第73話 第2章4 地を這えば兎がいる

 


―――――魔界、淫魔族領内はルリウスの娼館。


「今日の予約はどんな感じ?」

「3件。そっちは?」

「1件だけよ。昨日が多かったから、少ないのはありがたいわぁ」


「ううーん、やっと終わったぁー」

「お疲れ。嫌なお客だったみたいね?」

「キメラ系の相手って面倒なのよねぇ…どこが何なんだか分かりづらいしさ」


「今日の館周りグルリの掃除担当は?」

「レンレのはずだけど……あ、接客中だわあの子。しゃーなしだからアタシやっとくわ」

「お願い。もうすぐ予約の団体さんが御付きになる時間だから、ちょっと急ぎでね」



 広大な娼館はどこもかしこも賑やかだ。接客中でないスタッフも同僚と雑談を交わしながら次の予定に向けて移動するなど、準備に忙しなく動いている。

 そんな様子を、彼――――ワラビットのシャッタは、唖然として眺めていた。

 場所柄もあるだろうが、さすがは淫魔族。タイプは様々なれど、往来する異性達の容姿はいずれも魅力に溢れている。ワラビット族とて外見に優れている種族と言われて久しいが、そんな種族の出たるシャッタの目にも、思わず時間と思考を忘れてしまうほどだった。

「ほら、シャッタ君。キミにぼーっと鼻の下伸ばしてる暇はないわよ? ルリウス様にこき使えって言われてる以上はビシバシ働いてもらうんだからね?」

「あ、はいっ…よ、よろしくお願いしまっす!!」


 先のウンヴァーハの件。淫魔族が族長クルキルラ=ルリウスの協力により、脅威は驚くほどあっさりと去った。しかしシャッタは、改めてお礼を述べるべく彼女と面会した時、周囲も驚く申し出をした。


 “ 淫魔族に学ばせてほしい ”


 それはシャッタなりに考えた、ワラビット族の未来を思っての行動だった。

 彼は、ワラビット族の各村にいる長老達も、種族内で最高の爵位を有するミミ様も、今後のワラビットの繁栄に寄与する存在とはどうしても思えなかった。


 それに比べての淫魔族である。

 歴史を振り返れば、同じ不幸不遇の時代を経ている種族でありながら両者の繁栄、その今日こんにちにおいての差は、頭の悪いシャッタにすら理解できるほど明らか。

 特にルリウスとの面会と、彼女の影響力を目の当たりにした事は、シャッタにとって、自分達と彼女達の差を決定的だと感じさせるほどの衝撃だった。



 当初ルリウスは困ったように笑い、やんわりと断ろうとしたがシャッタが強く願ったために、仕方あるまいと彼の望みを叶えた。


 “ 丁稚奉公という形で働いてもらう ”


 当たり前だが、お客待遇で受け入れてもらえるわけもない。いくら他種族の者とはいえ、長期滞在で居座る事になるのであれば、相応の存在意義を求めて当然だ。具体的には、淫魔族のために働けという事である。

 ましてシャッタはただの一般人。その身分はこの娼館に訪れる客よりも低い。

 そのためルリウスは、表向きは留学生という形式で受け入れるも、彼を自分の直営娼館の丁稚に配した。そもそも淫魔族の今日の繁栄を支えるもっとも太い柱は、娼館を中心とした水商売・淫商売による収益である。

 なればここで働かせる事が、彼自身が望む事をもっとも学べる場であろうと判断したのだ。


 しかし彼を待っていたのは、学びを感じ得る暇などない多忙の極みたる戦場のような現場であった。


「シャッタ君、タオル足りない。大至急30組、下の倉庫から持ってきて」


「2Fの廊下掃除はどうしたの? さっと済ませないとダメよ、お客さんが通る時には出来ないし、印象も悪くなるんだからね」


「下働きがそのマットを踏んではいけないわ。そこは “ 上客 ” が履物を置く場所なのよ、気を付けて」


「あ、そこのウサギくーん、こっちの部屋にお酒追加。5分以内に持ってきてねー」


「中央をウロウロしない! 端を歩きなさいなっ!!」


「酔ったグリン緑肌ドウジ和鬼のお客様、足取りがおぼつかないから、玄関まで運び差し上げて。くれぐれも丁寧にね」


「その窓は雑巾で拭いちゃダメよ、上等な紙が張ってあるんだから。こっちのハタキで丁寧に表面をはらうの、くれぐれも破いちゃダメよ」


「料理できあがったから持って行って。中央塔18Fの特別室よ、落とさないようにっ」




「……ぜぇ、…ぜぇ、…こ、こんなにキツい…とか…マジか…ぜぇ、ぜぇ…」

 最初の1日で、シャッタの中の娼館のイメージは完全に塗り替わった。淫靡で優雅な場、綺麗な女性が富裕客や権力者を相手取り、夜な夜なくんずほぐれつ…

 確かに、確かにその通りで間違いはない。が、それはあくまでも客側が目にする表の部分だけでしかない。

 プロ意識をその心に叩きこんだ淫魔族はじめスタッフ達による真剣勝負の職場―――それがこの娼館、真の姿なのだと思い知る。

 行き来する彼女達の表情には淫らな商売に従事している事への後ろ暗さは微塵もない。それは淫魔族だから、という理由だけではない。ひとえに仕事に対する “ 誇り ” があるからこそだろう。個々人の意識すらこのレベルだ。果たして自分の種族の皆はここまでの気概をその心に宿しているだろうか?

「……やっぱ、違ぅわな」

 ようやくもらえた休憩時間。自分が娼館という、男なら心浮き立たずにはいられない場所にいる事すら忘れ、ワラビット族自分達と淫魔族の差をこんなところでも痛感させられて、ただただ呆然としながらヘタり込む。


 ワラビット族は、種族として今もさほど高い地位にはない。ハイトとアラナータが遭遇した先の不幸がいい例だ。取り決めや条約などどこ吹く風、弱小種族は現在とていつでも危険に晒されている。

「はぁ、オレらだって……それなりのつもりだった。…つもりだっただけ、かぁ」

 日頃の危機感は十分のつもりだった。しかし、それがまるで不十分であったと思い知る。

 娼館で働く人々の、仕事に対するすさまじいまでの意識と集中力でさえ、ワラビット族の危機感など軽く上回る迫力なのだ。最初からとてつもない開きがあるとはわかっていたが、種族としての差までこんなにもあるものかとシャッタは両肩を落とした。





「……ルリウス様。なぜ、あのワラビットをお受け入れに?」

 私室でくつろいでいたルリウスは、配下の問いに小首をかしげる。

「なんじゃリステート、反対かの?」

「いえ、そういうわけではありませんが……」

 何やら腑に落ちなさそうなリステートからお茶を受け取ると、軽く口をつける。

 ティーカップを皿に重ねて、そのか細い膝にのせた。


 今週は洋の赴きあるドレスに身を包んでおり、部屋も洋風にあしらわれている。そんなルリウスが趣味の空間は、いわば彼女の完全プライベートな場だ。雰囲気を壊すような話はよしてもらいたいものだがと若干の嫌気をにじませつつ、このサキュバスのおさは口を開く。

「他種族の者を取り立てるなど、いまさら珍しい事でもあるまいに」

 珍しくないどころか魔界は淫魔族の領内には現在、有象無象様々な他種族が全人口の2割を占めている。無論、固有領土内ゆえ一人一人、しっかりと身元管理された上で在住を許されている者達だ。


「それはそうですが…いえ、そういう事ではなくですね」

 リステートは、シャッタの申し出を受諾した時のルリウスの様子を思い出していた。我らが族長は、何やら深いところにワラビットの青年を受け入れる理由を見出していたように見えたからだ。その理由も、どちらかといえばあまりよろしくないものではないかと彼女は感じていた。

「……不安じゃと?」

「ええ、と…はい、まぁ…そうなのですが」

 なかなか納得しそうにない従者の雰囲気に、やれやれと両肩を軽く上下させる。

 ルリウスはもう一度カップを口に運び、今度は少し大きく傾けた。


「…ふむ、そうじゃのう。あのワラビット――――シャッタとか申したか?」

「はい」

「あの者……あのままにしておくは、少々危険だった。まぁ根拠は長年のカンというやつじゃがの」

「危険? 我らに仇なす者であればなおさら――――」

「早とちりするでない。危険なのはあの者自身にとって、という事じゃ。むしろ我らにはなんら関係せぬ、我が身の心配は不要じゃから安心せい」

 リステートが最も危惧しているのはルリウスの身の安全だ。シャッタというワラビットを受け入れて、少しでもそれが脅かされるというのであれば彼女は黙っていないだろう。

「あのシャッタとか言う者、心が陰っておる。今はまだ若いゆえの部分もあろうが、あのままこじらせては先々どうなるやらわからんでな。飛躍して考えるのであれば将来的に荒み、犯罪者に身を落として廻りまわりて、我らに多少なりとも不利益をもたらす可能性もなくはないかもしれぬが―――じゃから早とちりするでないと言うておろうにっ、まったく!」


 話の途中から、走りだしそうになっている部下を止めるのに魔力を使う。なんとなくだがこうなる事はわかっていたルリウスは、深いため息を吐いた。

「せっかくのくつろぎタイムを台無しにするでない」

「も、申し訳ありませんっ、つい…」

 リステートの狂信じみた自身への評価と支持は理解しているが、それこそ一歩間違えれば問題の火種になる。

 故にこういう時はややキツめに メッ! をしておくことを忘れない。そうすればたちまち小さくなり、大人しくなる。あとはその忠誠心の高さが自然と彼女に反省を促してくれるので、まだ聞き分けがいい。


 だが悪い意味で社会や身の周りの環境、あるいは特定人物への疑義を覚える若者は、こう聞き分けがいい者ばかりでない事も、ルリウスは知っている。

 盲目なる者は、感情と短絡的な浅慮を根拠に動きやすいからだ。目の前のリステートもその例に多少なりとも当てはまるだろう。

「…ま、最終的には本人次第じゃがな。先達者としては若者が悪い方に傾かぬよう導くも役目というものよ。もっとも他種族の小僧を手取り足取り教える義理はないゆえ、結果的にどうなるかまでは責任を持つ気はないがの」

「なるほど…そのようなお考えでしたか。さすがでございます!」

 絶対に自分の真意を理解しきっていないであろう配下に、やれやれと心中呆れながら口を潤す。加えて話題を転換せんと彼女はカップを空にし、おかわりとばかりにリステートに皿ごと手渡しつつ、改めて口を開いた。


「ワラビットと言えば… “ あの者ら ” もちょうど今頃、地上に出ておる頃合いかのう」

 リステートは最初、誰の事を言っているのか思い当たらず表情に?を浮かべる。だがシャッタというワラビット族の者についての会話よりの流れを思い返し、さらに数舜の間を空けてから、ようやく理解の色を顔に宿した。

「あの者の仲間の……確かハイト、それとアラナータという魔族の娘でしたか?」

「そうそう、かような名であったな。あれらが願い立てには良きものを感じ入ったゆえ、やはり聞き届けてやりはしたが」

 淫魔族で世話になるシャッタを送り届けるべく三度訪れてきた際、ハイトがルリウスにお願いした事は、地上へ行く事の手助けであった。


 通常、魔界と地上の行き来はかなり制限されている。きちんとした手続きと許可を得なければならないのだが、それも何かと込み入った審査などがあり、一定以上の権力者や金持ちでもなければ許可はほぼ下りない。一般人のハイト達では、ルリウスのような上位者の口添えがなければ、まず得られないだろう。


「私はてっきりワラビット族に恩を売るため、地上へ行く許可を取り次いで差し上げたのだとばかり思ってました」

「そのように狭量ではないぞ。前途ある若者に道を開いてやるにやぶさかはないでな。儂らとて迂遠ではあるが多少なりともウサギ殿ミミに関わった手前もある、良好な関係であるにしはなかろうて」

「さすがはルリウス様。深いお考え、感動致しま―――」

「やめい。まったく、そういう態度は相手にとって時と場合によっては面倒なのじゃぞ、とあと何度教えたらよいのじゃ儂は?」

「も、申し訳ありません」

「……それにのう、一応はシャルール魔獣が世話になっておる地の領主じゃ。特別どうこうする気はないとはいえ、世の義理人情を思わば少々の礼節返しは、人付き合いの習いというものじゃ」

 だがルリウスは、本当にあれやこれやと面倒を見る気はない。

 シャッタにしろハイト達にしろ、ただ彼らの願いを叶えてやっただけに過ぎない。その先は彼ら次第であり、ぶっちゃけて言えばどうなろうと本当に知った事ではなかった。


「さて、館に顔を出すとするかのう。刻限で言えばそろそろ予約客がやってくる頃合いじゃ」

 ルリウス自らが相手を務める――――当然その客は、魔界においては超上位者の紳士だ。それでも彼女よりも位や身分、立場などは下回る。

 彼女が娼館で客を取る事はそうそうない。一晩で魔界の様々な種族の長達でさえ、軽々に手出しできないほどの額が必要な上に、なんといっても魔王様の妻である。

 彼女が客に選ばれるのではなく、ルリウスが客を選ぶのだ。それでも一夜のお供を希望する男は後を絶たない。

 まさに淫魔族クスキルラ救世主ルリウスたる存在は、魔界における全ての者達の最高峰たる一角である。

 そんな彼女からすれば、シャッタにしろハイト達にしろ、至極どうでもよい存在であった。





 そんな凄い御方の助力もあって、ハイトとアラナータは今、地上の光速輸送貨物サンダーバードトランス発着場ポートにいた。

「よし、許可証は確認した。ようこそ地上世界へ、ってな。ほらよ」

「ありがとうございます」

 本来は貨物のみしか行き来しないこの発着場に、旅客向けの設備やサービスはない。二人が降り立ったプラットホームは、そこらかしこに荷物の山が積み上がっていている。

 そもそも旅客を前提としていないこの場には、団体ツアー客向けに極々稀ながら客車仕様の荷台を引くサンダーバードが着く事こそあるが、そんなものは万に1度。二人はいつもの貨物と一緒に乗せてもらってやってきたクチだ。


「しっかし、ワラビット族に…そっちのお嬢ちゃんは魔族かい? わざわざ魔界から地上に来るなんざ珍しいねぇ。よく許可通ったもんだ」

 ポートのスタッフの言う通り、魔界で生まれ暮らしてきた者の多くは、さほど地上に興味がない。魔王城に許可を申請しなくてはいけない上に審査は厳しい。

 自分からやって来ようという意欲に満ちているのは、せいぜい地上の古代文明の跡を狙っての冒険者や探検家、あるいは豪勢な長期旅行を楽しもうという金持ちくらいのもの。何の変哲もない一般人のハイトとアラナータのような来訪者は珍しい部類であった。


「将来のためにも未知の世界を知っておくのは勉強になると思いまして」

「はは、そうかい。若いのに感心なことだ。けど、アテはあるのかい? 地上は魔界よりも未開なところだ。それでいて…まぁ魔界ほどじゃあないが、かなり広い世界だぜ、しかも危険だって多い。大丈夫かい?」

「が、頑張りますっ」

 彼の話に少し怖気づいたのか、アラナータが緊張気味に答える。それを見てスタッフは、脅かし過ぎたかと後頭部をかきながら、高らかに笑って見せた。

「ハッハッハ。まぁ金があるならスレイプニル・バスなんてぇ移動手段もあるからよ。なくても人通りのある街道以外に行かなきゃ、早々危ない目にゃ合わないから安心しな」


「親切にありがとうございます。あ、一つ訊ねたいのですが……ここからアトワルト領に行くには、どのような道を辿るのがよいのでしょうか?」

「! ああ、ワラビットだもんなお前さん。まずは女神ちゃん・・・・・とこに顔だしってわけかい?」

「? め、めがみちゃん…ってなんですか??」

 アラナータは予想外なワードに目をパチクリさせながらスタッフの男を見た。ハイトもおおよその検討こそついているが、どういう事なのか不思議に思って彼を伺う。

「ああ、ここの野郎ども―――あー、俺らの間じゃあ、アトワルトの領主さまは女神様扱いなのさ。可愛くてスタイル良くて、高貴な存在で…まぁ、魅力あふれる御方ってなカンジでな。直接会ったりしたこともねーってのによ。ハッハッハ、男の性ってやつだな」

「はー……そ、そうなんですか」

 愉快そうに笑っているスタッフだが、アラナータはいまいち掴みきれない。その隣では、ハイトが軽く目を輝かせる。

 ワラビット族自分たちほまれたる方が人気がある事は素直に嬉しいし、未知の地上に赴任してからも人心を集めている事が、同じワラビット族として誇らしかった。


「で、アトワルト領への行き方だったな? ここを出ると俺らが暮らしている小さな村がある。そこで簡単だが街道が載ってる地図があるから、金に余裕あれば買っときな」

 言いながら軽くウィンクを飛ばす。できれば買ってくれるとありがたい、というおちゃらけが彼の態度には含まれていた。おそらくはその地図は彼の副業か何かで制作したものなのだろうと推察し、買うかどうかは別として、ハイトはとりあえずの愛想笑いを返す。

「んで、村から出てすぐ目の前にある街道をずっと西に向かって歩きゃ、1週間くらいでナガン領ってとこに入るはずだ。その隣がアトワルト領。とにかく街道を西に向かい続けてりゃ、いつかはたどり着けるさ」

「道自体は、そんなに複雑な感じではないんですね」

「ああ。もっとも、歩きじゃかなり時間かかるのは間違いねぇな。街道を外れさえしなきゃ迷う事はまずないが道中何泊もする事になるぜ、旅費にゃ気を付けなよ。お二人さんは野宿するにゃ適してなさそう・・・・・・・だしよ」




 一通りのアドバイスを受けて、ハイトとアラナータは発着場から村へと移る。発着場は巨大な倉庫のような無機質な造りであったのに対し、歩いて数十歩の間をあけて併設されている村は温かみのある木造りの塀と家屋が立ち並び、のどかでどこかホッとするような造りだった。

 しかしさすがは魔界と地上を結んでいる場所の最寄だけあって、木造家屋30軒程度しかない村の中央を南北に抜ける道は、大きな荷や馬車、そして人が盛んに行き来している。




「こっちはいっぱいだ! 次のを待ってくれっ」


「地上もなかなかよかったねぇ。お土産の配送手配も済んだし、お昼を食べていこうか」


「どいたどいた! 急ぎの荷だ、道をあけやがれ!!」


「グレートライン麓まで一番近い道は…」


「そっちの荷はナガン行きだ! そっちもあっちもナガン行き…おい、その荷物もだぞ、載せる馬車間違えんなよ!!」



 何かの業者か、商人か、観光客か、探検家か……様々な人々が、そこらかしこで己の目的に沿って行動している光景。彼らが放つ熱気が、村の入り口の外にまで伝わってくる。

「……すごい」

「なんというか、不思議な光景だ…な」

 二人は思わずポカンとしてしまい、その場に佇んでしまった。アラナータは魔族とはいえ田舎村の出であり、ハイトは繁栄のほど芳しくない弱小種族ワラビットの一般人。

 一見すればのどかで小さな村そのものには親近感を覚えるのに、多くの人や物が行き交う活気が放つ雰囲気は、二人にはまるで縁遠いものだ。

「と、とにかく今日は村で宿を取って落ち着こう。見知らぬ土地で昼間からの出発は軽率だろうし」

「う、うん。すごく賛成、かも…」

 次の町や村までどのくらいで移動できるのかもよくわからない。まさに地上ビギナーな二人は、村の活気にあてられて萎縮してしまっていた自分達の心に、慎重という名目を与えることで、ようやく村内へと足を踏み入れることができた。








―――――――ゴルオン領、首都最寄の廃村。


 大地が痩せ細り、実りを失った土壌。

 首都に近しいにもかかわらず、主たる街道が整備されていないおかげで訪れる者も少なかったその村は、現在誰も住んではいない。

 廃れた農業、暴政による貧困…村人達が他所に移るのは当然のこと。そして住人がいなくなってから何年と放置された村は、皮肉にも雑草が生い茂り、痩せた土壌に自然の力が戻りつつある事を示していた。

 そんな村にいるのは現在3人。モーグルとアレクス、そして獣人の少女のみである。

「! ……アレクス、だよな?」

 聞きなれた足音と壁の隙間から覗く体毛や影の大きさから、誰だかわかっているにも関わらず、この小心者な土竜人は確認せずにはいられなかった。


「ああ、今戻った。少女の容態は?」

 彼らはゴルオン領の首都より離れ、この無人の村に居を構えていた。

「小康状態ってやつだな。もう少しマシな環境に連れていけりゃ回復も早いかもしんねーけど、むやみに動かすのは今は危険だ」

「ふむ、確かに。少なくとも意識が戻るまではこの場で看るより他あるまい」

 軽く見回せば、壁はところどころが朽ちて外の景色が見えている。伸びた背の高い雑草が周囲に生い茂り、外壁のようになっているおかげで風雨の侵入も少ないが、お世辞にも病人を看護するに適切な環境とは言えない。


 しかし首都内には潜入できる場はなく、宿ですら面倒事に巻き込まれたくないと、獣人の少女を抱えたモーグル達の宿泊を断った。ただでさえ生活厳しい中、トラブルには関わりたくないという脅えにも似た感情が、あの町の人々に宿っている。

「……なんともならぬ、か」

 アレクスは最初、ゴルオン領の様子を知るにつれ、領民を奮起させてこの状況を打開できるのではないかとすら考えた。だがさらに深く知るにつれ、それは不可能であると結論付ける。人々にはもはやたぎるものがないのだ。

 先の経験で、いかに先導者や指導者が意気巻いても、行動を起こす者達全体に意欲や士気がなければ物事は上手くいかない事を知った。

 もし、このゴルオン領の民が領主に対する怒りや殺意の一つも抱いていればまだしも、そうした意を全て抑え込むように生気が削がれている。

 街角で誰かが行き倒れようとも誰も助けの手を差し伸べようとしないのが、この地の人々の心が奈落に落ちきってしまっている事を物語っていた。


「まともな医者も、薬屋もないとは思わなかったな。首都なのによ」

「うむ、商店の類も少ない。営業している店も、まるで死に態…幽霊の如しであったぞ」

 言いながら、辛うじて買えたとばかりに荷より僅かな食料類を取り出してみせるアレクス。

 重税などの圧政をかけているなど、ちらほら耳にする話で珍しくもない。しかしながら、そうした悪徳為政者であっても見栄や外聞の観点から、首都はそれなりに活気づかせるものだ、例え虚勢であっても。

 しかし、このゴルオン領の首都は街並みばかりがやけに凄いだけで、街としての機能は地方の田舎村にすら劣っていた。

「おおよその事はわかったし、とりあえず一度、手紙を出したいところなんだけどなぁ…郵送すらないなんて、アッシは思いもしてなかったよ」

「事前に打ち合わせておいた早馬を出す予定は、もう3日も過ぎている。我らが行動も随分と狂ってしまった。…一度、直に戻るべきかもしれんな」

「あぁ、確かにな。けど、このコが動けるようになってくれるまでは動けねえ」

 大小二つ、4個の眼が獣人の少女を見る。ボロボロのベッドの上に、藁だけは新しいものをのせただけの寝床に横たわる女の子は、かろうじて小さな呼吸を行っている状態だ。発汗、うなされ、悪い顔色と、いまだ予断を許さない状態にあるのは一目でわかる。


「なれば娘が回復するまで、より多くを調べておくか。この地の領主、ドルワーゼに関する事まで深く調べる事ができれば、情報の有用性も増すというもの」

「まぁな。けどそうなると潜入活動が必要になってくる…アッシの番か」

 アレクスの体格ではどうしても目立ってしまうし、ドルワーゼの居城への潜入はとても無理だ。しかもアトワルト領での反乱騒ぎの首魁しゅかいであり、もとより人目につく事は憚らなければならない。

 それでも彼が主だって調査に出ていたのは、アレクスには看病のノウハウが何もなかったからで、仕方なくモーグルが少女の傍についているしかなかったからである。

「…どのみち、まずはその娘の回復を待たねばならんか」

「ああ。できれば今まで調べた分だけでも、先に領主様ミミに届けたいもんだ、よくねぇ事になる前に」

 二人の本来の目的は、ミミに頼まれて隣領のゴルオン領を調査する事だ。なぜ彼女が気に掛けているのか、現地で色々と知るほど彼らも納得のきな臭さきお隣さん。

 なのでかなり意気込んで…特にアレクスは先の大罪に対する恩赦を受けた身という事もあって、課せられた使命をより深く果たさんと意欲を持って臨んでいた。


「とりあえず今回の成果を確認するとしよう。間違っている箇所があれば言ってくれ」

「ん、おうそうだな。他にやる事もないし、じゃこのテーブルの上に出してくれ」

 アレクスは、ボロ布で出来た袋に手を突っ込み、一つ一つ紙束や巻物などを取り出し、自らが調べてきたものをモーグルに披露する。

「町、および村の配置。それぞれの人口の程度、流通・商業・産業事情。そして周辺地理の雑図に……」

「お、おぉ…また随分と調べたあげてきたもんだ?」

 アレクスが調査にでた時間は1日ほど。ところが彼がその成果として持ち帰った記録や図面などの資料は朽ち木のテーブルの上に並べられ、見る間に山と化すほどの量に、モーグルは軽く引いてしまった。

「何を言う、このくらいは当然だろう。敵地の情報の価値は重い、まだまだ足りぬくらいだと私は思っているぞ」

「まだ敵地って決まったわけじゃないだろ。…ま、この様子ならそうならない確率のが小さいかもしれないけどさ」

 しばらくは荒れ事の類は勘弁してほしいと、モーグルは疲れたように苦笑いを浮かべる。

 危険な綱渡りは胃が痛むし、精神がすり減る。先の神魔大戦からこれまでの出来事で、モーグルの精神的な疲労はとっくにピークを越えている。

 今回はまだ二人という事もあっていくらかマシだが、なるべくなら穏便に事が進んでくれるほうがありがたかった。



「………ぅ…、…ぐすん………、ぱ、……、ま……」

「ん、うなされてるみたいだな」

 まだ意識は戻っていない。だが憔悴しきっている頬を、ほんとうに薄っすらと涙が一粒流れる。まるで体中からかき集めて、辛うじて一粒分の水分を捻出したかのような涙だ。

「……戦時の不幸ではなく、平時にこのような幼子が無体な目に遭うなど、許されぬ事だ」

「だな。ワラクーン狸獣人は小柄で温和な種族だから、酷い目にあったってなかなか抵抗できねぇだろうし、…ってアッシも小柄さにかけちゃ他種族ヒトの事言えない―――――……?」

 不意に、モーグルの言葉が途切れる。横たわる少女を見たまま、土竜人は動きを止めたままだった。

「どうした?」

「………違う、ワラクーン狸獣人じゃねぇぞ。この尻尾は……」


 仰向けの少女が、軽く身を捻った事でお尻の辺りから覗き出た尾。ワラクーンならば、その尾は縞模様の入った、太くてもこっとしており、茶を基調とした色合いで先端が丸いものだ。

 しかし少女が出した尻尾は、絹糸を無数に束ねたような滑らかなものであり、色も透き通るような白色をしている。

「む…見た事があるなこの尾……どこかで……、っ、もしや?!」

 アレクスは思い返していた。ドウドゥル駐屯村でミミを抱き上げ運んだ時の事を。その時、腕に絡んだ彼女の尾を垂らすように抱えなおした際、一度手に取ったその尻尾を。

「この少女、ワラビット族か?!」

 力なくベッドより垂れている尾は、間違いなく、彼女―――ミミ=オプス=アトワルト―――と同じもの。


 だが、その事実を受け入れるにあたり、二人の心には幾ばくかの躊躇ためらいがあった。


 なぜ、彼らは少女がワラクーン狸獣人だと思い込んでいたのか?

 ワラビット族兎獣人の尻尾は、くるんと丸める事で、綺麗な球体状にする事ができる。そのため、助けてから今まではスカートの内側に隠れるようにおさまっていて、二人は少女の尻尾を目にしていなかった。

 だが、問題はワラビット族もう一つの身体的特徴のほうにある。かの種族は、誰が見てもハッキリとワラビット兎獣人であるとわかる、長い兎耳を有している。


 しかし少女の耳は短かったのだ、まるで狸耳のように。ある一つの懸念、怖ろしい可能性が二人の頭をよぎる。

 恐る恐る、その頭の耳をよく観察せんと、二人は近づき…そして目を見開いたまま、大小二つの身体が静止する。2、3拍の間をあけてから、モーグルが呟くようにその事実を口にした。



「……耳が、切られて…いる」




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