第8話 藤枝守 2029年  ③

 しとしと雨が降っている。

 春の清水を潤すこの時期の雨も、都会を道行く人にとっては体力を削る凶器でしかない。傘を差して歩く人の足も、幾分速くなりがちだ。

 藤枝は、傘も差さずに目的の高層マンションを見上げて佇んでいた。

 通行人が不審そうに、藤枝を横目で見ながら通りすぎる。


 思っていたより感慨が湧かないものだな……

 自嘲気味に右頬に皺をつくる。顎から垂れる滴が、飽和状態のシャツに吸い込まれた。

 藤枝は意を決した様子でもなく、ただただ無造作に足を踏み出しマンションの裏へと回った。そして、ゴミの回収業者が使用しているであろうドアを発見すると、無造作に切り裂きマンション内に侵入する。


 いいマンションに住んでやがるな

 マンションの内部を見まわしてそう思う。

 自分が絶望の深淵を彷徨っている間にも、この男はのうのうと暮らしていたのだろうか。

 ぞわり、と暗く燻る炎が藤枝を舐めた。


 藤枝はエレベーターを使わず、階段で上がることを選択した。息も乱さず11階を登り切り、廊下の突き当りにあるドアの前で足を止める。

一一〇六号室、それが、かつての同僚、木村修一が住む部屋だ。

 藤枝は躊躇するでもなくインターフォンを押した。

 数秒の沈黙の後「どちら様で…………なっ!」と、誰何の後、驚いたような反応が返ってきた。カメラでこちらの顔を確認したのだろう。インターフォン越しに木村が呟く。 


「藤枝、なのか……?」

「木村、色々言いたいだろうが、とにかく入れてくれ。追われているんだ、今日だけ頼む」


 突然の来訪と、無茶な申し出に、木村が焦ったようにまくし立てる。


「待ってくれ! 義務の事は知っているだろう! 何とかしてやりたいが勘弁してくれ!」


 しかし藤枝は、選択権は無いとばかりに言いきる。


「こういう時にテレパスってのは便利だな、お前のレベルならごまかしが効く。それに断られてもお邪魔するだけだ、俺の能力は知っているだろう?」


 数秒間、思案するような沈黙の後、木村は嘆息と共に


「わかったよ……。ちょっと待ってくれ」


 と答えた。

 返答から十数秒後、遠隔操作で行ったであろう解錠の音を聞くと、藤枝は無言でドアを開け、挨拶もそぞろに玄関に上がった。

 濡れた靴下がフローリングに跡を作る。藤枝は断りも無く、廊下の奥にあるリビングのドアを開けた。

 20畳位だろうか、広めのリビングにしてはこじんまりとした、しかし品の良い機能的なテーブルとソファーが設置され、テーブルにはタリスカーの18年とグラスが置いてある。稼働中の3D投影ディスプレイは、野球の試合を投射していた。野球を見ながら飲んでいたらしい。

 部屋は適温に調整され、冷えた体を暖かく包む。藤枝は一瞬、郷愁に駆られ目をしばたかせる。

 木村は顔をしかめながらソファーから立ちあがった。どう見ても歓迎する体ではない。


「久しぶりだな……」


 シニカルな笑みを作り藤枝が話しかけた。一方、木村は迷惑そうな顔を崩さない。


「藤枝、何て言うか……。何か手助けはしたいけど、俺も今は家庭を持って危ない橋とかは困るんだよ……」


 木村が更に続けようとすると、リビングの奥の和室らしき部屋から女性が出てきた。

 美人ではないが、愛嬌があり、気立ての良さそうな女だ。木村の妻なのだろう。

 彼女は藤枝を見て、愛嬌のある大きな目を更に大きく開き、口を開いた。


「あら大変、ビショビショじゃないですか! タオル持ってきますね! あと、コーヒーでいいですか?」

「美知香、いいんだ俺がやる。知子を寝室で寝かしつけてくれ、仕事の話なんだ」


 慌てたように木村が制止する。美知香と呼ばれた女は、一瞬キョトンとすると、


「えーと…… わかりました。知子ぉ~~、寝るよ~~」


 と言って、和室で遊んでいたのであろう、5歳くらいの少女の手を引き、廊下へと消えていった。

 そんな二人を、何とも言えない暖かい表情で見送る木村を見た瞬間、藤枝は腰のあたりをチリチリと炙られるような感覚に陥る。


 わかっている、この感覚は……

 嫉妬だ。

 八年前に自分が失ったもの、今となっては決して手に入らないもの、木村はその全てを持っていた。

 自分が澱の底でのたうちまわっている時も、叶うことの無い夢にすがり、みじめに震えている時も、木村は当り前のようにこの温もりを享受していたのだ。

 狂おしいほどの嫉妬に憎悪が絡みつき、奔流となって藤枝の中を駆け巡った。


 ふざけるな……

 あの日、目に焼き付いた光景が、フラッシュバックする。


 お前が……

 お前達がっ……!


 藤枝は今すぐ目の前の男の首を切り飛ばしたい衝動に駆られる。

 自身の闇が命じるまま、引き裂き、抉り取り、踏み砕きたいという狂気が、胸に蠢いた。


 しかし

 まだだ……。糸を途切れさせるわけにはいかない……

 『断裂』の座標構築を半ばまで終わらせながら、藤枝は何とか踏みとどまることに成功する。

 聞き出さなければならなかった。

 次に繋がる糸を手繰り寄せなければならなかった。

 そして敵方である木村は既に通報しているだろう。時間が無い。

 藤枝は、立ったままリビングの窓を眺めながら、単刀直入に問いかけた。


「《I計画》とは何だ?」


 一瞬の沈黙の後、取り繕うように木村が口を開く。


「何のことだ……?」

「《CODE‐I》でも、《プロジェクト・インターフェイス》でもいい。計画段階上の呼称の齟齬はどうでもいい、I計画とは何だ?」

「な、何を言ってい――」

「いや、そういうのはいいんだ聞いてくれ。」


 怒気を孕んだ木村の言葉を藤枝は歯牙にもかけない。窓から視線を外さず話を続ける。


正直I計画というのが何かなんざ興味がないんだよ。《I計画》とやらに携わっているのが誰なのかが知りたいんだ」   


「…………」


 数秒間の沈黙、その沈黙が、木村が知っていることを証明していた。

 藤枝は、暗い炎を宿した双眸を木村に向けて言葉を吐き出す。


「持っているんだろう? 俺の全てを奪った連中のデータを。もうちょっとわかりやすく言ってやる」

「……」

「俺をハメた連中は誰だ?」


 獣が低く唸るような誰何に、木村は顔面を蒼白にして脂汗を滲ませた。

 そして藤枝は今気付いたかとばかりに、わざとらしく木村から廊下の方へと視線を移し、ぞっとするような乾いた声で問いかけた。


「気立ての良さそうな嫁さんだ」

「やめろ……」


 藤枝は続ける。


「お譲ちゃんは5歳くらいか、気をつけないと、ちょっとしたことで怪我をする年頃だ」

「やめてくれ!」


 木村は堪え切れなくなったように叫ぶ。


「家族は…… あの二人は関係無いっ!」


 藤枝の口角が凶悪に吊りあがった。


「奇遇だな、8年前、俺もそう思った気がするよ。誰も聞いちゃくれなかったがな」

「~~っ!」


 木村は弾かれたように背中から銃を取り出し、藤枝に銃口を向けた。解錠までの十数秒で腰の後ろに差していたのだろう。

 銃口を向けられた藤枝は、さして気にするでも無く、向けている木村のほうが、冷や汗を垂れ流しガクガク震えていた。この状況にあっても、誰が有利なのかは明らかだった。

 そして、追い詰められ、焦って判断能力が鈍った木村はミスを犯してしまう。

 この場で、藤枝に一番言ってはいけない言葉を、ガチガチ鳴る歯の間からこぼしてしまったのだ。


「そ、そりゃあ、お前の家族のことは残念だったと思うよ! だけど俺はあの―――」

「『残念』……だと……?」


 思い出が藤枝の頭を駆け巡る。

 全てだった。

 それは藤枝の全てだった。


 愛情を知らず、殴られ、蹴られ、登っては突き落とされ、突き落とされては踏みつけられる。信じれば裏切られ、手を伸ばせば唾をかけられる。

そんな男に神は与えた。

 今までの不幸を鼻で笑えるくらいの幸福を。

 今までの不運程度では到底釣り合わないほどの幸運を。


――あなたを愛してる、世界中の誰よりも。


 「愛してる」とは恥ずかしくて言えなかった。


――ぱぁ~ぱ、たいすき~!


 絶対に守る、そう誓った

 それは、藤枝の世界の全てだったのだ。


 藤枝は醜悪と言ってもいいほど顔を歪め震えていた。

 残念だった。この男はそう言った。


 貴様が……言うのか……!

 ちっぽけかも知れなかった。

 家に帰れば家族がいる、ただそれだけの小さな幸せなのかもしれなかった。行ってきますと言えば行ってらっしゃいと言ってもらえる、ただそれだけのことなのかも知れなかった。

 だが自分にとってはそれが掛け替えのないモノだったのだ。何があっても手放したくないモノだったのだ。

 そんな他人の小さな幸せなどはどうでもよかったのだろう。 

 だから、こいつ等には出来た。

 自分には到底耐えられないことを他人にすることが出来た。

 そうして守られた利益を眺めてこう言うのだ。


 ああ、良かった、と


 そうして奪われた者を眺めてこう囁くのだ。


 残念だったね、と


 だから藤枝は咆哮した。

 意味不明な怒声を上げ、木村に向かって突進する。

 木村は、自分の一言が何に火をつけたのかを瞬時に理解し、夢中で引き金を引く。破裂音と共に三発の9㎜弾が銃口から射出され、全てそのまま『断裂』に飲み込まれる。

 木村が驚愕の表情を浮かべるのと、藤枝が左手で木村の首を掴んだのは同時だった。

 そして、藤枝はそのまま木村を壁に押し付け、耳元に唇を寄せて更に1オクターブ低い声で唸る。


「いいか、これは忠告だ。お前はこれから一つでも選択を間違えたら後悔することになる。非常に残念だが、おまえが悲しむことになる。わかるな?」


 壊れた人形のように、何度も頷く木村。

 藤枝はぞろりと牙を剥きだして言った。


「データはどこだ」

「玄関に一番近い部屋、書斎の机の引き出しの上に……」


 とその時、リビングの入り口、ドアが開く。

 小動物のように警戒心を顔に浮かべた木村の妻が


「何かあったの……?」


 とリビングに入ってきた。

 造りのしっかりしたマンション、ドアを二枚挟めば、銃声など聞いたことも無い人は、まさか自分の家で銃撃があったなどとは思わないだろう。まず木村の妻は、首を掴まれ壁に押し付けられている夫を見て驚愕し、その夫が右手に握る銃を見て絶句した。

 藤枝は、固まって動かない木村の妻を一瞥し、吐き捨てるように


「運が、良かったな……」


 と左手を放した。

 生かしておくつもりは無い。しかし、今は時間が惜しい、下手に騒がれて強力な追手に追跡される事態は避けたかった。今はデータの入手が最優先だ。

 藤枝は書斎に向かうため、木村に背を向けた。別に木村を舐めていたわけではない。

 目の前には木村の妻がおり、寝室には子供がいる。今この場で木村が仕掛けることは、彼が何より守りたい者を危険に晒すことだ。さらに、先ほど徹底的に恐怖を植え付けることで、戦意を完全に失わせたのだ。ただ、一つ読み違えたとすれば、木村もまた情報を漏らせば危うい立場にいるということだった。

 藤枝が足音に気付いて、舌打ちしながら振り向いた時、既に木村は藤枝の頭を両手で掴んでいた。

 藤枝が己の浅はかさを呪った時、突然、頭を掻き回されるような感覚に襲われる。

 精神汚染だ。


 マズイ!

 と思う。

 例え壊れなくても時間を稼がれたら多分それで終わりだ。藤枝は焦る。

しかし次の瞬間、汚泥のようなものが焦燥感ごと藤枝を侵していった。


「自分の思念を流しこめなくても、相手の闇で昏倒させることくらいは、レベル3程度の俺にも出来る。最低でも時間は稼げる、俺の勝ちだ藤枝!」


 やはり通報されていたらしい、薄れゆく意識の中毒づく。

 木村は勝ち誇った笑みを浮かべた。しかし、藤枝はもうそれを認識することすら出来ない。


「やめろ……。やめてくれ!」

「無駄だ藤枝」


――やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ……


 藤枝はゆっくりとだが確実に自身の闇に呑まれていった。


「やめろ! 俺にそれを見せるな! やめ、やめてぃぐらぇぁああああああっあっああっああああああぃぃぃぁああああああああああ――――ッ!」


 20畳のリビングに耳を塞ぎたくなるような絶叫が響き渡る

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