第25話 人であるために⑤

『ね、ねえ! 女!? まさか女のところに泊まるのお兄ちゃんっ! ひどいっ! 私っていう彼女がいながら浮気するなん―――」


―――ピッ



 アキラはどんより濁った眼で中空を眺めながら電話を切った。

 普段ならば買い物をドタキャンした負い目もあり、アホ過ぎる妹の会話にも付き合ってあげるのだが、今日はそんな気分には成れなかった。

 昼間の出来事が頭を過ぎる。静流の台詞はもっともだったが、それでも納得したつもりは無い。

 やむを得ない事情と措置なのだとしても、それでも自分たちはやっぱり人間なのだ。それを諦めたら終わってしまうような気がした。



「あーあ。 今日はバタバタしてるなあ……」



 アキラは目を細めて、帰ってきてからの事を思い返す。

 事務所に戻り、アリスに請われるままTVゲームに興じていたら、気付いた時にはすっかり外は暗くなっていて、カレーを作る約束をしていた事を思い出して事務所の簡易キッチンに立った。

 当初は、静流が食べる分だけ作ってさっさと家に帰ろうと思っていたアキラだが、みんな大好きカレーの威力は凄まじく、そわそわとキッチンを覗きに来ては、自分の好みを表明して去っていく残念な社員達。

 「みんなの分作りましょうか?」と気を使ったのが良くなかった。

 いい歳した大人が顔を綻ばせながら、「手作りのカレーは久しぶりだ」なんて言うものだからアキラは退くに引けなくなってしまった。幸か不幸か材料は十分残っている。


 誰が言うでも無く、安斎が嬉しそうに食器を洗いはじめ、楓がリビングスペースを鼻歌を歌いながら片付けだす。アリスがご機嫌で洗った食器をちゃぶ台に持っていき、ルルがどこから持ってきたのか全くわからない米を研いで4号炊きのジャーを二回転させた。

 静流だけが何もせず、歌番組に出て来た『萌えキュン』に釘付けだったので、「働かない人には食べさせません」宣言の下、トイレ掃除に向かわせた。


 ジャーがデデンと置かれたちゃぶ台を囲んで、全員がカレー様の登場を今か今かと待ち侘びている光景は微笑ましくもあり、残念でもあった。

 カレー満載の鍋をちゃぶ台の真ん中に誇らしげに置くと控えめな歓声が上がる。どこの一家団欒だこれは。


 とはいっても、幸せな家庭で育ったアキラは、このほっこりする空気が嫌いではない。何となく流されて和気藹々とカレーを食べ終わったら、時計の針は9時を回っていた。

 メビウスに定時なんていう常識染みたルールは存在しないが、それでも普段ならばみんな帰っている時間である。

 帰りは家まで送ってくれると言っていた静流を見ると、立ったまま左手を腰に当て、それはそれは良い笑顔で豪快な一気飲みを披露していた。飲酒である。送ってくれるわけが無い。


「仮眠室もあるし泊まっていったらどうかねアキラ君? その方がアリスも喜ぶ」


 クイっと袖を引かれたので、そちらに目をやると、目をキラキラ輝かせながらアキラを見上げる金髪幼女。


「泊まっていけアキラ。気を使う必要はないぞ」

「静流さんはちょっと気を使ってください。あとパンツ見えてますからね!」

「ひゃっひゃっひゃっ」


 完全に出来上がってる静流を軽く睨みながら、外泊を告げるため電話をかけた。

 良い意味で放任主義な父親に快い返事を貰ったところで冒頭の騒ぎだ。

 父親から電話を奪い取って半狂乱になる妹の姿を想像して泣きたくなる。妹の座右の銘は『近親婚超上等』だ。父親はもっと泣きたいに違いない。

 もっとも、母親は微妙に応援してる節があるのでダメだ。妹は母の血を引いている。


 アリスが嬉しそうにアキラの腕を引っ張り、リビングの奥にある彼女のデスクに連れて行った。

 ありとあらゆる改造が施された鬼スペックのPCが4台。ディスプレイが6台という要塞のようなデスクの前で、アリスに椅子を引かれて大人しく座るアキラ。

 するとアリスはパタパタとリビングスペースに走り、テレビの横に置かれたランドセルを「えいやっ」と抱えて戻ってくる。


 満面の笑みで開けられたランドセルに隙間なくギッチリ詰められていたのは、色とりどりのアニメの円盤である。

 今や記録媒体の9割以上がネットにあるというのに、この業界だけは今も昔も円盤が大好きだ。非合理極まりないと思うのはそれほどサブカルに興味が無いアキラの弁であって、現実は非合理に溢れている。少なくとも、今こうして目を輝かせる幼女相手に説く話で無い事だけは間違いない。


 チラリとリビングスペースに目を向けると、若干、季節的にフライング気味な心霊番組に息を呑む楓と静流。あれほど製作者の思惑通りのリアクションをする大人もそうそういない。

 とにかく、テレビが占拠されているので、ここで一緒にアニメを見ようと言う事なのだろう。


「アリスは見たいアニメは無いの?」


 特に無いから選んでよ! とばかりにランドセルをグイグイ押し付けてくるアリス。

 アキラは苦笑しながら、適当に円盤が入ったパッケージを引き抜いた。

 パッケージには「魔法少女☆大戦!」の文字。

 魔法のような能力に目覚めた少女アリスが、やはりそれでも在り来たりな『魔法少女』に憧れを抱くのは、きっと物語というのが魔法だけでは無い事の証左でもあった。

 人は、笑い、泣いて、それでも困難を乗り越えていく存在に憧れや共感を抱くのであり、絶対的な力など必ずしも必要ではないのだ。


 早く! 早く! と急かすアリスの頭を撫でながら、外部デバイスに円盤を挿入する。

 可愛らしく派手で、さりげなくエッチなオープニングが終わり、テンションの高いアニメ声でサブタイトルが読み上げられ、物語が始まる。

 どうやら巻数的にいきなり佳境なのか、開始5分も経たないうちに、二人の少女が草木一つ無い荒野で対峙していた。


 色々といきなり過ぎて全く世界観が掴めないのだが、アキラの膝に座るアリスが拳を握りしめ、ウンウン唸りながら夢中になっているのを見ると、きっといいところに違いない。

 2人の少女の内、1人は教科書通りの魔法少女で髪の毛はピンク。幼女体型にピッタリする感じのフリフリコスチュームで、『まじかるステッキ』的な棒を相手に向かって振りかざし、顔の半分以上を占める大きな瞳をキリリと引き締めている。


 もう一人の黒髪の少女は、『少女』と呼ぶにはちょっと大人な体型の女の子で、ゴスロリっぽい黒い衣装をまとい、冷たく怜悧な瞳を細めている。


『もう、戦うしか、道は無いというのね……』

『最初からこうなる運命だったんだ』


 とうとう魔法戦闘が始まるらしい。

 ピンクの子が『まじかるステッキ』を構えたところで、アキラは少しだけ背筋を正す。

 そして黒い子が、人が持つには巨大すぎるガトリングを両手に一ずつぶら下げたところで、猛烈に嫌な予感に襲われた。


『行くぞ!』


 黒い子がいきなりぶっ放し始める。やけに本格的な重低音と共にばら撒かれる鉛玉。やはりバリア的な展開が待っているのかと思いきや、非常にリアルかつエグイ描写で肉片になっていくピンクの子。

 戦闘開始から5秒で斃れるピンクの少女。悲し気に少女を見下ろす黒い子。


 魔法が介在する暇も無く、現代兵器で魔法少女を瞬殺した黒い子に現実の厳しさを思い知らされた気さえする。砲身から立ち上る白い蒸気がシュール過ぎて言葉も出なかった。


 すると突然、数百発の弾丸をぶち込まれて、なおしぶとく生きていたピンクの子が、呻き声を上げ、手を痙攣させながら『まじかるステッキ』を黒い子に向け、息も絶え絶えに呪文を唱えた。


『エクスプロージョン……』




―――ぱーん





 爆竹のような安っぽい音と共に黒い少女が爆散。

 木っ端みじんになって、べちゃべちゃ音を立てながら血が降り注ぐ。

 そして、飛び散った女の子二人分の肉片意外には何も無い荒野に、ビュオ~ と空しく風が吹く。


 すると突然、画面に浮かんだのは白抜きの可愛らしいフォントで5文字




『『『つづくっ!』』』



「続かないでしょっ!?」

「ふんがー!」


 監督一体何やってんの。

 嫌な予感の遥か斜め上を行った超展開に止める間もなかったが、アキラはハッと我に返る。

 アリスに見せてはいけない類のものだった。教育に悪すぎる。昼間に見たのも大概だったが、これは輪をかけて酷い。アキラは急いで動画を落とす。

 早速ランドセルの検閲をはじめると、パッケージを見る限り『それらしい』香りをプンプン撒き散らす逸品ばかり。

 興奮してガトリングごっこを始めたアリスを見てがっくりと項垂れる。アリス、魔法じゃなくてソッチにいったか……


 溜息を吐きながら、何の気無しに動画が落とされたディスプレイに目をやると、何かミミズがのたくったような文字と、文字化けだらけのウェブサイトが開かれていた。


「?? なんだコレ? 文字化け? それにしてはアラビア文字っぽいのがあるし……」


 文字化けしているにしては、サイトデザインが崩れずに綺麗なままで、強い違和感を覚える。

 アリスが何か変なサイトを開いてしまったのだろうか、それか、この天才幼女がまた突飛も無い事を始めてしまったのだろうか。


 軽く首を捻りながら、アリスに聞いてみるかと口を開きかけた時、リビングスペースの方から声が上がった。


「アキラ~ 酒切らした~ 酒買ってきてくれ~ ウィッ」

「もーやーしー もやしかっれこーいっ!」

「私はチューハイと…… 柿ピーを買ってきてくれたまえっ!」



 ダメな大人の中でも結構ダメな方の大人達が、ビール缶片手に出来上がっていた。


「ここ、一応会社なんですけど……」






――――――――――







「それで、静流さんはビールで、支部長はチューハイと柿ピー、楓さんはどうするんです?」

「もやしら! もやしかっれこーい!」

「ほんと買ってきますからね! 食べてくださいよ!?」

 

 もう何を言っているのよくわからないが、これ以上は話しても無駄ということははっきりしている。

 そう諦めたアキラが外に行こうとした時、片づけをしていたルルが、綺麗な糸目をさらに細めて心配そうに手を頬に充てる。

「男の子で高校生と言っても夜の街、大丈夫でしょうか……?」


 アキラは感動すら覚えた。さすがメビウスの良心、天田ルルである。そこのカーペットの上で寝転がりながら裂きイカを旨そうに頬張るダメ大人に300回くらい聞かせてやりたいくらい思いやりに溢れたセリフだ。

 すると、アルコールでやられた頭でも少しくらいは良心が残っていたのか、楓がグリンと首を回し、アキラに向かって声を上げる。


「あらしらいっれあれまひょうらぁ?」

 

 タ行とカ行が全く発音できてない時点で終わってるので無視なのだが、夜の繁華街を一人で歩く事が少しだけ心細いというのも偽らざる本心だった。下町の繁華街は、飲み屋から風俗店までガラの悪い人が多いからだ。


 しかし、静流はめんどくさいから却下だ。さすがに支部長にお願いするのは失礼な気がする。アリスはソファーでウトウトしてるし、ルルさんには片づけをしてもらわないと買い物から帰ってきてもこき使われてしまうだろう。一人で行くしかない。


「アキラ~ ハーゲンなんたら買ってきていいぞ!」


 お金を出したのは静流ではない。安斎だ。

 私がお金出したった的発言に、さすがに思うところがあったのか、安斎が鼻息荒く抗議の声を上げる。


「崇岬君っ 口を慎みたまえっ! 私は剥げてない! はーげん何たらとは何事だ!? おでこが広いのは学生時代からなんだ! 変な想像はよしてくれたまえっ! そうだろうアキラ君!?」


 30代の酔っ払い男が凄い勢いで髪を掻き上げ、脂の滲んだ額を突き付けて来た時、どうやって返すのが正しいのだろうか。


「ゲーハーだな。ゲーハーに効く酒買ってこいアキラ。生えてくる系だ」


 もうどうしようもない。

 宴会会場と化した職場からアキラは無言でコンビニに向かった。外に出ると夜風がまだ肌寒い。浜通りとはいえ、6月の夜気はまだ春と夏とを行ったり来たりしている。


 アキラはふうっと息を吐いて左右を見渡した。この事務所は、駅からそれほど遠いわけではないが近くも無い。

 コンビニは駅前に行くか、住宅街への帰り道にあることが多く、中途半端な立地にある事務所からは少し歩かなければならないのだ。

 

「駅前に行くかな……」


 アキラは背の低いネオンに染め上げられた下町繁華街を歩きながら、今は亡き祖母が「昔は一番近いコンビニまで車で20分だったんだよ」と目を細めていた事を思い出した。

 今や廃都東京の避難者が「上野みたい」と評する久ノ浜が、そんな辺鄙な田舎だったなんて想像も出来ないが、この辺もきっと似たようなものなのだと思う。

 

 以前来た時の記憶を頼りに、多少迷いながら道を行く。

 古くからある場末の飲み屋と煌びやかなネオンが同居した不思議な通りを抜け、大手居酒屋の看板を左に曲がり、演歌に出てきそうなスナックが立ち並ぶ細道。そう、確かこの先にある老舗の蕎麦屋の斜向かいに―――


「あれ? 牛丼屋になってる!?」


 下町の新陳代謝は凄まじい。少し見ないだけで街はすぐにその姿を変えていく。テレビで偉い人が磐城はまだ成長続ける中学生のような街だと言っていたが、全く以てその通りなのだ。

 

 元々、方向音痴の気があるアキラはこういう時はすぐ端末に頼る事にしている。ビッグアイにもリンクしているGPSスイッチを迷わずONにして、慣れた手つきで目的地を検索する。


「ええと…… ここの最寄のコンビニは……あっちか」


 現代のナビシステムは高性能で、ラーメンが好きだとか、甘いものを探しているとか、そういう設定をしたらそれとなく興味が引かれる店舗が目に入る様なルートを案内してくれる。

 女性が安心して歩ける道をという設定をすれば、街灯と人通りが多い道を選択肢に入れてくれたりもするのだが、生憎アキラはそういうものに無頓着だったし、時間の浪費を好まなかった。

 結果として端末に指示する道は、シンプルで合理的な最短ルート。目の前にはやけに細く心細い裏道が続いている。




 車一台通るのがやっとな裏道にはもちろん歩道と車道なんていう区別は無い。

両サイドには如何わしいネオンが立ち並び、店の扉に合わせる様に等間隔で客引きの黒服がタバコをふかしながら待ち構えていた。


 アキラは彼らと目を合わせないよう気を付けるが、実際はその必要は無い。彼等も一応その道でメシを喰っているわけで、金を持って無さそうな高校生に声をかけるような暇人はいない。

 

「ちょっと怖いなあ……」


 如何わしい細道から更に細くなった道を早足で歩きながら、ふと斜め上のギラギラ輝く看板に目を向けると、どぎついピンクとオレンジの電球に囲まれた不穏な文言が目についた。

 思わず立ち止まって目をぱちくり。丸っこく太可愛らしいフォントで元気いっぱいに描かれた漢字四文字。


『不法入国』


 国家にケンカを売ってるとしか思えない店名が不謹慎すぎる。これほどコンセプトが明確な店はそうそうお目にかかることはできまい。

 もっとも、インパクト一点突破の際どい店名ではあるが、実際に働いている者に不法就労者はいても不法入国者はいないだろう。いやいるはずがない。


 実際問題として現代日本には数多くの不法就労者が存在する。毎年少なくない数の不法就労者が摘発され処罰されるニュースは流れるものだが、不法入国者が不法就労を行う事は考えにくいと言わざるを得ない。リスクが高すぎるのだ。




 それは21年前、第二次大東亜戦争のはじまり。

 台湾事変とほぼ同時に発生した関東大震災により首都機能がストップし、人々が大混乱のまま火と水に呑まれ、夜空に悲鳴と慟哭が木霊していた時

 最初からこれを狙っていたかのようなタイミングで、数年間、長ければ数十年もの間、民間人として雌伏していた朝鮮人民連合、当時で言う北朝鮮の工作員が一斉に武装蜂起したのだ。

 

 国会はもちろん、ほとんどの行政機構はマヒし、国体としての機能が完全に失われ、対外的意思決定もままならなくなった状況。人が死に、そしてまた死んでいく。これすらも始まりに過ぎなかったということを、一体誰が想像できただろうか。

 次なる悪夢は、当時一つの国だった中国による突然の宣言『日本に住む同朋の生命と安全を保全する』だった。

 

 宣言と同時に人民解放軍が一方的に日本領海に侵入。

 交戦許可など出るはずもない極限状態のまま、九州北部海上で海上自衛隊が自衛のための戦闘を開始したのは、既に数隻の艦が沈められた後だったという。


 世界各国が『先手』を取る事に全てを注ぎ、そのための兵装・兵科同士のぶつかり合いであるを近代戦闘において、あえて先手を譲るという専守防衛は、誇りと勇気に満ち溢れた美しい主義に聞こえても、現場で戦う者にとってはケツ拭き紙の方がまだ役に立つ。

 国民の自尊心を満たす空虚な虚像の代償はあまりにも甚大で、そして致命的だった。

 

 数度の海戦を経て、九州南部は次々と押し寄せる人民解放軍により制圧。配備されたF-2は実に3分の1が津波に流され、想定していた空対艦戦闘も防衛ガイドラインも何の役に立たないまま、多くの艦船が東京へと舵を切る。



 日本は終わりだ。国は何をやっている。自衛隊はどこにいる。



 ネットではそんな絶望で溢れた。そして誰もが心のどこかで思っていた。

 アメリカがきっと何とかしてくれる。


 震災は自然現象だ。自然災害に付け入り本気で国を乗っ取ろうなどという馬鹿げたことを世界が許すはずが無い。きっと何とかなる。これ以上の最悪なんて有り得ない。そうだ、これは悪夢だ。一杯飲んで寝ればきっと明日には全てが上手くいく。だって我が国は憲法9条を貫いてきた平和国家なんだから。


 

 他人の精神構造は自分と同じだと信じてやまない、愛すべき敗北者たちの国に、終幕はあまりにも突然やってきた。

 未だに『正体不明』アンノウンとされる、光り輝く7つの悪夢が

 現実逃避に溢れる電網と、虫食いだらけの防衛網を簡単に切り裂き、超超高度から首都上空に襲い掛かったのだ。


 阿鼻叫喚


 無数の命と財産と精神を一瞬にして崩壊させた光槍により東京は人民解放軍をも巻き込んで灰塵に帰し、大量の超高濃度放射性物質と、そして激しい憎しみだけをその場に残し、この日、経済大国日本の首都東京は、地図から消えたのだ。


 善意だけで沈没したドロ船に手を差し伸べる者などそうそういない。伸ばした手が汚れ、それが元で手が腐り落ちるかも知れない状況ともなればなおのこと。

 無条件で命をかけてくれたのは同盟国であるアメリカではなく、どちらかというと日本が冷遇してきた国、フィリピンだけ。

 

 生き残った都民は、徒歩で地獄からの脱出を余儀なくされた。そして命からがら逃げ延びた先で待ち受けていたのは、無慈悲な放射能差別であった。


 震災で、テロで、核で、ガンで、そして自らの手で。

 人は、死んだ。


 

 人々は知っている。

 なぜ東京は滅びなければならなかったのか。なぜ数百万もの命が失われたのか。

 その契機となった事実を、蜜よりも甘い理想主義が招いた悲劇を

 人々は知っているのだ。


 

 不法入国者は無条件で懲役だ。犯罪を犯せば問答無用で死罪だ。

 憲法など関係無い。最高意思決定権者である国民がそれを望んだ。


 そんな彼等を雇う勇者はヤクザでも中々いない。不法入国者である事を知って職を与えたら、雇用側も幇助で投獄だ。

 中国の内乱と半島の紛争、流れてくる難民は徹底的な拒絶に遭い、そしてそのほぼ全てが地下へと落ちていく。そうして出来上がった負の連鎖がまた国民の態度を硬化させていくのだ。



「なんかのシチュエーションプレイなのかなあ……」



 一見すれば不謹慎極まりない店名も、下町特有の寛容さで許容されているのだろうか。猥雑とした夜の盛り場では、攻撃的なブラックジョークですら娯楽に置き換えてしまうところが節操無しの日本人らしいのかも知れない。


 アキラは足を止め、そんな中学校で習う近代史を頭の中で復習していたのだが、買い物に来たことを思い出し、再び歩き始めた。


「早くしないと静流さんうるさいから……」


 ハアッ とため息を一つ。

 そうして、客引きすらも途切れた裏道を早足に歩いていた時、


「――っ! ~? ~~~っ!!」


 突如、くぐもった呻き声が耳に飛び込んでくる。

 そして、肉が肉を打つ、不穏な鈍い音も。


 普通ならば通り過ぎる。聞かなかったし見なかったというのが、危険をやり過ごすための一番の秘訣である。

 ここは夜の繁華街だ。違法スレスレの店が立ち並ぶ裏道だ。何があってもおかしくは無い。少年の綺麗な精神とは最も乖離した理屈で回る爛れた世界なのだ。

 目を逸らし、耳を塞ぐのが間違いなく正しい。いや、そうするべきだ。

 誰もがそう思うし、そうするだろう。


 だが少年はアキラだった。

 両親の愛情をいっぱいに受けて育ち、人が傷つくことに耐えられない、優しい少年だった。人の痛みに共感してしまう悲しい少年だった。


 アキラは緊張に頬をヒクつかせながら恐る恐る声の出所である路地裏に近づいて行く。そして息を殺してそうっと覗き込んだ先、薄汚い店舗の非常口とゴミ箱だけが並んでいるような、場末も場末の小道で。




「金が用意出来無ぇだと? テメェわかってンだろうなっ!!」

「――ヤメっ ヤメてクダサ――― アアッ!!」




 女が男に殴られていた。

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