僕と私

『性同一性障害とは

   見目麗しき女編集者が自ら語るその現実』


 先日、知り合いの他社の編集担当にとある依頼を受けて、この雑誌に寄稿することとなった。僕自身編集者であるし、名前は伏せるという約束でこれを受けることにした。

 依頼の内容は「性同一性障害の悩みを語ってほしい」というものであった。確かに僕が掛かっている精神科のカルテには性同一性障害の病状が記されているだろうが、あいにく僕はこれを病気だとは思っていない。



 はじめに断りを入れておこう。

 僕は、生物学上は女であり、アイデンティティ(同一性)は男である。

 そして僕には、性別が外見と中身で違うことによる悩みは、今はほとんどない。



 なんでも最近は『性別違和』とも言うらしいが、僕が最初に、自分の性別が一致していないことに気付いたのは、小学校高学年の頃だったと記憶している。周りの女の子たちが、お洒落に気を遣うようになって、しきりに服とアクセサリーの話や、気になる男の子の話をするようになると、僕は彼女らの話すことにまるで興味を持っていないことに気付いた。すると、それまでは意識していなかった丈の短いスカートや、腰まで伸びるかという長髪、次第に現れ始めた女性的な特徴に、急に不快感を覚えるようになり、子どもながらに、自分が周りの同性の子たちと違うことに感づいた。


 僕の自覚に反して、両親は僕のことを、単にボーイッシュな女の子だと思っていたらしい。中学生になって、制服のスカートを着ざるを得なくなった僕が、両親に、私服中学への転校をお願いしたとき初めて知ったそうだ。幸い両親は物分かりが良く、数週間後には引っ越さなくても通える距離にある私服中学への転校の手続きを終えた。


 高校も私服で通えるところを選んだ。僕は自分の中身が男であることを包み隠そうとはしなかった。寧ろ学年が変わるたび、私は自己紹介のときに一言、「僕は見た目は女、頭脳は男です」とだけ言えば、興味に惹かれた人々が話しかけてくれたし、僕が性別違和であるだけで、一般的な物ごとに感じることや考えていることが周りと大して変わらないと分かると、多からずとも友人はできたし、恋人――女の――がいたこともあった。



 基本的に性別違和はその人の性的指向とは区別されるものである。つまり、見た目は男、中身は女でも、中身の女が同性愛を指向するのであれば、恋愛の対象は女であり、男の見た目と一致する。だが、僕は意識上男であり、性的指向は女であるので、見た目上は一致しない。


 恋愛対象が女である僕の、ただ一つの悩みと言えば、僕に言い寄る男たちが何度かいたことだ。厄介なことに、僕の外見は、今の僕からすれば――こう断りを入れる理由は後述しよう。これこそ今の僕が性別違和でありながら満たされている理由であり、またこの小記事で書きたいことであるからだ――、美しいの一言では言い表せない、特別の魅力を含んだものであったのだ。


 僕に言い寄る男たちはいつもどこか勘違いをしていた。例えば僕は、単に「僕」と自称する、中身は女寄りの人間だと思っていたことがある。一部の人では「ボクっ子」というらしいが、あいにく僕は僕、男の僕だ。生物学上は女であり、僕が付いていてほしいものが付いていないからと言って、意識までそれに合わせることはできない。僕にあらぬ期待を抱いたその男は早々に諦めていった。


 また例えば、僕が意識の深層に女としての自分を備えていると思っていた男がいた。男は僕を人気のない場所に連れ出して、行為をはたらこうとしたことが何度かあった。当然僕は嫌悪感を抱いて、その度に彼を拒絶した。だが男は無理強いすることを止めようとはしなかったし、時には暴力に訴えた。もしかすると、男はこう思っていたのではないだろうか。僕が心の奥底では女であり、虐げられることでそれが発露するのではないか、と。男は僕を嬲り、弱気になり、しおらしくなり、(その男の考える)女になった僕を凌辱しようとしていたのではないか。まあ単純に、性欲のはけ口に使おうと思っていただけかもしれない。



 何度かそういう、僕を勘違いした人々に詰め寄られたことはあったものの、僕が彼らの手に落ちず、なんとしても抗ってきたのには理由がある。

 僕には愛してやまない人がいるからである。



 僕に女の恋人がいたことを先述したが、彼女とは早々に別れた。原因は簡単なことで、お互い肉体的欲求を処理しきれなかったからである。僕だって、その頃は自分の女の体に嫌悪感を抱いており、できることなら早くにも、手術で乳房を切除し、子宮を摘出したいと考えていたのだ。


 だが転機は突然にやってきた。

 その頃僕は、大学に進学し、数は少ないが僕のことをよく理解してくれる友人に恵まれ、安穏な生活を送っていた。本が好きで毎日のように図書館に通っては、一日一冊のペースで文庫本を読んでいた。


 ある夏の日、僕がお気に入りの、いつも人が少ないスペースの高い椅子に座って、カフカの短編集を読んでいた時のことだった。眼鏡の位置を直す自分の左手が、まるで他人のもののように、頬の産毛を撫でた感覚を覚えた。僕はどきりとして、一度自分の掌を見つめた。今度は頬を撫でるように、指を這わせた。

 ゾクリと、産毛が逆立ったのが分かった。背中を、言いようのない快感が這い上がるのを感じた。

 僕は文庫本を鞄にしまうと、手近なトイレに駆け込んだ。鏡の中の自分が、いつもとはまるで違って、魅力的に見えた。線が細く白い顔には細縁の眼鏡が、まるでその一部のように自然に映えている。夏の薄着とはいえ、男物の白い七分袖のサマーニットからのびた透き通るような細腕は、浮き出た汗にしっとりと輝いていて、首から鎖骨にかけては陶磁器のように滑らかで、自身の目さえ釘付けにするようだった。それまでは違和感と嫌悪しか感じなかったもののはずだった。

 僕は戸惑いつつ、右手で左腕を撫でると、腕のひんやりとした柔らかさが右手に感じられ、また掌の温もりが這う心地よさが腕に感じられた。触れる場所と触れられた場所、そのどちらもが自分のものでありながら、それとはまた違う誰かのもののようにも感じた。


 僕はその快感に思いあたりがあった。かつての恋人と肌を触れ合わせたときのものだ。

 まるで女としての『私』が、男としての僕を愛撫するかのようだった。すべて男の意識で動かしているはずなのに、触れる女の体には女としての、包容する温もりがあった。



 その後久しぶりに、以前僕を担当していた精神科医のもとを訪れた。彼が言うには、特定不能の解離性障害の一種かもしれないが、前例がないので診断が難しいという事だった。心因性であることは間違いないだろうが、何がきっかけでその状態なったのかは分からないそうだ。解離性障害とは酷く平たく言ってしまえば、自分が自分であるという感覚ができない状態であるらしいが、僕自身そのようなことはない。記憶が抜け落ちてもいなければ、いつでも自分の意思で自分の手を動かせる。だが僕は、僕自身の体に特別な魅力を感じているのである。まるでそこに僕とは違う、女という意識を持った私がいるような感覚がするのである。



 僕はそれから、男らしい格好をするのをやめた。

 短くしていた髪を伸ばし、スカートも履き、化粧もし、女としての見た目を尊重するようになった。手術を受けようとも、戸籍の性別の変更もしようとは思わない。

 そして鏡を見ては、そこにいる女の私を認め、愛している。僕は私を愛し、私も僕を愛しているのである。僕はただ一人の人間であるが、そこには男と女、二人の自分が存在し、互いを愛しているのである。


 僕は幸運に恵まれただけであろう。

 そんな僕が、読者の中の、同じく性同一性障害を持つ方々にアドバイスを申し上げることはできないし、失礼にもあたるだろう。

 このような自分語りを雑誌に寄稿するのは忍びないが、これが本当の僕の現実である。あとは編集担当の友人におまかせする。



 PS. 編集担当者 ――――へ

 ご結婚おめでとう。

 一部君の話を載せてしまったが、気になるようなら訂正の返事を寄越してくれ。だができればこのままでお願いしたい。できる限り当時の状況は伝えたいし、君との交際も僕にとっては大切な思い出なのでね。

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