第21話 2章 人であるために
まるで牢獄のような部屋だ。
会社員が昼休みに席を立ち始める、そんな時間帯にも関わらず、一切光が入ってこないこの部屋には当然の如く窓が無い。天井に吊るされた年代物のランプ、そして部屋の隅で昏く燃える炭だけがこの部屋の光源。
そして酷い臭いだ。
勿論、香水を噴きすぎた年増の匂いとも違うし、パチンコ屋から不機嫌そうに出てくる、タバコの煙が染み込んだ壮年の匂いとも違う。
ガスが漏れているとか、ゴミ屋敷のすえた臭いとか、そういう種類のものではない。
それを表現するのならば、いや、回りくどい表現など不用だろう。
糞尿。臓物。そして肉が―――
「うううううぁぁぅぅぅぅぁ~~~~~っ!!!!!」
肉が焼ける臭い。
オレンジ色に揺らめく部屋の床、そして壁。まだら模様にそして不自然に残るシミは一体何のものだろうか。
今この瞬間、ゆっくりと床を侵食していく液体は何だろうか。
「ふぐぅ、うふぅううっ ふうぅっ」
男がいた。
猿ぐつわ越しに、くぐもった悲鳴を上げて、芋虫のように体を捩らせている。
足を縛られ、両手を後ろで拘束され、部屋に伸びる影から逃れようと必死もがく。
剥き出しになった上半身は至る所が赤黒く炭化し、下半身は股がぐっしょりと濡れ、わずかな水たまりの上を転がるがびに、シミが広がっていく。
「お前たちは、悪魔だ……」
もう一人の男が眼鏡を押し上げながら、吐き捨てる様に言った。
何の感情も灯さない表情で床をのた打ち回る男を見下ろし、何の起伏も無い声音で呟く
「悪魔は、殺さなねばならない……」
一斗缶に昏く爆ぜる炭の赤い熱に照り返された男の横顔が、ぼんやりと薄暗い部屋に浮かび上がる。
そして一斗缶に突っ込まれていた鉄の棒が、乾いた音を立てながらゆっくりと引き抜かれた。
能面のようだった眼鏡の男の顔に深く醜い皺が刻み込まれる。
「ふっ ふぅぅっ! ううううぅぅっ!!」
床に転がる男が、涙と鼻水でグチャグチャになった顔を恐怖に引き攣らせ、必死に何かを叫ぼうとする。
イヤイヤと首を振り、体を硬直させ、懇願するように歪な笑みすら浮かべる様子を、眼鏡男は冷たく見下ろしながらゆっくりと近づいて行く。
―――ジュゥゥゥーーーッ
赤々と不気味に光る鉄棒を押し付けられた男が悲鳴にならない悲鳴を上げ、エビ反りになって痙攣した。
股間から湯気が立ち上り、新たな異臭が部屋に立ち込める。
灼熱の棒はまるで撫でる様に男の上半身を這い、肉を焦がす音と共に首元へと近づいていく。そしてそのまま頬のあたりで猿ぐつわを焼き切った。
猿ぐつわが外れ、掻き込むように空気を吸い込んで咽た男が、甲高い叫び声を上げた。
「やめっ やめて、やめてくれっ! なんでっ ごんななごどぉっ!」
眼鏡の男の瞳が、昏い喜悦に歪む。
パカリと開いた口からは、真っ赤に濡れる舌がチロチロと剥き出され、乾いた唇をゾロリと舐め上げる。
頬は歓喜に打ち震えてヒクヒクと痙攣し、獣じみた興奮が体中からにじみ出ている。
凶相であった。
「お前たちは、存在してはならない…… 正しく使われない
「わ、私に何ができるっ! こんなちっぽけな能力で何も出来やしない! そんな力は持っていないんだ!」
「それでもお前は、能力者だ……」
「やめっやめてくれ、何をするつもりなんだ! カネ、金ならくれてやるっ! これからだってたんまり儲けてやれるっ! だから…… だからやめ―――ぶぺぇぇぴゅびっ」
口の中に突っ込まれた鉄の棒を、呆然と見遣る男。まるでタバコをふかした様な煙が口と鼻腔から溢れ出た。
叫びは無い。灼熱の棒に肉が張り付き気道が確保出来ないからだ。
男が痙攣を始め、それはやがて大きく緩慢なものになっていく。そしてそれが次第に緩やかになっていくと、男は目を見開いたままゴトリと床を慣らした。
死んだ。
失血死ではない。ショック死でも無い。窒息死だ。
吐き出されない空気の圧力で鼓膜を損傷し、耳からタラリと血が流れ出す。脳の制限を振り切って締められた筋肉が、汚物を絞り出した。
オレンジ色に揺らめく牢獄に沈黙が落ちる。
肉が焼け焦げる臭いと、汚物の臭気を充満させながら。
そして眼鏡の男は濁った瞳をグルグル回しながらボソリと呟く
「まだだ。もっと、もっと殺さなければ…… 正義のために……っ」
狂った男の狂った台詞は、誰に届く事もなく薄闇に消えた。
―――ここは
新都磐城。
21年前の核戦争と、16年前の無血統治を経て、更なる経済的成長を遂げた日本の首都。
時は2029年。
さして大きい技術革新も無く、緩やかに技術が進歩したもう一つの未来。
21世紀初頭に充満していた焼け焦げた閉塞感に代わって、この国に漂うのは歪な熱気。
権利と義務、平和と戦争、平等と差別がほどなく融け合った最果ての時代に
最果ての物語は、幕を明けるのだ。
□□□□□□□
日曜日。アキラは電車に揺られていた。お世辞抜きに可愛い女の子に手を握られながら。繋ぎ方は勿論恋人繋ぎだ。
傍から見たら、少年少女。青臭くも光り輝く10代のカップルである。まごう事無きデートである。
しかしアキラの瞳は虚ろだった。
「ちょ、ちょっと千夏っ! 手ぇ離せって! 近いから! 兄妹の距離じゃないから! まるでデートじゃないか!?」
そして少女の瞳は光り輝いていた。
「何言ってんの? デートでしょ!? こんなに可愛い妹がお兄ちゃんとお出かけ。デートしかないっしょ!」
兄妹である。
遺伝子情を分け合った完全無欠の兄妹である。
しかし悲しいかな、少女の方にその認識は全く無かった。
「つーか今日のデートは最後まで行くから。『ホ』で始まって『ル』で終わるとこ行くつもりだから」
「お前ホント頭おかしい! 兄妹でそんなの有り得ないよ!」
「兄妹って言っても他人。他人ならば惹かれる事もある。ゆえにノープロブレム。この世には男と女しかいないって偉い人も言ってた!」
「それ昨日不倫でスクープされた俳優さんの妄言だからっ!」
支離滅裂甚だしい。
ネタを明かせば、来週の妹の誕生日のプレゼントを買いに妹と買い物に向かっているのだ。
プレゼントを受け取る側が同行している事に、アキラは強い違和感を感じているし、アキラを連れ出したのも妹なので色々突っ込みどころ満載だが、それでも本日の目的は買い物だ。デートでも何でも無いし、やましい事など一つも無い。
だがしかし、それでも世の中は女性で回っているのだ。この電車内がそれを如実に物語っている。
右隣の吊革につかまっている金髪の若者が苛立たしげに舌打ちを一つ。幾分羨ましげな視線でアキラを睨み付けた。
左隣の吊革につかまる休日出勤のお父さんが、何やら慌てながら携帯端末をいじり倒している。チラリと画面に目をやると、「ウチは大丈夫だよな!?」的なメッセージを高速で組み上げつつあった。
正面を見ると、ピンク色に染まった頬に手を当てキラキラした視線を千夏に向ける中学生。
すぐ脇に座っているビシッとスーツと眼鏡でキメた女性は、なにやらノートパソコンを広げて残像が見えるスピードでキーボードを叩いている。小鼻を膨らませ鼻息を荒くしているのは気のせいではないだろう。
アキラが一人項垂れていると、電車が駅に入って止まる。
目的地まであと3駅だ。
ドアが閉まりまた電車が走り出すと、アキラは深く深くため息を吐いた。
「はあ…… こんなところ、クラスメイトに見られたらどうなるか…… まあ学園からは距離があるし帰省中にそんな事無いだろうけ―――」
その時、アキラの肩がポンポンと叩かれる。
そして、何だろうと思って振り返ったアキラがビシリと固まった。
「よ、よお、夏目。こんなところで……」
「か、鏑木君っ!」
鏑木と呼ばれた少年は、友達に話しかける自然な気安さでアキラの顔を見て、スウっと視線を下に落とす。
ガッツリ握られた手を確認してから、またスウッと視線をアキラの顔に戻した。その顔に先程の気安さは毛ほども残っていない。
「異端者が……っ!」
「違うんだ鏑木君っ! こいつは僕のいもう―――」
「彼女デースっ!」
千夏が未発達な胸をアキラの腕に押し付ける様にギュッと抱き着く。
絶望的沈黙が渦巻く中、電車の走行音だけが空しく響く。
―――ええ~ 次は~ 草野~ 草野にぃ~ 止まりまぁ~す
電車のドアがエアーを噴きながら開かれる。
ホームに降り立った鏑木は、まるで道端の汚物を見る様な完全に光彩の抜け落ちた瞳で、アキラを見つめると、ボソリと呟いた。
「週明け、異端審問会が楽しみだな。薄汚い裏切者め」
「か、鏑木君っ 誤解なんだ! ただでさえ御門さんの事で大変なんだ! お願いだからやめ―――」
―――プシュー
無情にもドアは閉ざされ、鏑木はアキラを振り返る事もせずホームを歩く。
アキラが伸ばした右手が空しく中を彷徨った。
「ま、まずい……、簀巻きはもう、イヤだ……っ」
「ねえ、お兄ちゃん……」
「絶対有罪だ…… 簀巻きで吊るされるんだ…… 額に「肉」って書かれるかも知れない……」
「ねえ、お兄ちゃんってば」
虚ろな目でブツブツ呟いていた兄の肩を、妹が優しく叩く。
混乱を来していた兄は、情けない表情で妹を見る。そしてキュッとなった。下半身が。
「御門さんって…………誰?」
笑顔である。
男ならば誰もが振り向く様な、可憐で慈愛に満ちた笑顔である。
兄であるアキラから見ても千夏は美少女だ。頭脳明晰、スポーツ万能、容姿端麗、時と場所が違えば三冠王も夢ではないこの妹は、非常にモテる。
この一年、子供から大人へと花開き始めた青い蕾は、身内でなければアキラだって魅了されるに違いないほどの女の子なのだ。
そんな女の子が浮かべる満面の笑みが人目を引か無いはずが無い。
右隣りの金髪のお兄さんがポッと頬を染めた。左のお父さんが心持ち腰をかがめた。正面の中学生が恥ずかしげにもじもじし始め、椅子に座っているお姉さんの興奮も最高潮に達した。
「い、いや、せ、センパイ…… そう! 僕の学校の先輩だよっ!」
焦りに満ちたアキラの弁明。これに対する千夏の返答はこうだ。
「……………………へえ」
超重量級の相槌である。
アキラの顔が蒼白になった。
何故なら、アキラは知っているからだ。天使のような微笑みの奥、ヌラヌラと光る眼が全く笑っていないことを。
「お兄ちゃん、帰ったら…… わかって―――」
その時、唐突にアキラの端末がメールの着信を告げる。
天啓とばかりに慌ててポケットから端末を取り出したアキラは、とりあえず端末をマナーモードに設定したあと、抗議する妹を宥めながら縋りつくようにメッセージを開く。
そして、まるで神の救いを見た敬虔な信徒のように顔を輝かせた。
「千夏ごめん! 仕事が入ったみたいだから買い物はまた今度っ!」
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