僕の夕日は何色か?


 僕は、僕の脳みそが培養液の中で生かされていることを知っている。

 僕の脳以外の肉体――四肢も眼球も耳も舌も、感覚器はおろか骨も肉さえも――は存在せず、ただ脳だけが、どこかの誰か、酔狂な科学者によって保存され、観察されているのだ。培養液に満たされた大きな水槽の中に、いろいろな電極を取り付けられた僕の脳みそが、その活動を停止することなく保存されている。今の僕の肉体は、物質的には存在しない。僕はそのことを知っている。

 だが、僕は今こうして誰とも変わらない日常を送っていて、下を見れば僕のまだ少年の体と地面が、上を見れば晩夏の高い青空が気持ちよく広がっている。サッカーで友達と走り回ることもできるし、母さんの作ったオムレツを頬張ればおいしいと思える。頭を軽く叩いてみると、ちゃんと何かが詰まっているような重さを感じる。だが、実のところ、そこにはなにもない。僕の体も、地面も空も、友達も母さんも、オムレツも。この頭に詰まっているべき脳みそだけは、どこか知らない場所の研究室の水槽に入っている。

 僕がどうしてそれを知っているかというと、僕の脳が水槽に入れられる前の記憶を、僕自身が持っているからだ。


 数年前のある日のことだった。母さんのおつかいで近所のスーパーマーケットに向かっていた僕は、歩道に突っ込んだ居眠り運転のトラックに轢かれた。トラックに轢かれたその一瞬こそ意識は飛んだが、次の瞬間には僕は意識を取り戻していた。だが体は動かなかった。何か言おうととしても口は開かない。ただ開きっぱなしになった目に、慌てて僕に駆け寄るトラックの運転手や、九十度傾いた道路に広がる血が見えた。ずっと痛みは感じなかった。だが、次第に人が集まりだし、誰かが呼んだ救急車に載せられて、病院に搬送されている間も、僕はずっと周りが見えていたし、声も聞こえていた。

 搬送先の病院で、脳と首より上の感覚器官だけは生きていると判断された僕は、白衣の人たちによって頭を切り開かれ、脳みそをまるまる抜き取られた。その白衣の人たちの中には、明らかに医師とは違った印象の人たちも混じっていた。きっと彼らが僕の脳みそを水槽の中に入れた科学者だろう。僕の脳が神経から切断されるその瞬間まで、彼らが音声レポートを録音している声が聞こえていたから、これから僕の脳が水槽に移されるということも、それが何かの研究らしいことも分かってしまった。

 それからちょっとの間、瞬きするくらいの間が経ったかと思うと、次の瞬間には、僕はこの世界にいた。誰かに作られた疑似現実のこの世界にいた。


 どうやら僕が交通事故にあったというのは、この世界でも同じことらしく、最初の数か月は病院で過ごした。まるであの植物状態から奇跡的に復活しました、とでも言うように、医師たちも同級生も母さんも、僕のことを大仰な笑顔で見舞った。

 退院してからは依然と変わらぬ平凡な学生生活を送っている。朝はいつものように母さんにたたき起こされて学校に行って、いつもの友人たちと授業を受け、昼休みには校庭でサッカーをする。夕方になって帰宅すれば、母さんも父さんも妹も、ちゃんといる。みんなは僕が現実世界にいたときから見た目こそ何も変わっていない。いや中身も全く同じに思える。家も、学校も、地面も空も、世界は全部、脳を切り離される前の記憶と同じだ。考えてみればそれもそうだ。きっと僕の記憶から仮想の世界を作って、水槽の中の僕の脳に、電極なりよく分からない装置なりを使って情報や刺激を与えているのだろう。

 なんの偶然か、脳を切り離されるその瞬間まで、僕が意識を失っていると白衣の人間たちが勘違いしてくれたおかげで、僕はこの世界が偽物だということを知ってしまったのだ。


 でも僕は、この偽物の世界から出る方法を知らない。

 僕の脳が、本当はこの世界じゃない、現実の世界にあるんだということは誰にも話していないし、そもそも偽物の世界の人間に話してどうなるというのだろう。彼らは言ってみれば僕自身なのだから。

 とはいえ不満があるわけでもない。科学者たちが一体何を考えて僕を脳みそだけにした上に、仮想の世界で生かしているのかは分からないが、別に不自由しているわけでもないし、素晴らしい日常を過ごさせてもらっている。

 だが、最近時折考える。

 僕は一体、いつまでこの世界にいられるのだろう?


     ※


「この画面の少年は?」

 壁を埋め尽くすほどの大量のモニターを前にして、俺は隣に立っている白衣の男に尋ねた。モニターの画面にはそれぞれ別のカメラ映像が並べて映されている。一見すると街中に設置された監視カメラのモニターのようだ。

 だが、そのうちの一つ、「08」とキャプションの表示されているモニターだけは真っ暗だった。俺はその真っ暗な画面を指さして、もう一度白衣の男に尋ねた。

「このモニターの少年はどうした?」

「彼なら死にました」

 白衣の男は、三白眼を輝かせながら、笑顔で答えた。彼はこの研究における観察者の役割を担っていた。

「そう」

 俺は思わず気のない返事をした。サンプル08はそろそろだと思っていた。前頭葉の一部が不活性化していたことが埋め込み型の測定機器で確認されていた。つまりそれは、適切な認知や選択に障害が出始めた可能性を示唆していた。彼は自身の未知の未来、人生の結果を知覚することが困難になっていた、そう直感した。

 白衣の男は手元の資料に目を落として言う。

「統合失調症に近い症状が出ていたようですね。これは前頭葉のドーパミン受容体結合能の低下が起因しているのでしょうか?」

「さあ」俺はまた気のない返事を返す。

「さあって、あなた研究員じゃないんですか?」

 白衣の男は怪訝な顔でこちらを見ている。警戒されるのはあまりよくない。

「この研究は様々な分野の科学者とか研究者のチームが関わっているらしいけど、俺は研究者というよりは経営者でね」

「経営者が、どうしてこの研究に携わってるんです?」


「活性脳保管技術を知っているか?」

「ええ、まあ噂程度にですが。脳を特殊な培養液に浸して生かしておく技術とか。でもあれは倫理的に問題があるとかって実証研究はできないらしいですね」

「そう表向きはね」

「まあ世間に見えないところで進められている研究はいくらでもありますしね」

 白衣の男は、これもそうです、とモニターを指さす。

 俺はうなずく。

「そう。で、うちの会社でも研究してるってわけ。実は保管自体は成功しているんだけど、結局はサービスとして売らなきゃならない」

「はあ、それは。保管サービスだけでも売れるのでは?」

「それだけじゃ足りない。自分の脳を保管したがる人ってのは大衆には意外に少ないんだ。もっと夢のあるサービスを提供できるってことをアピールしないと」

 そこで考えたのが、保管した脳に情報を与えることで、任意の意識活動をさせることだった。水槽の中に入れた脳に、電極やら仮想の感覚器なんかを繋いで、顧客が希望した情報や刺激を与える。あらかじめ「この設定で」と頼まれればそれにそった世界を提供してやる。顧客は望んだ世界で望んだように仮想世界の中を生きることができるのだ。

「それは魅力的ですね。一昔前に流行ったVRゲームみたいで」

「だが一つ懸念点があった。保管をいつ止めるか、だ」

「それは顧客の希望を聞けばいいのでは?」

「顧客の希望を聞いたところで私たちにはどうしようもない。一度取り出した脳をもとの体に戻すことは現状できないし、だからと言って永遠に水槽に入れておけるリソースがあるわけでもない」

 それに顧客が希望した期間保管したとして、水槽の脳が感じる時間と、現実の時間に相違がないとは言い切れない。一日水槽に入れておいただけのつもりが、脳の意識上では一生分かもしれない。どのタイミングで保管をやめれば、それが顧客の希望通りかは分からないのだ。


「……ところで」

 と、白衣の男が咳払いをする。

「ずいぶん話がそれましたが、結局あなたはなぜこの研究に? だってですよね?」

「まあそうだ。この研究自体はあまり関係ない。だが、サンプル08の追加記憶はまさに活性脳保管技術と同じようなものだったろう」

 。研究で扱うサンプルには、事故や病気で開頭手術が行われる患者が選ばれ、それぞれ個別の記憶が追加される。同時に脳の働きを観測する小型の機器も埋め込む。もちろん本人には知らせない。

 そしてこのサンプル08に追加された記憶は、『事故にあった自分は、マッドなサイエンティストたちに脳だけが取り出され水槽の中で保管されることになった。事故後の彼の生活は、意図的に与えられた仮想世界のものである』というものだった。『水槽の脳』という思考実験を実証的に検証しようという悪趣味な記憶だった。

 つまりサンプル08の少年も、記憶が追加されただけで、現実に四肢を持った生きた人間だった。植物状態から助かったのは奇跡的だが、彼の意識の中ではその時点で仮想世界にいると思っている。マッドなサイエンティストも、水槽の脳も、仮想世界も、本当は存在しないのに。

「脳が四肢を離れて生かされていることを本人が認知している時、いったいどんな結末が訪れるかを知りたかったんだよね。自分の生き死にが他人の手に握られている状況、いつ培養液から脳が取り出されるか分からない状況で、人間がどういう結末を選ぶのかをさ」

 白衣の男はため息をつきながら言う。

「その結末がこれですか」

 白衣の男がモニターのリモコンを操作した。サンプル08のモニターが巻き戻され、そして映像が始まった。


 電車の踏切が映っている。夕方らしく、黄色と黒の遮断機が、オレンジ色の陽光に暖かく包まれている。しばらくすると警報機が鳴り響き、警告ランプが点滅する。遮断機が下り始めた。同時に、画面の手前から一人の少年が現れた。映像は少年の背中を映しており、その表情を読み取ることはできない。

 遮断機が下りきると、少年は足を止めた。電車の音が近づいてくる。少年は再び歩を進めた。ためらう様子もなく遮断機をくぐると、線路の真ん中に立った。すぐ横に迫る電車を見向きもせずに、遠く斜め上を見るようにして佇んでいる。そして電車は彼の体を砕き、吹き飛ばしながら通過していった。


     ※


 二週間家から出ていない。

 僕がいつまでこの世界にいられるのか、いつ水槽から脳が取り出されるのか、つまりいつ死ぬのかが分からなくなってから、ずっと家に引きこもっている。

 僕はいつ死ぬのだろう。

 いやむしろ死ねないのではないか? 例えば僕がまた事故にあって体がバラバラになったとしても、僕の脳はここじゃないどこかで生かされているのだから、結局僕は死ねないのではないか? いつの間にかまた別の体や世界が作られているかもしれないではないか。

 そう考えてから僕は、学校の先生も友達も、母さんも父さんも妹も、みんなが怖くなってきた。どうして偽物なのにあんなに生き生きしているのだろう。本当に生きているみたいだ。僕はもう、脳以外は死んでいるのに。

 なんでもないコンクリートの道路も、木々も、地面も空も恐ろしくなった。みんなは、この世界が僕のために作られた仮想世界であることを知っているんじゃないか? 世界は世界自身が偽物であることを知っているんじゃないか? 僕に向けるその無垢な笑顔の裏で、すべて偽物であることをひた隠しているだけではないか?


 気づけば家から飛び出していた。「出かけるの?」と背中越しに母さんの声が聞こえた気がしたけれど、今はその声からも逃げたかった。

 夕焼けに包まれる住宅街は、その町景色だけで少しホッとするような気がする。さっきまで夕立が降っていたようで、あたりに雨の匂いを感じる。水平線に融けていきそうな夕日は、五感だけで感じるもの以上のものを僕に与えてくれるような気がする。だけどそうだ、偽物だ。あの綺麗な夕日も、オレンジ色の薄い雲も、雨の匂いも、全部僕の脳の中で再現されているだけの仮想世界で、偽物だ。


 ずいぶん歩いた。踏切の前まで来ると、遮断機が下りた。

 もしここで電車に飛び込めば、僕は違う世界へ行くのだろうか。それとも、この世界に戻ってくるのだろうか。あるいは死ねるか。

 僕は死にたいのか?

 いや違う。死にたいわけじゃない。

 夕日が目に染みる。唐突に幼いころの記憶がよみがえる。いつかこんな素晴らしい夕日の中で、どこか知らない洋風の庭にいたことがあった。大きな庭の、白い鉄製の東屋で、年の離れた従姉と話した。僕はその人が好きだった。小学生の頃、隣の家の女の子とよく遊んだ。もう引っ越してしまったけれど、あの子の名前は何だっけ。家族でバラ園に遊びに行ったことがあった。あの時父さんはビデオカメラを落として壊してた。家の庭で自転車の練習をして膝を擦りむいた。父さんとキャッチボールしていて、家のガラスを割ったことがあった。友達と公園で遊んでいて、鉄棒に頭をぶつけて泣いたことがあった。

 どれも夕日の中の記憶だった。

 微笑ましくて思わず吹き出すところだった。

 いつ死ぬのかなんて分かっているほうがおかしい。僕は正常だ。みんなと同じだ。

 だがこの世界は偽物だ。みんなも偽物だ。

 にわかに記憶が薄れていく。先ほどまで鮮明に思い出された記憶が消えていく。自分がどこにいるのか分からなくなる。地面が妙に柔らかい気がする。空が近い。何も聞こえない。雨の匂いも感じない。不思議な浮遊感。僕の腕も足も、自分のものではないような気がする。無機質。無色。夕日は色を失っていった。僕のクオリアは急速に失われていった。色が失われた世界は何も見えなかった。黒くも白くもなかった。そこに夕日はあるのか?

 やがて電車が僕の体を弾き飛ばしていった。

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