第9話 藤枝守 2029年 ④
覚えている一番古い記憶は、知らない男の上でよがる母の顔だった。俺が寝ている横で腰を振る母の嬌声が耳にこびり付いて離れない。
幼稚園入園一週間くらいだろうか、優しい先生が俺の顔に出来たアザの事をしつこく聞いてきた。次の日から俺は家から出してもらえなくなった。義父はあまり顔を殴らなくなり、変わりに腹を蹴るようになった。幼稚園はそれ以来行って無いような気がする。
小学二年生の時、住んでいたアパートのベランダの手すりから、身を乗り出して下を覗き込んでいたら母に突き落とされた。三階だった。奇跡的に軽傷で家に戻ってきた俺を見て、母は舌打ちをした。
小学五年の時、父母参観に来て欲しいと頼んだら、母に「死ね」と言われた。二人目の義父は無言で俺の胸を殴った。肋骨が二本折れた。
小学六年の時、写生大会で描いた絵が区で金賞を取った。そのことを伝えると母は「死ね」と言った。義父は無言で俺の腕を蹴った。幸い骨は折れなかった。
中学二年の時、女の子の友達が出来た。何かの拍子に彼女が家に遊びに来た、ジュースを買いに行って家に戻ると、義父がその子を犯していた。義父は逮捕され、それ以来俺は学校で苛烈ないじめに遭った。母は「お前のせいだ」と包丁を振り回した。
高校には行かなかった。アルバイトをして給料は母が職場に取りに行った。そんな事が続いたある日
東京に核が落ちた。
母を連れて逃げるためにバイト先から急いで家に帰ると、後ろから母に刺された。母は保険金が欲しいと呟いた。
東京に人が住めなくなったその日、俺は初めて人を殺した。
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一九歳の夏、能力に目覚めた。空間の一部を二次元的に断絶させる能力だ。
それまで苦労して、盗んで、奪って生きてきたが、それ以来、楽に盗んで奪えるようになった。
二一歳の春、軽い気持ちで盗みに入った先で、公安零課の鍋島に捕まった。一方的にボコられ、頭を覗かれた後、俺を待っていたのは、むさ苦しい顔を涙に濡らした汗臭いマッチョの抱擁だった。鍋島は「俺が愛してやる!」と言った。俺は「ゲイか?」と言った。鍋島は俺を再びブン殴った。
次の日から鍋島の下で働き始めた。
働き始めてから三回目の作戦中、「愛してやる」と言ってくれた男が殺された。
その日、俺はまた人を殺した。
それ以来、凶悪犯罪を犯した能力者を片っ端から殺した。命乞いをする者も、投降する者も全て殺した。
少しずつ、本当に少しずつ、俺の心は擦り減っていった。
偶然だった。そうとしか形容ができない。
凶悪犯罪者ばかりを追い、「猟犬」と忌み嫌われ、この世の全てを諦めた俺が、偶然、未登録者を発見した。
規則によると俺がある程度の期間、教育や監視をしなければならない。
彼の名は山中孝雄、面白くも何ともない名前のこの男は、マジシャンを目指す低レベルのサイキックだった。
彼は極めて善良な男だった。タネという逃げ道を作りさえすれば、マジックに能力を使ってよいと、許可が下りるほどの善良な人間だった。
そして一週間に一度の面談、初めて彼の家に行った時、俺は出会ってしまう。
「兄がいつもお世話になっております」
そう言って彼女はペコリとお辞儀をした。
山中桃子
愛くるしい童顔をくしゃくしゃにして笑う、可愛らしい女性だった。
兄の夢を健気に支える、笑顔が少し残念な明るい女性だった。
その日、出会ったその日。
猟犬と疎まれ、殺人鬼と蔑まれた俺が、恥も何もかなぐり捨てて、
土下座して求婚した。
何故だかは今でも分からない。この人しかいないと思った。この人に愛してもらわなければ死んでしまうと思った。
桃子は冗談だと思ったらしく、残念な笑顔で大爆笑していた。
孝雄はとりあえず俺をブン殴った。
それはそうだろう、彼女は大事な妹で俺は殺人鬼だ。
それでも俺は玄関に頭を擦りつけて孝雄に懇願した。
俺は本気なんだと叫んだ。
孝雄は俺を立たせると、もう一回本気でブン殴った。
次の面談が楽しみでしょうがなかった。
次の面談の時、桃子は孝雄に外出させられていた。
面談はしなかった。絶望に打ちひしがれ、よろめきながら帰った。
それから毎週、孝雄に土下座をした。会わせて下さいと、話をさせてくださいと、孝雄の足に縋りついて涙を流した。
義務の期間が終わる最後の面談の日、根負けした孝雄は桃子に会わせてくれた。そして俺は再度求婚した。
友達からで良ければと残念な笑顔で言われた。
その日、俺は女性を口説くためのハウツー本を7冊買った。
そして4カ月後、俺達は初めて肌を合わせた。
桃子は「ふふふ……」とごまかしたが、俺は初めてだった。
俺は「今まで人を愛したことがなかったんだ」と言った。
桃子は「ずっと愛されたかったんだね」と俺の頭を撫でた。俺は桃子の胸で少し泣いた。
さらに三カ月後、俺たちは結婚した。
俺が二六歳 桃子が二四歳だった。
しあわせだった。俺は世界で一番しあわせな人間だと何の迷い無く断言できた。
仕事は裏方に徹するようになっていた。死ぬのが怖かったし、殺すのも怖かった。
そして結婚して一年、世界で一番幸せだった俺に、さらに大きな幸せが降りかかる。
子供が生まれた。
桃子は、やったぜというVサインと残念な笑顔で俺を迎えた。
初めての我が子を見た瞬間、俺は泣き崩れた。
全身全霊でこの子を愛すると誓った。命をかけてこの子を守ると決めた。
生まれるまでとうとう決まらなかった娘の名前を考えるのに、仕事そっちのけで一週間悩み倒した。それでも決められない俺に業を煮やした桃子がさっさと決めた。
「桜」 藤枝 桜 素晴らしい名前だ。
仕事はさらに裏方に徹するようになった。残業は全て蹴った。
一分一秒でも早く帰って桜を眺めたかった。
俺のデスクには、至る所に桃子と桜の写真が置かれ、敷かれ、貼られていた。
同僚は、かつて『猟犬』と恐れられた俺の不抜けっぷりを苦笑と共に受け入れた。
一年が過ぎたころ、初めて桜が「ぱぁ~ぱ」と言った。
俺は悶え苦しんだのち、桃子に自慢した。桃子は意地悪そうに「『まま』の方が先だったけどね」と言った。
俺は一人凹んだ挙句、酔いつぶれて床で寝た。朝起きたら、布団がかけられていた。横を見ると、隣で桃子も寝ていた。何故だかわからないが、少し涙が出た。
ある日、桜を寝かせつけた後、俺は「二人目をつくらないか?」と切り出した。
すると、彼女は、ニヤっと笑い「バッチコイ!」と言った。辛抱たまらなくなりそのまま押し倒した。
少しいちゃついていると、彼女は珍しく真剣な顔で「あなたを愛してる、世界中の誰よりも」と言った。俺はどもりながら「お、俺もだよ……」と言った。彼女は笑った。やはり少し残念な笑顔で。しかしその笑顔は世界中の誰よりも美しいと思った。
その頃、俺はとある事件を調べていた。低レベルの能力者の失踪が相次いだのだ。
通常、能力者が失踪すると、人質に対し段階的に危害が加えられる。
しかし、この事件は、失踪者が皆善良で、低レベルであったこと、また失踪が自発的なものではない可能性が強かったことから、人質に対する強硬策は取られなかった。
そして、その事件を追ううちに、俺は『I計画』という話を耳にする。都市伝説じみた信憑性の無い噂の類だったが、失踪者が跡を絶たないため、藁にも縋る気持ちで『I計画』についての噂を調べることにした。
最初は途切れ途切れの信憑性がなかった噂も、噂で噂を補完し肉付けしていくことによって、本格的に調べる価値があるのでは……? と思う程度の情報になっていた。
まあゆっくりやろう。昼休憩、昼ごはんは桃子の手作り弁当だ。弁当を食べていたらそいつはやってきた。
木村修一、最近やたら話しかけてくる同僚だ。彼はレベル3のテレパスだ。
申し訳ないが、レベル3クラスのテレパスがいると落ち着かない。
触られると、ある程度の思考を読み取られてしまう。それに、こいつはやたらフレンドリーでスキンシップをしてくる。正直苦手だ。
世界で一番美しい嫁の裸の映像を、他の男に見せるなんて、あってはならない。
俺は遠慮なく「触るなよ」と言った。木村は「まあいいじゃないか」と言って、俺の肩をポンポンと叩く。うう……覗かれたかも……。
悔しかったので「嫁の映像を抜きとったら殺すからな」とドスをきかせた声で脅しておいた。
彼は「めったやたらに覗くのは趣味じゃない」と言った。彼の言ったことはあながち嘘じゃない。テレパスにはそういうスタンスの人が非常に多い。
「何か進展あったのか?」彼は言う。俺は「まあ、丸菱重工と、その孫会社2社で株式を持ち合ってるダミーっぽいのがあってさ、それがちょっと匂うな~って感じかな」と答えた。
嘘ではない、その程度の精度の情報として固まってきているのだ。本当はもうある程度目星のついている人物もいたが、口に出さなかった。
木村は「へぇ~、まあ頑張ってくれ」とまた肩をポンポン叩いていった。
すっかり丸くなった俺は存外モテたらしい。
クリスマス、3人の女の子から「好きです」と告白された。
俺には、桜を除いて、桃子以上の女性がこの世に存在するとは思えなかった。だから全て断った。
家に帰ると桜が「ぱぁ~ぱ、たいすき~!」と飛びついて来た。この時俺は、桜は絶対嫁にやりませんと固く誓った。
調子に乗った俺は、つい「ぱぱ、他の3人断って良かったおぉぉぉ!」と桜に頬ずりをした。背後から獣じみた殺気が噴き上がった。
おそるおそる振りかえった俺は修羅を見た。凶悪なオーラを濃密に立ち昇らせた嫁がそこにいたのだ。
「どういうこと? どこの女!?」彼女は言った。
「ち、違うんです! 聞いてください!」俺は言った。
かつての猟犬は今や駄犬であった。
「そこに座りなさい」 床を指さし彼女は言った。そして、すぐさま床に胡坐をかいた俺を、「正座でしょ」とたしなめた。
捨てられたら自分は死んでしまうという確信があった。だから俺は胡乱気に視線を彷徨わせながらも必死に説明した。
女性陣が言った台詞とそれに対する対応を、一言一句違わず披露し、理解を求めた。
悪くも無いのに床に頭を擦りつけた。桜がトコトコ近付いて来て横に座ると、嬉しそうに俺の真似をした。「ごえんなさい、ごえんなさい、やましーことはありません、ほんとーれす」と満面の笑顔で繰り返した。俺は将来、桜の彼氏を殺してしまうだろうと思った。桃子は「真似しなくてもいいの」と言った。
何とか桃子は納得してくれた。少し自己嫌悪に陥ったようで、「嫉妬深くてごめんなさい、でも他の女を一瞬でも見て欲しくないの……」と悲しげに俯いた。
俺は、あるわけがない、と思った。何が起きてもそれだけは有り得ないと思った。怯えているのは俺の方だ。捨てられるのではないかと震えているのは俺の方だ。
だからそのままを口にした。桃子は「馬鹿ね……」と言って俺を抱きしめた。桜がとてとて歩いて来て、「わかね……」と、足が痺れて立てない俺の腰にしがみついた。
俺は、『絶対にこの二人を守る』と何百回目になるかわからない誓いを立てた。
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