第26話 人であるために⑥

街の喧騒や派手な看板とは反対にひっそりと静まり返る夜の小道。酔っ払いか、風俗目当ての会社員か、胡散臭い客引きだけが交差する人取りの無い裏道。

 その人通りの少ない通りの更に路地裏で


 男が女を殴っていた。


「沈められたいんか!? ええっ!?」

「なぐ、なぐらナイデ…… うぶぅっ」


 アキラから15メートルは無いだろう薄暗い路地裏の奥で、数少ない照明の光を受けた男の顔は愉悦に歪んでいた。抵抗できない者を虐げる昏い喜びの炎が濁った瞳で燃えている。今は顔ではなく、肩や腹を殴っているが、そのうちエスカレートするのは明らかだ。

 水商売風の衣装が捲れ上がるのも気にせずに尻もちを着き、怯えたように男から後退る女性の背中しかアキラからは見えないが、きっとその顔は恐怖に歪んでいるはずだった。

 

「ヤメて…… い、イタイ、デス……」


 男は一歩にじり寄り、

 言葉がカタコトなところを見ると外国人であろう女性に男は一歩にじり寄り、左手で顎を掴む。そして


―――パンっ


 頬を張った。

 呻き声のような悲鳴が小さく反響する。

 アキラの体が緊張と恐怖で強張った。それと同時に、フツフツと湧き上がった怒りが頭の中をグルグル回る。

 ここで颯爽と飛び出して女性を助ける事が非常にわかりやすい正義の形であるが、現実はそんなに単純ではない。

 事情がわからないのだ。本当に悪いのは女性かも知れないし、見えない部分で男が酷い目に遭っているのかもしれない。所詮、赤の他人が正義感を振りかざして出ていったところで物事は何も解決しない。

 しかし、とアキラは思う。


「無抵抗の女の人を、殴っちゃだめだろう……」


 非がどちらにあるのか、理はどちらに味方するのか。そんな話とは全く別の次元として、無抵抗の女性に暴力を振うというやり方が認められるはずが無い。少なくともアキラは認めない。なんとかしなければ。

 勇気を振り絞って踏み出した足が小刻みに震える。

 

 怖くないはずが無い。

 

 殴り合いの喧嘩すらした事の無いアキラにとって暴力は嫌悪と恐怖の象徴だ。振るわれるのも、振うのも、そしてそれを見ているのも嫌だった。

 しかもアキラは能力者で、これは正式な仕事の範疇外の出来事だ。もしこれが大げさにも事件になった場合、まるで実験動物のように頭の中を隈なく覗かれ、もし危険な行為と判断されたら笑えない処罰が待っている。躊躇するなというのが土台無理な話なのだ。

 迷っている間にも、再度擦れた悲鳴が路地裏に響く。

 

「そ、そうだ…… 誰か呼んで来よう。そうすれば危険も無いし無事に解決――― って、ウソだろ……っ」


 薄明りの中でギラリと光る鈍色のナニか。確認するまでも無い。刃物だ。

 男がどこからか取り出したその刃物を握りしめ、暴力に酔いしれた醜い顔を更に嬉しそうに歪ませる。女性が四つん這いになり、必死に男から逃げようとするが、長い髪の毛を掴まれ、華奢な肢体を仰け反らせた。こちらを向く形となった女性は既にボロボロだった。

 剥き出しの膝は皮膚がアスファルトで破れて血が噴き出しており、張られた頬が腫れ上がって口を切ったのか、苦しげに開けた口からタラリと血が零れだす。顔は恐怖に引き攣り、涙を流しながら何度も何度も男に許しを請う。


―――迷っている時間は無い。出ていかなければ女性が危ない!


 そうは思っても竦む足。震える指先、打ち鳴る歯。

 情けない。いつだってそうだ。今行かなきゃ危ない。あの女の人が殺されるかも知れない。

 意識的に拳を握りしめて肩で荒く息をつく。その時だ。


 アキラに気付いた女性と目が合った。


 恐怖と涙に塗れた顔をグシャグシャに歪ませ、アキラに向かって右手を伸ばす。細められた目が痛々しい程声を上げていた。


―――タスケテッ


 

 飛び出していた。

 タイミングもクソも無い。気付いたら猛然と男に向かって走っていた。

 

 アキラに気付いた男がアキラに向かって刃物を構える。恐ろしい事に男の眼に躊躇いは微塵も無かった。

 ぐっと奥歯を噛み締める。

 

―――イメージだ。イメージが重要だ。

 

 相手は興奮している。突きは無い。

 きっとアレは自分に向かって振り下ろされる。ただ愚直に最短距離で。

 何度も何度も静流と訓練で繰り返したシチュエーションだ。

 10m 5m 怖くない。怖くなんて無い。止まるな。恐れるな。走れ。

 男が刃物を振り下ろし始めた。


「そこだ―――っ!!」


 下から上へ。

 2m手前、見えない手物理干渉で男の手を跳ね上げる。

 男の手を離れた刃物が緩く回転しながらアキラの顔の横を通過し、風切音が耳元で唸った。

 足は止めない。

 武器を飛ばされ目を見開く男の鳩尾に、全体重を乗せて倒れ込むように肩から激突する。

 

「おヴぅっ!!」


 一瞬だけ中を舞った男が、背中から勢いよく地面に落ちた。

 苦悶の呻きを上げながら、路上をゆっくりと転げまわる男を見下ろして唐突に腰が砕けそうになる。背筋からドッと冷や汗が噴出した。

 

「に、ににに、にげ、逃げましょうっ!!」


 声を裏返しながら叫ぶ。

 脱出しなければ。この場を離れなければ。それだけで頭がパンクしそうだった。

 ワケもわからないまま、ポカンと口を開く女性の手を引き、無我夢中で路地を飛び出す。

 やけに早く流れる景色を何度も何度も振り返りながら走り、やっと人通りの多い通りに出て、店のシャッターにもたれ掛る様にしてアスファルトにへたり込んだ。大した距離を走ったわけでも無いのに、体を突き破らんばかりの鼓動で胸が痛い。


「あ、アリガト、ゴザいマス……」

「ふへっ?」


 マヌケな返事を帰してしまったのは、女性を助けた事すら忘れてしまうほど必死だったからだ。

 自分が何のためにこんな事をしたのか忘れるなど、本末転倒極まりないのだが、声をかけられてアキラはやっと女性の存在に気付く。未だに女性の手首を掴んでいることを。


「あ、す、すいませんっ!!」


 慌てて手を離すと、女性の手首は痣になりそうなほどくっきりと手痕がついていて、酷い罪悪感に襲われた。


「ああぁ…… 痕が残ってる…… ごめんなさい、こんなつもりは―――っ」

「ダイジョブですヨ。たすけテもらったのはワタシ。オレイをいうのもワタシ。それよりアナタ。ケガしてル……」

「え?」


 心配そうな顔をした女性がこめかみを指差す。

 アキラはキョトンとしながら自身の耳元に手を当てると、指先にヌルっとした何かが付いた。

 なんだろうと手を見ると、べったりと赤く染まっていて、驚きと恐怖に顔を引き攣らせる。

 

「え? ええっ?」


 どこも怪我をした覚えがないので、軽くテンパったアキラがペタペタと頭を触り、右のこめかみあたりに触れた時、鋭い痛みに顔を顰めた。

 男の腕を跳ね上げた際、耳元を飛んで行った刃物が掠ってしまったのだ。思いの外大きい傷だが、興奮しすぎて気付かなかったらしい。 

 

 どうしようと情けない顔で女性を見上げると、女性は歩道の向こうで手を振ってタクシーを泊めていた。

 道行く人たちが心配そうに、そして関わり合いたくないという複雑な表情でアキラを見下ろしながら歩いて行く。

 それはそうだろう。誰だって水商売風の外国人を連れた男が、頭から血を流してシャッターを背に崩れ落ちていたら、そっち系のトラブルに巻き込まれたと思うのが普通だ。そしてそれがあながち外れていないあたりが悔しいところでもある。


「おニイサン! とにかくノッテ! チリョウするカラ!」

「え、あの、その…… ちょ、ちょっと待―――」


 女性は、その華奢な体躯からは信じられない程強い力でアキラを抱える様に立たせ、半ば放り込むようにタクシーに乗せる。そして女性自身もそのままアキラの隣に乗り込んだ。

 控えめの香水の香りがフワリとアキラを包み込み、嗅ぎ慣れない大人の香りにドギマギする。


 チラリと横目で盗み見た女性はやはり日本人ではない。少しだけ濃い色の肌、チョンと小さく尖った鼻に大きな目。そして少し捲れ上がった唇の色が濃いのも口紅だけのせいではないだろう。おそらくはフィリピン人だ。小柄で華奢ながらも匂い立つような肉感的な体は、安斎支部長曰く「たまらない」らしい。

 非常に愛くるしい幼い顔つきから、もしかして10代なのかなとも思うが、目尻に数本奔った浅いシワを見ると、見た感じよりは歳は上なのかもしれない。


「ヒマワリようちえんマデ、おねがいシマス」


 タクシーの運転手が迷惑そうな顔で後部座席を振り返りながらも車を発進させる。女関係のトラブルで怪我したマヌケ男、みたいな事を思われているに違いない。

 終始無言であった車内の空気にたじろいでいたアキラだが、車は5分ほど走るとアパートや商店が並ぶ住宅街で止まった。さっさと降りてくれと言わんばかりに無言でドア開く。女性がさっさとお金を払って先に降りると、アキラを座席から引き摺り出す様に「えいっ」と引っ張った。

 

 街灯も少なく、ひっそりとした街並みに降りると、ドアが閉まり切らないうちにタクシーがそそくさと去っていく。

 遠ざかるエンジン音と、見知らぬ街。そこに流されるままポツンと立つアキラの横には、数分前に会ったばかりの外国人女性。

 アキラは思った。何だコレ。

 


「あ、あれ? 僕、さっきまでお使いに行ってたんだけど…… お酒を…… あれ、コンビニどこ……?」

「おニイさん、アガってッテ!」


 ガシっと手首を掴まれ、グイグイ引っ張って歩いて行く女性。

 さっきまで自分が引っ張っていたと思ったら、いつのまにか引っ張られていたでござる。

 未だに状況に頭が追いつかないアキラは、引っ張られるまま、為すがままであった。

 本人は頑なに認めないが、元々、妹に彼女面をされるほど押しに弱い性格なのだ。

 だから、アキラはこの段階でようやく気付いた。

 

―――あれっ!? もしかして人生初めて異性の家に上り込む!?


 アキラの中で静流はパンツとスポーツブラをつけた雌ライオンなのでノーカウントだった。

 

「ぼ、僕は高校生でっ まだ早いっていうかっ」

「おニイサン、ダイジョブ? ついタヨ エンリョしないデ」


 そうして、アキラは女性の家に足を踏み入れた。




―――――――――――




 タクシーを降りてから手を引かれるまま入り組んだ道を歩く。この辺はまだ開発が遅れていて、それほど裕福ではない家庭や、地方から磐城に出て来たばかりの若者が住む街だ。

 古くからの家屋やアパートが立ち並ぶ街並みを1,2分歩いただろうか。

 古い建物群の中でも一際年季が入ったボロボロのアパートの前で女性が足を止め、アキラを振り返る


「ここヨ。キタナイけど、あがッテ」


 サビだらけの階段を軋ませながら2階に上がり、前時代的なギザギザのカギを鍵穴に突っ込んでガチャリと錠が開けられた。

 手首を掴む彼女の手の柔らかさに心臓が跳ね上がる。


「タダイマー」


 パチっと玄関の電気をつける女性の後ろから、アキラがガチガチに緊張しながら玄関に足を踏み入れた。

 正直アキラは混乱していた。

 お酒を買いに行くはずだったのに、何故か可愛らしい名も知らぬ外国人女性の家に上がろうとしている。一体この身に何が起こっている。

 若い女性が男を家に招くなんて、男が勘違いしてもおかしくないシチュエーションだし、女性の髪がフワリとなびく度に良い匂いが鼻孔を直撃してドキドキするし、頭は頭で傷口がズキズキ痛くてもう訳が分からない。

 玄関で固まるアキラに、何をやっているの? とばかりに首を傾げる女性。

 アキラは混乱覚めやらぬまま、とりあえず恐る恐る口を開いた。


「お、おじゃま、シマース……」

「ママおかえりーっ!!」



―――ドドドドドっ



「コラッ はしっちゃダメっていってルでショウ!?」

「ママ、このお兄さんだれ?」


 狭い廊下の奥から突進してきて女性に抱き着く少女。

 まさかの伏兵登場にビシリと固まるアキラ。

 そんなアキラに好奇心いっぱいの瞳を向ける少女は10歳くらいだろうか。ビー玉のように真ん丸な瞳がキラキラと輝き、小さめに尖った鼻を興奮気味に膨らませている。純粋な日本人では有り得ない南方人特有の浅黒い肌は、ママと呼ばれた女性と同じ色で、幼いながらも大きく膨らみ始めた胸もきっと女性の血を引いているからだろう。


 そう、二人はとてもよく似ている。親子、いや10歳くらいの娘を持つには女性は若すぎる。パッと見10代でも通用しそうなのだ。いっていて精々20代前半なハズ。ならば姉妹だろうか。

 女の子の口から2度も「ママ」という単語が放たれているにもかかわらず、混乱したアキラはアホみたいにポカンと口を開けて二人を眺める。

 するとアキラの様子に気付いた女性が、男を惹きつける小悪魔のような笑顔を浮かべた。


「ふふふ。このコはイモウトのエリカ。ワタシはオネエちゃんのカレンデスよ~?」

「ママ、もう32なんだからそういうの駄目だって!」


 悪戯が成功した時みたいな含み笑いをする女性、カレンを見やって再度混乱するアキラ。


「え、さ、32歳!? 若すぎるでしょっ!」

「うふふ。ワタシはドウガンなんデスヨ。さ、エリカ。きちんとアイサツしなサイ」

「こんばんわー!」


 ここに来る前から全く展開について行けないアキラだが、小さい女の子に挨拶されて返せないほどではない。慌てて正面を向き、少し体を屈めて少女に笑顔を反した。


「こんばんわエリカちゃん」


 するとエリカは大きな目を更に大きく見開いて叫んだ。


「ママ! 怪我してる! このお兄ちゃん怪我してるよ! 治療するんでしょ!? そうだよね!?」


 そしてアキラの手をむんずと掴んで、廊下の奥の部屋へと問答無用で引っ張っていく。

 ここに来るまでカレンに引っ張られ、そして家についてはエリカに引っ張られ。

 自身の押しの弱さに自嘲しながら、確かに二人は親子なんだなあと、アキラは思わず苦笑した。





□□□□□□□□□□





 破れた襖。限界まで日に焼けた畳。傷だらけの柱。所々ヒビが走る漆喰

 アパートの外観通りに古ぼけた和室はしかし綺麗に整頓され、小学校の図工で描かれたであろう家族の絵や、何かの賞状が部屋を賑やかす。

 本来ならば鬱々と気が重くなるような安アパートの部屋には清潔感すら漂い、明るく健全な生活の香りに溢れていた。

 1LDK。家族が暮らすには狭すぎる間取りも、睦まじく肩寄せあう3人・ ・の家族を見ていると案外悪くないような気がするから不思議だ。


 そんな家族の部屋に通されたアキラは今、座布団に座り、カレンと向かい合っていた。

 明るいところで見てもカレンはやはり可愛らしく、とても32歳だとは思えない。アキラのこめかみに、たっぷりマキロンが染み込んだガーゼを当てるカレンと至近距離で目が合い、慌てて視線を落とすと、そこには彼女のムッチリとした胸の谷間が腕の動きに合わせてぐにぐにと形を変えている。

 どうしようもなくなってギュッと目を瞑るアキラをからかうように、時々カレンが胸を当てるものだからアキラは既にいっぱいいっぱいだった。


「イツッ!!」

「うごかナイデ~。モウすこしでおわルカラ…… ハイッ ショードクおわりっ!」


 ふうっと息を吐いて軽く周りを見渡す。

 先ほどからトントンと小気味の良い音を立てているのはエリカだ。

 オープンキッチンなんて洒落たモノではなく、ストレートに部屋とつながったキッチンで、可愛らしいエプロンをしながら鼻歌を歌う姿はとても可愛らしい。

 まだ10歳かそこらだというのに、後ろから見ていても非常に手際が良く堂に入っていて、ぷんっと漂う味噌汁の香りがやけに落ち着く。


 そしてアキラは思い切ってとある方向へと目を向けた。

 そこには、先程、カレンに消毒してもらっている時から感じていた視線の主。

 

「シンゴ、そんなトコロにいナイデ、こっちにきなサイ」

「…………」


 そう、幼稚園くらいの男の子が襖の陰に隠れ、ずっとアキラの様子を伺っているのだ。

 好奇心と警戒心が同居する黒い瞳はどこか見覚えがあるもので、そう言えば千夏も昔はそんな目で自分の友達を見ていたと少しだけ懐かしくなる。

 肌の色が違おうと小さい子供の世界は共通だ。


「ゴメンね。チョットひとみしりするコで……」

「いえ、なんか落ち着きます。あ、治療ありがとうございました。それじゃあ帰りますね」

「ナニいってるノ? ゴハンタベていってクダサイ。それに、チリョウ、マダおわってまセンヨ?」

「え? 治療って消毒したら終わりじゃないんですか? それにもう遅いし……」


 チラリと時計を見たらもう11時半だ。

 二人の子供は寝る時間だろうし長居しても悪い。可愛らしい女性とお話しするのは楽しいが、アキラはカレーを食べたばかりだし、お酒を買って酔っ払いどもに献上するという悲しい任務が待っている。

 

「ママ~ おにいちゃ~ん。ゴハン出来たよ~」


 気を使って退散しようとした所で準備が終わり、断り切れず食事が並べられた折り畳みテーブルの前に大人しく座る。

 出されたのはご飯。味噌汁。ほうれん草のお浸しと豆腐ハンバーグ。質素ではあるがどれもこれも美味しそうで、とても小さい女の子が作ったものとは思えない。

 見たところ母子家庭の様で、水商売をしている親を支えるために自然と覚えたのだろうか。聞いてみたい気もするが会ったばかりの人の家庭内の事情に立ち入るのは失礼だろう。


 アキラが軽くお腹を撫でる。正直お腹は空いていないのだ。

 だが、向かい側に座り、肘をついてニコニコとアキラを眺めるエリカを見ていると、実はもうご飯を食べているとは言い出せなかった。

 といっても満腹で食べれないわけでも無いので、出された分はキチンといただこうと手を合わせた。


「じゃ、じゃあいただきます」

「召し上がれっ!」


 

 味噌汁を啜ってみると、きちんと出汁をとって作っているようで、煮干しの良い香りが鼻を抜ける。豆腐ハンバーグに箸を伸ばしてみると、ふんわり柔らかく、ソースとしてかけられた甘酸っぱい椎茸の餡が、口の中でトロリと崩れるハンバーグとよく馴染む。

 

「美味しいよ! 凄いね、これ全部エリカちゃんが作ったの?」

「そうだよ~ 料理はね、得意なのっ!」


 簡易の折り畳み机は思いの外狭く、自然と人の距離も近くなる。

 思わず手を伸ばして頭を撫でてしまったのは、にひっと笑うエリカを幼かった千夏の面影と重ねてしまったからだ。

 目を細めて擽ったそうに身を捩るエリカを見て、アキラの顔にも自然と笑みが浮かぶ。

 それを眺めるカレンも嬉しそうに微笑んでいた。


「えへへ~~~」

「そう言えばエリカちゃんはご飯食べないの?」

「あたしとシンゴはもう食べたの。いつもならもう寝てる時間だよ。明日も学校休みだから起きてるんだ。ママ明日もお仕事だし」


 そうなんだと相槌を打ちつつ、3人で話をしながら和気藹々とご飯を食べる。

 学校が楽しいとか、将来はコックさんになりたいとか。絵が得意で先生に褒められたとか。そんな取り留めない話だ。

 あまりに落ち着く家族の空気に、自分がお使いに出たことを忘れそうになる。

 途中、隣の部屋からずっと様子を伺っていたシンゴがようやく安心したのか、とことこ歩いてきてカレンの膝の上に座る。そして隣に座るアキラを不思議そうに見上げていた。

 

 ご飯も食べ終わり片づけを手伝っていると、カレンが何故か着替えを持って部屋を出ていく。


「おかあサン、おフロはいるネ~」

「え、ちょ、僕、もう帰ろうかと思―――」

「何言ってるのおにいちゃん? おにいちゃん泊まってくんだよ?」


「え―――っ?」


 まさかの宣告に戸惑うアキラ。

 固まるアキラに対して、エリカは平然と濡れた手を軽くはたき、さっさと布団を敷き始めた。寝室に一組。居間に一組。そして何故か小さい布団を押入に敷く。

 すると大きな欠伸をしていたシンゴが、目を擦りながら押入の布団に入り、パタンと内側から器用に戸を閉める。


「ええと、アレは……?」

「ああ、シンゴはね、なんか最近、ずうっと昔のアニメ見てから押入で寝るの。『ネコロボット~』とか言ってたよ?」

「あ、ああ、きっとアレだなあ……」


 おそらくは、戦前に花開いた日本のアニメ文化の根幹を成す偉大な作品の一つであるアレだ。

 東京に核が落ち、失われたのは命や財産だけではない。

 無数のあらゆる種類の物理的データベースが灰と消えた。フィルムや記録媒体や紙はもちろん、東京在住の作者自身やネット上のサーバすら幾つも消え去った。

 

 週刊誌や単行本として日本全国、世界各国に作品自体が散らばり、生き残っていたとしても、作り手や大元になるデータが無くなればお手上げだ。

 いくつもの作品が自然消滅し、いくつもの雑誌が廃刊になり、新たな連載を1から組み上げる風潮の中、それでもやはり名作と呼ばれるモノは残り、多くの人の熱意と努力によって復刻を果たした。

 『どら○もん』もそんな名作の中の一つだ。


 昔のアニメを特集する番組は今でもたまに目にするが、アキラの父に言わせれば、『とても感慨深い番組』なのだという。昔を懐かしむと同時に、それ以上の苦難を思い起こし感傷に耽るものだと言っていた。

 最近は新しい潮流に押されて目にすることはほとんどないが、小さい頃は父に薦められ、夢中になって読んでいた事を思い出した。


「それよりおにいちゃん、聞きたい事があるの」


 そうして思い出に浸っていると、突然の真剣な声音に現実に引き戻される。


「ママのほっぺた、腫れてた。何があったの? おにいちゃんの怪我と関係あるの? 教えて」


 目の前にあるのは感情を消し去ったエリカの顔。

 小学生とは思えないほど凄まじい怒気を孕んだ瞳にアキラはたじろいだ。

 

「誰かママに酷いことしたの? だったら私は絶対許さない……」


 小さい躰からマグマの様に噴き出す激情。

 この家に来て、エリカはお出迎えの時からそんな素振りは少しも見せなかった。カレンも暴力事件に巻き込まれたような素振りを見せなかったし、子供に心配をかけたくない親心を感じてアキラだってそれには触れなかった。


 しかし、この小さな戦士の目はごまかせなかった。おそらくは最初から気付いていたのだろう。

 心配をかけたくない親の意図を理解し気付かないフリをして、その親が場を離れたタイミングで我慢が出来なくなったのだ。


「今までもたまにあったの。ママは絶対に何も言わないけど…… 私にはわかる……っ」


 それは聡明だと褒めるところなのだろうか、そうならざるを得なかった環境を憎むべきなのだろうか。

 この国で外国人を取り巻く環境は複雑だ。目に見えることだけでも問題は山積みだというのに、きっと本人たちにはそれ以上の厳しい現実が降り注ぐ。


 この暖かな家庭を守ってあげたいと、アキラは素直に思う。

 しかしアキラもまた力も権力も無い子供なのだ。

 踏み込んで全てを解決するなど土台不可能だし、そして無理やりに手を差し伸べる事が必ずしも正しい事では無いと言う事を知っている。

 

 でも、少しだけ年上の自分にも、出来る事があるのではないかとアキラは思う。

 無責任な事は言えない。ましてや『守る』などという重い言葉を軽く口にするわけにもいかない。藤枝との戦いでその事は痛い程理解させられたのだから。


「エリカちゃん。心配いらない。いや、心配しないように努力しよう。カレンさん―――お母さんがそれを望んでいる事はわかるよね? 君に心配をかけたくないんだ。君にはそんな事を気にせず、元気に生活して欲しいんだと思う」

「でもっ―――!」

「本当に助けて欲しい時はお母さんはきっと言ってくれるさ。君はその時まで普段の生活を一生懸命するべきだ。それが一番お母さんの助けになるよ」


 しゅるしゅると音を立てて怒気はしぼみ、声を小さく俯いてしまうエリカ。

 これだけ機微に聡く、大人の思考ができる少女も、世間に出れば小さな女の子でしかない。少しだけ震える肩も、への字に曲げた口元も、あまりにも幼く頼りないものだ。

 

 しかし、それは決して『悪』ではないのだとアキラは思う。自分だってそうなのだ。

 守られているだけが嫌になって飛び込んだメビウス。未熟で弱い自分が誰かを守れるようになるにはまだまだ何もかもが足りない。

 だからアキラは再び少女の頭に手を置いたのだ。


「僕もそうなんだ。だからエリカちゃんも一緒に頑張ろう!」


 少年がキョトンと首を傾げる少女の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。

 やがて二人は目を合わせると、どちらからともなく軽く噴き出した。

  


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