それは私たちの形をしていた

 私の眼前にひとつの死体がうつ伏せになっている。

 これは誰であろう。何であろう。人間のようでもあれば、また別の生き物のようでもある。死体とその周りの空気の境界線は曖昧で、輪郭も朧げである。ただその独特な匂いだけが、それが死体ということを私に認識させる。いやその匂いすらなくとも私にはそれが死体としか思えなかった。

 私は死体の傍で腕を組んで考える。私の記憶の中にこれと同じ死体があったような気もする。思い出そうとしてみると、目の前の死体の輪郭は柔軟に波打って形を変え始めた。


 それは老婆の形をしていた。

 私はそれが誰か知らない。物心ついてすぐに初めて参列した葬儀のことだった。母方の遠い親戚らしいが、その人が生きている時に話した覚えはなかった。見よう見まねで焼香をしたあと、棺の中のその人の顔を見ても思うところはなかった。ただ面倒だから早く帰りたいと思っていた。

 棺の置かれた大部屋にはいくつもの座卓が置かれて、そのうえには酒やつまみや、弁当が並べられていて、他の参列者たちが思い思いに手を伸ばして笑っていた。泣いている人はいなかった。なにか薬のような嗅いだことのない匂いの中で、私は食欲も湧かずつまらなそうな顔をしていた。


 それは祖父の形をしていた。

 母方の祖父は脳溢血で倒れてしばらく入院した後、私が小学校で授業を受けている間に亡くなった。最期までほとんど呆けてもおらず、見舞いの時にも私のことが分かっていたようだった。ただ声は聞こえなかった。

 祖父母の家は私の実家の近くで、幼いころは遊びに行っていたから、祖父の顔もよく見ていた。あまり話さない人ではあったが、その地域では有名な人だった。戦後シベリアに抑留されたあと、日本に帰ってきてからは家も道も、電気も水道すらもない荒れた土地に入植して今の私の地元を開拓したと聞いている。

 棺の釘が打たれる音に初めて私は涙を流した。従姉が声をあげて泣いていた。その日の夜、二段ベットの下で弟が泣いているのが聞こえた。

 その後数年して私は祖父が自費出版していた短歌集を譲ってもらった。

 「ひたすらに復員船の来るを待ちぬナホトカ港のラーゲルに居て」

 あとがきには、戦中、前妻の訃報を電報で知ったこと、その前妻の三十三回忌に合わせて自分史としてその短歌集を作ったことが綴られていた。


 それは少年の形をしていた。

 私が中学生の頃だった。休日のけだるげな朝にその電話はかかってきた。電話を終えた母が神妙な顔をして居間に座って黙っていた。父は休日には珍しく朝早くから外出していた。両親の様子がおかしいことに気づき始めたころになって、私はある少年が亡くなったことを知った。私の後輩にあたる子だった。田舎の小さなコミュニティでは歳が離れていても同じ空間で遊ぶことはあって、その子は小学生だったが私もよく知っていた。

 午後になると父が帰ってきて、それから報道記者の車がいくつか家の前に停まった。その少年が通っていた小学校のPTAの会長が父だったから、それで取材に来たらしい。だが様子が尋常ではなかった。居間で黙っている私の耳に、外で話す父の声と、毎朝テレビで聞くレポーターの声が聞こえてきた。

 その少年の母親が、息子の首を絞めて殺したことを、翌日の朝のテレビで知った。

 その子を思って泣くことはなかった。だが、母親に首を絞められるその子の感覚が時折自分を襲うような気持ちがして、息苦しかった。


 死体の輪郭はいまだ変わり続けた。

 私が現実で直面した死を思い出してみても、どれもこれも、その死体にはしっくりこない。生命の結実であるはずのその死体に確かに現実感はない。実に空虚な死体である。老婆も祖父も少年も、あるいは私が目にした他の死も、今は墓の下で静かに眠っている。野ざらしにされたこの死体には生命の残り香も、生きたものに対する尊厳も感じられない。

 ならばと、私は次に、私が殺したものを思い出すことにした。

 それは白衣の老人の形をしていた。私が初めて小説の中で殺した人間だった。ただオチのまとまりを出すためにこの老人を殺した。今にして思えば生かしたまま小説を締めくくることも容易かった。ただ死をちらつかせれば、それが何か、読んだ人に感じさせるかと思った。

 それからいくつもの人間や動物を私は殺した。それが小説において主題や動機となることは稀だった。ただのオチ、展開のため、お涙頂戴、ブラックジョーク、デカダンスを気取った暗い雰囲気が好きなんだろう、ディストピアの世界にはつきものだろう、探偵には殺人事件がお似合いだろう、それだけのために多くを殺した。

 時折誰も死なない悲しい話を書きたくなった。だが殺せば楽だった。小説の死は簡潔で、安直で、わかりやすく、しかしなんとなく話ができているように見せられた。

 楽をするために殺した。ペンで殺した。インクに私の血はなかった。ただ小説の中の彼らの血で書いていた。書き手が登場人物を殺して報いはないのか。小説の男に小説の女を殺させて、それは書き手が罪を着せていることにはならないのか。

 展開のために書かれた死は、書き手の作家性の欠如だ。作家性の死だ。


 死体の輪郭は一つの形に定まった。うつ伏せの死体を蹴り転がすと、死体はその顔を天に曝け出した。それは私の顔だった。


 

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