校生が全力を出そうとも、簡単に振りほどけるほどきちんと訓練を受けた捜査官は甘くない。足で必死に宙を掻きながら後ろに引きずられていくアキラに周囲の視線が集まり始めていた。
「すまない。景山……さん、だったかな? ウチの若いのが迷惑をかけた。感謝する」
追いついた静流に困ったような苦笑いを向けた景山が、何とか現場入口からアキラを引き離す。
「ああ、メビウスの――人っ ですよね! さすがに困ります、って」
「すまん、謝罪する。アキラ、 おいアキラっ!」
すると今の今まで夢遊病者のようにただ前に行こうとしていたアキラが、静流の声でハッと我に返って振り返った。
あまりのショックに体が悲鳴を上げているのか、その顔は蒼白で唇は紫になりかかっており、目は泳いで焦点が定まっていない。まともな状態ではないのは明らかだ。
「静流さんっ! この部屋はカレンさんの……っ う、うそだっ! 今朝まで一緒にいたんだっ!」
「アキラ、わかったから落ち着け。私が見てくるから大人しく待っていろ」
「い、いやだ! 僕はカレンさん達をっ―――!!」
「話を聞けアキラ。まだわからないだろう。私を見ろ。目だ。私の目を見るんだ。そうだ、とにかく落ち着け。現場は甘くない。今のお前みたいに錯乱した状態で現場に入ったら捜査を邪魔することになる。そうなれば無用の衝突を生む。我々の立場を忘れるな」
アキラが歯を食いしばって項垂れる。アキラは素直で頭の良い少年だ。
ただでさえ良く思われていないメビウスが現場を荒らす事の危険性に思い至り押し黙った。
きっとだいじょうぶだ。アキラの動揺具合を見ているとそう言ってやりたいが、現実が非情であることを静流は知っている。最初から覚悟していた時より、希望という名の淵から突き落とされた時の絶望の方が遥かに深い事を、知っているのだ。
何も無ければアキラを呼べばいい。ここは警察に任せ、予定通り彼女達と面会だ。
だが、そうでなければ……
「……引き摺ってでも、帰るか……」
静流が小さく呟いた。アキラは耐えられないだろう。
彼は仕事柄、遺体は見たことがある。何より昨日一緒に見に行ったばかりである。
同年代の子供達よりそういった耐性はあるとも思う。だが、今まで見てきた遺体は赤の他人だった。知り合いはまだ無いのだ。
経験があるからこそアキラには見せたく無いと思う。天寿を全うした身内ならばとにかく、唐突に死んだ知り合いの死体を見た時受けるショックはその比ではない。
腕が良く冷静で優秀な救命医も身内が運ばれてくるのを前にした時、動揺でメスを握れないという。みっともなく泣き叫んで同僚に縋る者もいるというのだ。それほどまでに、知人が冷たく動かないという事実は鋭い刃として胸に突き刺さる。事件ともなれば尚更だ。
アキラは根本的に優しい。優し過ぎると言っていい。それは『弱さ』とも言うかも知れないが、きっと大事にすべきものだと思う。
「いいか、待っていろ。これは命令だ。悪いようにはしない。これは私の仕事だ」
―――――――――――
「アキラ君……だったかな? 昨日も会ったね」
踊り場の消火器BOXに魂が抜けたように脱力し座り込んでいたアキラは、その声にのろのろと顔を上げる。
目に入ったのは、太陽を背にアキラを見下ろす若い刑事。逆光気味になってよくわからないが微笑んでいるようにも見えた。
「あなたは…… 袴田さんのところで会った……」
「そう、景山。これでも一応警察なんだ。ねえ荻沼さん」
そう言って景山が視線を向けた先で不機嫌そうに鼻を鳴らす中年の男。初夏だというのに、よれよれのコートを羽織ったこの男も昨日の遺体安置所で会った覚えがある。
「ハッ おい小僧、ここは遊び場じゃねえ。メビウスだがゼビウスだか知らんがな、ガキが痛い目見たくなかったら余計な事に首突っ込むな!」
「ああ見えて優しい人だから。そうは聞こえないかも知れないけど君の事を心配してるんだよ」
「ああ? 生意気言ってんじゃねえぞ景山! 後は鑑識に任せていい。俺はタバコ吸ってくる! ったくワケわかんねえコトをよ……」
ブツブツ言いながら背を向け、大股で歩き去っていく後姿に不思議と不快感は無い。昨日会った時は酷い暴言を吐いていたが、それももしかして気遣いが入っていたのだろうか。
すると景山がアキラの横に並び壁にもたれ掛りながら話しかけてくる。
「まあそれは置いといて。どうしたの? メビウスはあんまりこういうのに介入してきたりしないのに。それともアレかな。何か、あったのかい?」
にこやかな表情のままアキラを見下ろす景山。
アキラは気付く。顔が笑っているが目が笑っていないことに。
メビウスは警察にとってもワケのわからない組織だ。民間企業でもあるのに公安直下に位置し、警察と同等、場合によってはそれ以上の警察権を振りかざし、現場に介入してくる。
事件の大小に関係無く、何が理由なのか、どういう基準で割りこんでくるのかもわからない。
アキラは年若い少年であることから根掘り葉掘り、執拗に行動原則を探られた事もある。その捜査官も今の景山と同じ目をしていた。探る目だ。
優しく見えてもこの人は捜査官なのだと改めて認識させられる。下手な事を言うわけにはいかなかった。
「知り合いが、その、あの部屋に住んでる人は知り合いで……」
景山の表情から力がフッと抜ける。
「そうなんだ。だったらあの女の子の言う通りさ。なおさら現場には行かない方がいい。知り合いかどうかはわからないけど見る必要は無い。ココで大人しくしてるといいよ」
「で、でも……」
「僕だってね、出来れば凄惨な現場なんて見たくない。初めて見た時なんか夜眠れなかったね。解決することも出来なくてさ。今でも被害者が僕を見てるんじゃないかって思う時がある。警察なんかになるもんじゃないよ」
疲れた様に笑う景山を見上げて、アキラも力なく笑みを返す。
「景山さんは、なんで警察に入ったんですか……?」
「もう忘れたよ。『正義』ってのはもしかしたら存在しないのかもしれない。それは市民を守る警察ですら同じことが言える。だけどね、間違いなく『悪』は在る。それもどうしようもない『悪』というのが在るのさ。僕はそれが許せない」
思いの外熱く語り出した景山が、途中でハッと顔を上げ、バツが悪そうに頭を掻いた。
「まあこんな問答しててもしょうがないね。とにかく、僕には覚悟があった。『悪』と戦う覚悟がね。だからわかりやすく警察に入った。君はどうなのかな。何か、覚悟があってメビウスにいるのかい?」
その問いは思いの外、重くアキラの胸に突き刺さる。
単純そうで複雑な、引っかけに見えてシンプルな。
在る と一言で終わる筈の問いかけが、果たして本当に自分に覚悟があるのかという自問自答に発展する。今でも鮮明に思い出すのはメビウスに入るきっかけとなった事件。
アキラは見た。
藤枝に壊された家庭。そして壊れてしまった少女。
アキラを売った罪悪感と、アキラ本人からの罵倒に耐え切れず、慟哭に似た叫びを上げた静流。
力があっても守る事なんて出来やしないと、力が無いのは論外だと牙を鳴らした藤枝。
そして、とっくに砕け散った心と、唯一残った残りのカケラを大事に大事に抱えて、それでも前を向くと決心した御門。
自分は何かをしたいと思った。力の無い自分が何かを守る事なんて出来やしない。悔しいが藤枝の言う通りだ。それでも、自分にも出来る事があるのではないかと、強くなるため、アキラはメビウスに入る決心をしたのだ。
「覚悟が無いならばそこそこにやるべきだ。決して悪い事じゃない。こんな商売をしていると絶対にどうしようもない事に出くわすことになる。それでも君には覚悟が、在るのかな?」
覚悟は、在る。
戦い傷つく事も、たとえ取り返しのつかない底なし沼に片足を突っ込んでいたとしても、抑圧された能力者たちのために、何より自分自身のために。
命をかける理由が在った。
「あります…… 覚悟なら、僕にもある……っ!」
「そうか、じゃあ僕は止めないよ。好きにするといい」
そう言って手をヒラヒラさせながら階段に向かう景山。
アキラは西日が眩しい空を真っ直ぐ見据えながら一つ深呼吸をした。
「行こう…… 僕だって、メビウスの一員なんだ」
現場に向かう。外で警備をしている制服の警官が止めようかと一瞬手を伸ばしかけるが、軽く逡巡して手を下ろす。アキラが刑事である景山とすぐそこで話していたのを見ているし、もう現場に入っている静流の連れであることも知っているのだろう。
アキラは警官に軽く会釈をすると、無数の外履きが並ぶ玄関に足を踏み入れた。
時折、鑑識の捜査官たちが出入りをし、カメラのフラッシュが瞬く。
玄関の隅にキチンと並べられたスポーツシューズは、今朝見たばかりのエリカの靴だ。アキラはその横に並べる様にして靴を脱いで廊下を踏みしめる。
瞬間、焦げ臭いような、脂が焼けるようん臭いが鼻についてアキラは顔を顰めた。軽く頭を振って深呼吸をする。
「大丈夫だ……」
―――大丈夫。覚悟はあるんだ。僕だってメビウスの一員だ。あれから幾度か現場にも入った。あの時のままの僕じゃないさ。凄惨な写真一つでゲロ吐く様な昔の僕じゃないんだ。
アキラは、知らない。世の悪意を。
そして彼の『覚悟』と、今ここで求められる『覚悟』の質が違っている事を。
自身の身を賭す、そんな自己犠牲の精神を覚悟と勘違いした青い少年に、もうどうにもならない事実が突き付ける残酷なまでの現実を。
アキラは知らなかった。
受け止める心の準備も無く、楽観と悲観の境界も曖昧なまま、そうしてアキラは踏み入れる。藤枝がかつて見た、地獄という名の現実に。
―――きっと大丈夫さ。カレンさんも、エリカちゃんもシンゴ君も。
今朝別れてから一日もたってない。こんな短時間で事件に巻き込まれてるなんて馬鹿げた話だ。何かの間違いに決まってる。
カレンさんは笑ってた。エリナちゃんが獲った習字の賞状を嬉しそうに見せびらかしながら。カタコトの日本語で子供の幸せを願って。
壁には親子三人で手を繋ぐ下手くそな絵。棚には油の染み込んだ日本料理の本。ランドセルの横には、エリカちゃんによって漢字に振り仮名が振られた父母参観のお知らせ。
エリカちゃんの夢はコックさんになることだ。帰りの遅いお母さんの為にご飯を作り続けて自然と目覚めた彼女の喜びだ。お母さんの敵は絶対に許さないと、鋭い眼差しを見せる強い子だ。
彼女たちは何にも悪い事はしてない。事件に巻き込まれるわけが無いじゃないか。
そうだ、きっと困っているはずだ。自分達の部屋に突然警察が押し掛けてきて、困っているに違いない。
帰化したといっても元外国人だから、波風立てないよう余計に気を使って生活しているのにこんな事になって落ち込んでいるに違いない。きっとそうだ。
「クソ ひでえもんだ。狂ってやがる……」
そう、酷いよね。
人の家で勝手にこんな騒ぎ起こして、こんな脂を焼いた様な匂い充満させて。どう考えたって迷惑だよ。警察も気を利かせて換気くらいしろっての!
彼女たちは質素な食事に慣れてるんだ。胸焼けするでしょ!?
温厚なカレンさんだって怒るに決まってるよ。エリカちゃんだってプリプリ怒るに違いない。
ん? 誰?
女の人? 人ん家で何やってんの? 捜査の邪魔だって。
何でそんなところに寝てるかなあ? 何でそんな恰好してるわけ? 駄目だよ服着なきゃ風邪引くって。
それにさあ、なんでそんな長い棒を、口から生やしてるの?
なんでそんな目を見開いて
なんで手足を、縛って
なんで、そんなに、怪我、して……
なんで、どうして、おし、えて……よ
うそだよね、なんで……
どうして―――っ
「……カレン……さん……」
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