メロウ・ヘッド・ハンター
酒屋のカウンター席に、二人の男が並んで座っていた。
「明日山狩りに行くけど、お前来るか」
身なりのいい方の男はもう一方の男の同僚で、毎週末になると決まって、彼を狩りに誘う。そしていつも通り、酒屋の老店主はわざとらしく音を立てながらグラスを洗って聞いていないふりをする。
「パスだ」
誘われた男は、そっけなくそう答える。すると、これもまた何度も聞いた驚きの声を同僚があげた。
「相変わらず付き合い悪いな。なんか欲しいものとかないわけ?」
「欲しいものだって」
「欲しいものは欲しいものさ。今の給料じゃ普通に暮らしていくのも精一杯だろ。たまには車とか時計とか買い替えたいものじゃないのかよ」と、同僚は、入社数年の彼には身の丈に合わないジョルジオ・アルマーニを袖口からちらつかせながら言う。真新しいベゼルが照明をギラギラと照り返す。
確かに週末二日山狩りに入れば一か月でもかなりの金は得られるだろう。運が良ければ本業の月収よりも高くなる。明日一日狩りに出るだけでもスーツを新調するくらいの金は手に入るかもしれないし、あるいは、踵の擦れてきた革靴を買い替えることだってできるだろう。
そこまで考えてから男は、いまだにガチャガチャとグラスを洗っている老店主の、険しく皺の寄った横顔を一瞥して、短く息を吐いて答えた。
「いいや、今は特にないね」
「まあいいさ。お前の分まで稼がせてもらうことにするよ」
そう言って同僚は、ジョッキのビールを傾ける。上下する彼の喉仏を見流しながら、男は何気なく聞いた。
「いつから狩りを?」
勢いづけてジョッキをカウンターに叩きつけながら、同僚は得意顔をして答える。
「あー、大学の時だから六年前くらいかな。その時はまだ町で獲物も見つかったし、サークルの仲間と一人狩ったのが最初か」
「今はもう町にはいないか」と、男は口に出してから失言したことに気付く。だが、老店主に一瞬怯えた視線を投げかけられただけで、同僚は気づかなかったようだった。
「さすがにな。山に入るのはそれだけで金かかるから嫌なんだけど、見返りが大きいからな」
男は少し大胆になってさらに聞く。
「答えてくれなくてもいいけど、親は」
「ああ、年齢がまだだ。でも、じいさんばあさんはもうやった」
同僚の視線は虚空をさまように定まらなかったが、それが酔いのためか、それとも別の理由があってなのかは分からない。
「親もやるのか」
「それって、親も狩りをやるかってこと?それとも親を狩る予定かってこと?」
「狩るのか」
「さあね。その時になってみないと分からん。それよりも」
と、同僚は半ば身を乗り出すようにして言う。
「それよりも、お前の親はどうなんだよ」
立ち入ったことを聞いた報いが早速訪れたことに内心動揺しながら、男は平然を取り繕って答えた。
「残念ながらもう狩られたよ」
「お前が狩ったんじゃなくてか」
「ああ、気づいたら狩られていた」
「そうかい。いや、悪いな、嫌なことを聞いて」
本当に悪びれるように言葉を濁す同僚に、男は同情とも罪悪感ともつかぬわだかまりを感じた。そして、自分に言い聞かせるように言った。
「珍しい事じゃないだろ」
それから何杯か飲んだ後、狩りの準備に帰る同僚と別れて、男は帰途についた。
少子高齢社会改善基本法とその関連法、通称『首狩り法』が発効したのは十年前である。
基本法はあくまで、少子化を改善するためのものという体裁をとっているが、そこには婉曲に表現された目的しか記されていない。同時に発効した関連法には、一連の法の最も中心的な、実際の法適用に関する事項が定められている。
すなわち、老人を殺してその首を自治体に差し出せば、一人当たり三万エランコを受け取ることができる、という相対的な少子化改善の方策である。『殺害』という言葉は極力使われず、『狩猟』という前時代の言葉が代替する無機質な法文は、次第に『首狩り法』と呼びならわされるようになった。
発効時の『狩猟』の対象は七十五歳以上の人間に限定されていたが、かつてのベビーブームで極端に人口の多い世代が、年金や手厚い社会保障の対象になり始めると、その適用年齢は段階的に引き下げられてきた。
今では、六十歳以上の人間が『狩猟』の対象である。
アパートに戻った男は、部屋の電気をつけると、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
そして、枕に頭を押し付けたまま、彼は考えた。
男と同年代の人間の中には、その親が狩りの獲物となる場合が出始める。現に、親を狩られた者も、自ら狩った者も男の知り合いに少なくない。
町ですれ違う人間どころか、家族まで信用できない状況に追い込まれた老人たちは、住み慣れた町や家を捨て、次第に山間部や過疎地へ移住するようになった。
町にいて狙われる可能性が低いのは、個人商店を商う自営業者や、特定の公務に勤務する職員、それから若年層の少ない農家などだが、彼らとて全く安全なわけではない。彼らの職業を知らぬ人間からすれば、例えば、彼らの通勤の様子は、見るからに年老いた恰好の獲物が、狙ってくれと言わんばかりにうろついているようなものなのだ。あの酒場の老店主は、とうに獲物の年齢に達しているが、店を好いている馴染みの客が多いことが幸いして、酒場の隣のプレハブで暮らしている限り、狙われることはなかった。
そしてそれ以外、つまりいつでも狩られる危険と隣り合わせの老人たちが、獲物を探す視線から逃れるためには、もはや国を捨て、亡命するしかないのだ。出国は制限されていなかったこともあり、もとより国から捨てられた者たちの中で、亡命をためらうものはいなかった。だが、その財力すらない者たちは山奥で外敵に怯えながら、煙突から煙も出さずに暮らすしかなかった。
男は、さっきまで同僚と交わしていた会話を思い出していた。欲しいもの。なくはなかった。スーツや革靴を新調したいし、車だって欲しい。この狭いアパートからも引っ越したかった。
何を思ったのか、男は俄かに立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。そして、中から大きなリュックサックを取り出すと、手当たり次第に物を詰め込み始めた。タオル、下着、携帯コンロ、小型鍋、レトルト食品、魔法瓶、携帯端末のバッテリー、それから縄、ネイルハンマー、小型のナイフ、鉈。これらを最後に使ったのは、もう数年も前のことであった。
続いて彼は、携帯端末で地図を開き、目的地を入力した。画面に灯されたマーカーは、はるか地方の山の中にあった。
山狩りの準備のさなか、男は意識して無表情を作っていた。だが、ナイフの刃を確認するときや、目的地への行路を考えるなかで、彼は時折寂寥感と罪悪感とを混ぜ合わせたような痛切な表情を浮かべた。
翌日未明、彼は出発した。始発の電車で五時間、降車駅近くでレンタカーを借りて三時間、登山口に車を停めて彼が山に入ったのは、もう日が西に傾いたころだった。
鬱蒼と茂る土色の木々の中を、傾斜した獣道がうねっている。だが、その獣道はよく見れば、ところどころ人の足跡や荷車の轍が残っており、定期的に人間の出入りがあることが知れた。事実、山に逃れた老人たちに日々の食糧を届けているのは、麓に住む善意の農家だった。
二時間ほどその荒れた道を歩き、途中で脇の獣道に入ると、林の隙間から保護色になった民家がぽつぽつと見え始めた。そのほとんどはもう人も住んでおらず、荒れるままになった庭の畑や、朽ちて崩れかかった戸口が、このあたりの獲物がほとんど狩り尽くされてしまったことを示唆していた。だが、男は知っていた。この先もう少し進めば、人の住む家のあることを。彼の両親が住む家のあることを。
彼は昨夜、同僚に嘘をついていた。
両親はたしかに獲物の年齢を超えていたが、その歳を迎える前にこの山奥に逃げ隠れていた。八年前のことである。越してくる以前、すでにこの山では大々的に狩りが行われ、先住者はほとんど残らず狩られ、それ以降多少の報酬目当てでこの奥地まで入ってこようとする者はいなかったのである。
わざと外見を廃屋同然にしたその民家からは、ほのかに芋を焼いたような匂いが漂っていた。男は、民家の戸口を前にすると、一度大きく息を吐いてから、なんと声をかけるべきか迷った。ただいま、と言うのはおかしいが、かと言って、狩りに来たとも言えない。そもそも男は、本当に狩りをする気で来たのか、自分でもわかっていなかった。
男がしばらくその場で躊躇っていると、不意に音を立てて玄関の引き戸が開かれた。中から出てきた老女は、男の姿を認めると、目を見開き、顔を青ざめ、慌てて家の中に引っ込んだ。彼は、その老女のあまりに惨めな様子になにか叫びたくなるような衝動を感じながら、しかし怯えさせないよう囁いた。
「母さん」
間を置いて引き戸の影から顔をのぞかせた老女はいまだ疑うような視線を男に向けていたが、ようやくそれが自分の息子だとわかると、今度は驚きに目を見開いた。
「どうしたんだい、こんなところまで」
八年ぶりに聞く母親の声が、思い出よりもずっとしわがれていることに、彼は内心で大きな衝撃を受けながら答えた。
「いや、なんとなく」
彼が八年間両親の元を訪れなかったのは、知り合いに親が健在だと悟られる危険や、近くにいればいつ手にかけてしまうかが自分でもわからないことへの恐怖があってのことだった。年に数回手紙は届いたが、こちらからは送らなかった。
「とにかく入りなさい」
言われるままに玄関をくぐり居間に入ると、座布団に座った父親が迎えた。父親は、母親と同じような驚きの表情を見せたあと、大きく口を開いて笑った。地の底から響くような笑い声だった。
「誰かと思ったぞ。少し太ったな」
そう冗談めいて笑う父親は、しかしどこか緊張を隠しきれないようだった。
夕食を親と共にすると、男は使われていない一間を借りて寝床にした。
リュックサックは家に来てからまだ一度も開けなかった。
翌朝、男は起きると居間に入った。まだ両親は起きていなかった。
朝食を作ろうかと考えたが、台所に行っても食材はおろか、調理道具すらろくに見当たらなかった。まな板と錆びかけた包丁だけが調理台にぽつんと置かれている。
仕方なく彼は、居間に置いたリュックサックからレトルトのシチューを取り出した。コンロに置かれた、かろうじて使えそうな鍋に水を入れると、彼はコンロに火をつけた。水は近くの川から持ってきたものだが、ガスは使えるようだった。
湯が煮えるまで、所在無げに彼は台所の窓から外を見やった。丁度正面に小さな畑があり、簡単な野菜が植えられている。山芋らしい背の低い植物が、他の畝にまで侵食しながら枯れかかっていた。
ふと、彼は気配を感じて、居間の方を振り返った。
父親が、黙ってこちらを見ている。
その足元には、ナイフのこぼれ出たリュックサックが倒れていた。
鍋の湯は音を立てて煮えたぎっている。
男は黙って父親を見返した。子供がいたずらを発見されたような決まりの悪さと恐怖を抱いていた。また、それを懸命に弁明したとて、取り返しのつかい溝が親子の間に生まれたことへの確信に、自分の浅はかさを呪った。
「親父……」
父親は短いため息をついて言った。
「いい、いい」
そして、父親は座布団を居間の窓に引き寄せて座ると、男に背を向けて、窓の向こうに限りなく続く竹林を眺めた。
「なにか事情があるんだろう。言わなくてもいい。謝らなくてもいい。いい、いい」
唸るような低い声に、男はなすすべなく立っていることしかできなかった。
「俺はいい。だがな、母さんは、母さんはやめてくれ。母さんは、お前の母さんである前に、俺の……」
それきり父親は、口を閉ざしてしまった。
一体何故、こんなところまで来てしまったのか、彼にはやはりわからなかった。だが、狩りの報酬を正当化する言い訳と、それを拒絶する意思とが互いに彼の胸に去来した。同僚に言った自分の言葉が脳裏に蘇る。たしかに彼が今欲しいものなど、数年、数ヶ月我慢すれば買える程度のものだった。だから金を稼ぐために狩りをしに来たのだとは、思いたくなかった。また一方で、親の存在を秘匿しながら生活することに、言い知れぬ不満や鬱憤めいたものを感じていたことも、彼は認めたくなかった。
彼は後ろ手に作業台を探った。錆びかかってざらざらとした金属に、彼の指が触れた。
父親はただ静かに、介錯を待つかのように項垂れていた。
男は包丁の柄を力強く掴んで、手放し、また掴んだ。
鍋の湯は音を立てて煮えたぎっている。
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