第6話 藤枝守 2029年

「はぁ……はぁっ……」


 藤枝は走っていた。

 車は既に押さえられていた。バスや電車を待っている時間も無い。運悪くタクシーも拾えなかった。

 だから藤枝は冷たい雨の中、もう30分近く全力で走り続けていた。


 どこだ、どこで俺はしくじった!

 脳が酸素を要求する。全身の筋肉が悲鳴を上げる。心臓は攣ってしまうのではないかと思うほど鼓動が痛い。今この瞬間意識を失ってもおかしくない。今この瞬間吐血してのたうち回ってもおかしくない。それでも藤枝は走った。


 上着なんて、とっくに脱ぎ捨てた。冬の雨が体を冷やすのに丁度いいくらいだ。

 胃の中の物は残らず出してしまった。吐瀉物を吸って変色したシャツが異臭を放っている。

 それでも藤枝の顔に浮かぶ表情は「苦悶」ではなく「焦燥」であった。


 ああ、そうだろうよ!

 俺はクズだ。そんなことはとっくの昔からわかってる。いつ、誰に殺されたって文句が言えないことくらいわかってるんだ!


「それでもっ!」


 家族は関係ねえ! 

 彼女達は愛されて然るべき善人だ、祝福されて然るべき存在だ。不幸が降りかかるなんて許されるわけがない。許されるわけが無いんだ! 

 藤枝が無事に自身のマンションに辿り着けたのは単なる運であった。もう既に走れるような状態ではないのだ。それでも藤枝は休まず歩を進める。彼を突き動かすのは、人生で初めて手に入れた愛情であり、背中を押すのは守りたいという意思だった。

 藤枝はエレベーターに見向きもせず階段を駆け上がり部屋まで走る。手が疲労で痙攣し鍵を開けれない。だから躊躇無く『断裂』でドアを切り飛ばした。

 どうせここにはもう戻れない、ドアなんてどうでもいい、そんなことよりッ!


「桃子! 桜!」


 土足で廊下に上がりながら絶叫する。

 返事が無い。不安が爆発する。


 クソッ! クソッ! そんなはずはない! 間に合ったはずだ!

 リビングのドアに手をかける。


「桃子!」


 藤枝は再度叫んでドアを開けた。

 そこには……






「――ッ!」


 藤枝は薄汚れたビジネスホテルの一室、床の上で目を覚ました。

 窓際のベッドで眠れるわけがない。襲撃をお願いしているようなものだ。 それにそもそも柔らかい布団でなど、地獄の底まで沈みこむような感覚に襲われて眠れやしないのだ。

 藤枝は後頭部をボリボリと掻きながら起き上った。


 いつもの夢か……

 そう、さして驚くことでもない。いつものことだ。

飛び起きて息を荒げるようなものでもない。取り乱すような歳でもない。

 藤枝は気だるそうに立ち上がると洗面所に行き顔を洗った。鏡に映った自分と目が合う。


 不健康な肌、こけた頬、口は皮肉っぽく右側だけつり上がり、ただ眼だけが鋭く濁った何かを放っていた。

 最近、髪だけでなく、時々適当に切るだけの髭にも白いものが混ざってきた気がする。


「だいぶ老けたなぁ……」 


 と、パサつく髪を後ろで縛りながら自嘲気味につぶやいた。


 何とか……

 何とか今まで生きのびた。

 八年前のあの日から


 偽造TIで自分を偽り、這いつくばり、泥をすすって何とか生きのびた。

後ろ指さされるような事など数えるのも面倒くさい。裏切っては逃げ、取り入っては利用した。どうせ地下世界の人間など同じ穴のムジナだ、騙す方も騙される方もクズなのだ。

 地下に潜ることについて、特に抵抗はなかった。

 元々自分はこちら側で這い回るべき人間だ。腐ったドブ川の空気がお似合いな人間だ。

 あの夢のような3年間のほうが不自然だったのだ。自分が触れていい世界ではなかったのだ。


 それなのに自分は手を伸ばしてしまった。触れてしまった。

 結果報いを受けた。それだけの話だ。

 しかし藤枝は一つ疑念を持たざるを得ない。



――なぜ報いを受けるのが自分ではなかったのか。



 だから藤枝は耐え続けた。地下の一番奥底で体を掻き毟りながら耐え続けた。

 もがき足掻いて、地獄にしか垂れてこない蜘蛛の糸を探し続けた。

 そして見つけた。

 手繰るには細すぎる糸を。

 絶望を煮詰めた釜の中でそれを見つけた。


 藤枝は黒いジャケットを羽織って荷物をまとめると窓の外を見遣る。

 冬の日没は早い、外はもう真っ暗だ。一つ嘆息して部屋を出る。


「報いを……」


 報いを受けさせてやる。藤枝は思う。

 道理など無い。大義や名分などあるはずもない。

 ただただ自分の中のどす黒いモノが命じるのだ。

 藤枝は機械的にチェックアウトを済ませると、無言で外に出た。

 目標の家は、ここから歩いて30分。

 外はあの日と同じように、冷たい雨が降っている。




□□□□□□□□




 ペチペチと頬を叩かれる感触でアキラは目をさました。


「なっ!」


 目の前で静流が腕を組んで立っている。


 何で! ここはどこ!?

 アキラは周りを見渡し、自分の置かれた状況を確認して愕然とした。

 学校の教室程度の広さ、コンクリートがむき出しの何も無い部屋、毎日掃き掃除をしているのかと思うほどゴミ一つ落ちていない。

 今この部屋に存在するのは、静流、アキラ、椅子、の三つだけだ。天井には申し訳程度に電球が一つぶら下がり、ぼんやりと室内を照らしている。


 そしてアキラは今、両手足を手錠で拘束され、どこにでもある様な背もたれ付きの椅子に座らされている。椅子と体をロープで執拗に巻いてある様は、傍から見たら悪ふざけに見えるはずだ。解釈によっては、この部屋には静流と椅子しかないとも言い得るのではないかと思う。

 昼も異常事態だったが、今も負けないくらいの異常事態であった。


「崇岬さん! どういうことですか!」

「能力者は、その存在を一般人に知られてはならない。君は使った、そして見られた」


 超能力のことを、知ってる……!?

 静流は慈悲も敵意も何もない、物を見るような視線をアキラに向け淡々と語る。アキラの全身に寒気が走る。腕を組み傲然と自分を見下ろす静流は、恐ろしいほど美しかった。

 そしてこんな時にも関わらず、組んだ腕に挟まれ、盛り上がった量感のある胸に目がいってしまう自分に軽く凹みつつ言い返す。


「そ、そんな! 何故ですか!? それにあの時はどうしようも――」

「その理由も不可抗力性も今は関係ない」

「それじゃあ、あのまま何もしなければよかったんですか!?」

「そうは言ってない。だが今は関係ない」


 取り付く島もない静流の様子にアキラが業を煮やしていると、静流はいつの間にか取り出した銃をアキラに向けた。


 ヤバイ!

 あの目は本気だ、反撃しないと殺される!

 昼間は出来たんだ! まず銃を弾き飛ばすんだ!

 静流の右手をブッ叩くイメージで『力』を発現させる。


 当たれっ!

 そしてその結果を見ないまま、次は弾いた拳銃自体を彼女にぶつけるイメージを作ろうとして、アキラの眼は驚愕に見開かれる。


 かわ……された……?

 一歩後ろに下がる。彼女の行動はそれだけだった。しかしそれだけでアキラの攻撃は空を切った。


 いや偶然だ! もう一度!

 再度アキラは『力』を振るう。

 今度こそ静流は移動をしなかった。彼女が行ったのは突き出していた右手を下げる、ただそれだけの動作だった。それだけでまたも攻撃をかわされてしまったのだ。再びアキラが目を剥く。


「効果範囲が狭い、無駄だ」

「――っ!」


 抑揚の無い声が静かに響く。

 偶然ではない、彼女はこの力を知っている。

 知っていて、どのような攻撃が、どこを、どのタイミングで襲ってくるのかが分かっている!


「無駄だ、やめておけ」

「~~っ!」


 なりふり構っていられない。手加減していたら殺される。アキラは全力でがむしゃらに『力』を発現させる。対象は絞らない。とにかく当てるのだ。

 しかし、アキラが座標をイメージするたびに、力を発現させるたびに、アキラの心に焦燥が広がる。静流がその全てを特に苦色も無い様子で回避していくのだ。

 アキラが荒い息をついて呻く頃には、アキラの心は諦念に埋め尽くされていた。

 静流が、アキラの額に銃口を向けて口を開く。


「さて、それでは君をどうしようか、どうしたらいいと思う?」

「あの、出来たら助けていただけないかと……」


 その言葉とは裏腹に、アキラは諦めていた。そしてこの瞬間にも馬鹿な事を考えている自分に少し苦笑した。


「ではもうわかるな?」


 静流はまるで

 子犬の頭を撫でる時にするような微笑みをうかべ

 小さい子供の手を握る時にするような動作で凶器を包み

 艶めかしく引き金に添えた指に力を込めようとして、そして……



「……終わりましたか?」



 鈴の音の様な透き通った声と共に

 少女が部屋に入ってきた。

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