第2章3 願いましては




 外は相変わらずの雨模様で、時折横降りの雨になって応接室の窓を叩いている。



「お話はわかりました。これは預からせていただきますわね」

 ミミはいつかシャルに渡した封書を手にとった。そして―――


「<鍵無き錠前を外すシークレットイズナッシング>」

 光る指先を当てて横になぞると封書がペラリと開く。そして中に入っていたであろう紙が飛び出し、ミミの手元へと吸い込まれた。


「りょ、領主様は魔法が使えるんですかい?」

「ええ。これでも魔界の出です。まだ何かと至らない若輩者ではありますが、領主として恥ずかしくないだけの能力を学園に通っていた頃に培って……どうかなさいましたか?」

「あ、いや……気にせんでください。学園と聞いて領主様はすげぇなぁと感心しちまっただけで、へへへ」

 照れ笑いを浮かべるドンだが、それはあきらかに誤魔化しだった。


「(学園に関して、何か嫌な思い出でもあるのかな? ……と、今はそれより)」

「イフス。お茶のおかわりをお二人に。わたくしもいただきますわ」

「かしこまりました、ミミ様」

 命を受けてイフスが出て行く。だがそれは彼女を追い出す口実だ。




「さて、と。ドンさん、でしたか。まず貴方の過去の罪についてですが……」

「へぃ、覚悟はしてやす。俺はどうなったってかまいやせん」

 本当ならばそのかわりメルロは―――と続けたいだろう。しかしドンは言い切って続けはしなかった。己が罪に対して罰を受けるかわりに、メルロに便宜を図ってもらうのは筋違いだと理解しているからだ。

 その一言だけでもこのゴブリンが高い知能を有している事が感じられる。


「問いませんわ」

「……へ? あの、領主様すいやせん。今、なんておっしゃいやしたか?」

「貴方の罪は問わない、と言いいました。ですが勘違いなさらないでくださいね。もちろん理由あっての事ですので」

 罪を問い、罰を与える事は簡単だ。しかし罪を犯してからあまりに時間が経ちすぎている。

 しかも事は露見していないというし、犯人が不明な事件ならばここにも領主の下届けられる。しかしドンが関わった犯罪に関して、犯人が見つからないからどうにかして、といった類の報告がまるであがってきていない。


「つまり貴方の犯した罪が、被害にあった方々に罪と認識されていないか、取るに足らないと思われている可能性が高いんです」

 そして今の状況下でドンに罰を与えるとなると処罰の内容と対象、そして犯した罪状と犯した頃合について公表しなければならない。

 時間がそれなりに経過してしまっている軽犯罪を、今になって領主がしょっ引いたと聞いて、人々はなんと思うだろうか?


「私への不安や不満ですよね。領民の皆様が思うことは」

 ただでさえ若い領主で甘く見られがちなミミだ。ドンを裁いても無能を発表するようなもので、なんら意味がない。


「それでも罪は罰すべきでしょうが、今の領内の状況では適切とはいえません」

 ミミの話にドンはアゴに手を当てて考えこむ。その表情には既に理解の色が浮かんでいた。


「(やっぱりこのゴブリンさん、優秀だなー。こんなに優秀なヒトゴブリンがどうして犯罪に手を染めたりしたんだろう?)」

 会話を聞いて、その内容を素早く理解するのは実はかなり難しい事だ。


 ただの雑談程度ならばともかく、法や政治が絡んだ話になると社会への影響や、世の中の仕組みや人心のありようへも考えが及ばなければならない。短絡的に勧善懲悪に当てはめるのは愚かな選択だ。



「わかりやした。でしたら俺の罪は領主様に一時お預けいたしやす」

 ソファーに座ったまま上半身を曲げて大きく礼をするドン。

 しかしミミは思っていた。次に話すべき内容を頭の中で整理しながら、本当に罰せられるべきは自分かもしれないと。


「そしてメルロさんの雇用の件についてですが、結論からいいまして雇用は可能です」

「本当ですかい!?」

「ですが、あまり賃金は多くを出せない、という事だけは先に言っておきますね。金額にして……月のお給金はこのくらいが限界です」

 ミミが羽ペンを走らせた紙を、ドンが受け取る。


  ―― 金10銀7 ――


「(確かに少ねぇな……けど目的は金じゃねぇんだ。いくらだって構いやしねぇ)」

 一般的な雇用の賃金は、月におよそ金貨14枚~20枚ほどだ。それから考えれば金貨約11枚は薄給の部類といえる。

 即座に了承しようとしたドンだが、ミミはそれを制して言葉を続けた。


「雇用はメルロさんだけではなくドンさん。貴方も雇わせていただきたいのですが、いかがでしょうか?」

「?! お、俺も……ですかい??」

「はい、お二人ともですわ。これがメルロさんをお雇する前提条件……もちろんお給金はお二人それぞれにお支払い致します」

 ドンは目を丸くしてミミを見た。まさか自分も雇ってくれるなどとは思いもよらなかったからだ。



 …ゴブリンが就職において種族的不利であるというわけではないが、それでも小柄で醜い容姿というだけで雇う側から偏見の目で見られ、就ける職業は偏るのが現実で、実際ドンもその優秀さに見合わぬ仕事ばかり経験してきた過去がある。


 領主といえば一権力者であり、その元で働くという事は結構な名誉だ。社会的なステータスとしても価値があり、大抵は能力だけでなく容貌にも優れた内外ともエリートな輩が採用されがちな世界。


 つまり、ドンにはまず一生縁がないはずの就職先である。だからこそ彼は狐につままれたような顔のまましばらく固まってしまった。メルロさえ面倒見てもらえればそれでよくて、自分はどこへなりとも去る腹つもりでいたのだから。


「………ゃります、ゃらせて…くださぃ…」

 隣からメルロの消え入りそうな声が真っ白になったドンの頭を突き動かした。ふと彼女を見ると、メルロは微笑を湛えてドンを見返す。


「メルロ、お前……」

「がん…ばる…から。……ね、…がんばろ…ぅ…、ぃっしょ…に」

 あるいはメルロは気づいていたのかもしれない。ドンが自分を領主に預け、一人また暗がりの世界へと去っていく気でいた事を。多くを語らずとも彼女の微笑み一つでドンが選ぶ選択は決まった。


「やる気のところ申し訳ありませんが、ドンさん。メルロさんと二人だけで少しお話をさせていただけませんか?」

 感涙に目を潤ませていたドンは、顔を真っ赤にしてミミに向き直る。そして一体メルロに何の話があるのかと心配そうな顔を向けた。

 随分感情をあらわにしてくれるようになったとはいえ、それはドンが出会った時の彼女と比べての話だ。まだまだ普通の正常な一般人と比べれば、心配が尽きない。


「ご心配は無用ですわ、すぐに済む事ですので。ですが、これはメルロさんをお雇いするにあたり絶対に必要なお話なんですの」

「わ、わかりやした。…じゃあ、室外にて待たせていただきやす」

「はい、終わりましたら改めてお呼びさせていただきますね」

 ミミはニコリと笑みを浮かべ、ドンが退室するのを見送る。


 ―――ガチャ、ギィイ…バタンッ


 扉が閉まると同時に彼女は軽く目を伏せ、そしてメルロを真っ直ぐに見据えなおした。


「それではメルロさん。これからとても重要な事を話させていただきます。このお話を聞いた上で、改めて今回の雇用の件、受けるか否かを考えていただけますか? 今のメルロさんにはとても残酷なお話になるかもしれませんが……聞いていただかなくてはならない事なんです」








「お客さま、いかがなされましたか?」

 イフスが新しいお茶を用意して運んでくると、応接室の扉の前でドンが一人佇んでいた。


「あ、いや…、領主様がメルロ一人に話があるってんで、終わるまでここで待たせてもらってやして」

 それを聞いてイフスは軽く扉の方を見る。しかしすぐに視線を反らすと、扉が開け放たれても問題ない位置に移動し、ドン同様に待機しはじめた。


「その、よろしいんですかい?」

 ドンが言っているのはお茶のことだ。せっかく温かいお茶を準備してきたというのに入室せず待機しているのはどうなのか?


「このお部屋は防音がしっかりとなされております。その中でお二人での会話という事は、とても重要なお話という事。たとえお茶をお出しするためであっても入室し、お話を中断させる事は礼を欠きますし、もしかすると聞いてはならないお話である可能性もございます。待機が最も正しい選択なのです」

 もしかするとすぐに入室の許可が出るかもしれない。その場合は淹れてきたお湯はそう冷めてはいないだろうし、もし時間がかかったとしてもその時はその時でまた淹れ直しに行けばいいだけだ。


「はー、なるほど。さすが偉ぇ人にお仕えしてるメイドさんはちがいやすね」

「然様なことはございません。メイドとして当然でございます」

 りんとして答えるイフスだが、その顔は若干の嬉しそうだった。



「ところで、本当によろしいのですか?」

「え? な、何がですかい??」


「この館で働く、というお話です。このアトワルト領の戦後いまは非常に厳しいものであり、ミミ様も大変ご苦労なされていらっしゃいます。そして領主という御立場は、時に人々より悪い感情を向けられる者……そんな御方の下で働く者にも、どのような危険が生じるとも分かりません」


「……それでも、メルロにはここで雇っていただくのが一番だと思いやす。村の連中は腫れ物を障るような感じでしか接しやせんし、ここまで旅してきた間も世の中が荒んでる一端を見てきやした。どこにいたってヤバい話は付きまといますからね。なーに、いざって時は俺が守りゃいいんですから」

 そういってはにかむドンだが、その表情にはどこか暗い影が見え隠れしていた。理解しているからだ、現実は厳しいと。いかに理想や誓いを立てたところで、踏みにじられる時は容赦ないものだと。


 イフスは、ドンが歩んできた半生の苛烈さと身に染みて学んできたであろう世の無情さへの理解を感じ取り、そっと目を閉じると然様ですかと短く応えるだけで、それ以上は何も言わなかった。



「イフス、ドンさん。お待たせしました、入ってかまいませんよー」

 イフスとドンの会話より時間にして数分程度といったところだろうか? 部屋の中からミミの声が扉越しに響く。


 イフスが扉を開け、ドンはその後ろに続いて二人は入室した。その時のドンの入室の態度はきわめて丁寧なものであり、大貴族の行幸に随行する儀仗兵すら務まりそうな足取りだった。


 しかしそれは入室と同時に大きく崩れる。


「ぶはぁ!!?」

 盛大に噴出して股を開いてコケるゴブリンは、失礼と思い慌てて身を起こす。

 イフスですらも目を見開き、口元に手をあてて驚愕していた。


「め、めめめ…メルロ……なのか?!」

 何をそんなに驚いているのか理解に苦しむとばかりに首をかしげていたメルロは、ドンの問いにコクリと頷く。

 隣には悪戯っぽい笑みを浮かべてニヤニヤしているミミがいた。


「すごいでしょう? 私達わたくしたち、ワラビット族のメイド服なのだけれど、よく似合ってると思いません? …まぁ、サイズは残念ながら丁度良いものはありませんでしたが」

 メルロの裸などもう何十回と拝んでいるドンだが、あらためて衣装の力というものを思い知らされた気がした。


 ミミのワラビット族特有の貴族用ドレスとはまた異なり、メルロは同じバニースーツ基調のデザインながら露出の抑えられたバニーメイド服を着用していた。

 だがボディに張り付くようなバニースーツ部は彼女の優れた凹凸のラインをより強調し、脚部はストッキングと肌の白さが合間って、絶妙な褐色の輝きに覆われている。

 半透明なレースが胸元のカップ部の端から首のチョーカーまでを覆っていて、薄っすらとしか見えない谷間が逆にそそられる。前開きのロングスカートは歩くたびに開き部分が左右に動いて魅惑の股間部と太ももをチラ見せるのがなんともセクシーだった。



「メルロさんは背も少しありますからカッコいいですね。いかがですか、ドンさん?」

「ふへっ!? は、はは……そ、それはそりゃ、ええ…に、似合ってるっつーかなんつーか、そのあの、ビックリしやしたよ! ……って、そのウサギ耳は?」

 ドンは鼻血が出そうになるのを必死にこらえながら、なんとか話題を逸らそうとした。

 メルロはワラビット族ではないから、頭から生えているウサミミは本来ないものだ。カチューシャか、それともヘッドドレスに付随しているものかはわからないが、あきらかに作り物だろう。


「メルロさんが私のところで働くならば、とご自分で選ばれたものです。ヘッドドレスと一体化しているものでして……ちなみに尻尾穴のところには穴塞ぎ用のウサギ尻尾のアクセサリーがついてます。サイズは後程、メルロさんに合うよう直すとしまして……」

 ワラビット族には尻尾があり、その尻尾を出すための穴が衣装の背中部のお尻近くに空いている。


 しかしメルロには尻尾はない。トードマン系種族は幼少期には小さな尻尾が生えているが成長と共にそれはなくなるし、メルロにいたってはハーフトードマンという事もあって、尻尾はかなり早い段階でなくなっていた。

 不要な尻尾穴を塞ぐための作り物のウサギ尻尾は、本当に生えているかのようなリアルさがあった。


「さて、それではイフス? お二人に部屋の割り当てを。それと館内の案内をして差し上げて。それとメルロさんの基本的なお仕事としましては、彼女の補助をお願いしましたわ。ドンさんについては後ほど……ドンさん?」

「は? はっ、はひ! だ、大丈夫ですぜ、どんな仕事もやりまさぁ!」

 完全にメルロに見とれて呆然としてしまっていたドンの慌てふためきように、ミミとイフスは笑みをこぼした。









――――――――ナガン領、北西の街道


「西から一雨きそうだな」

 言われてイムルンも空を見上げる。よく晴れた空に黒く厚い雲の端がかかってきて、そのコントラストがなんとも美麗だった。


「ですねー。どーしますー? さっきの町に戻って一晩やり過ごしますかー?」

「いや、それは止めておいたほうがいい。確かいつかの報告書にこの時期の気象について書かれていたが、しばしの間雨季に入るようだしな。一晩で通り過ぎる雨ではあるまい」

 そこまで言って、彼はイムルンの軽装具合を改めて見た。衣服などあってないようなレベルだ。そんな女性を、いかにグレムリン族といえども雨に打たせるのは彼も本意ではない。


「次の町まではどのくらいだ?」

「んー、2つありますよー? 南東と南ですねー。南の方は隣領に近いとこですんでちょっと距離ありますから、南東の方がオススメかなー」

 彼は少し考えを巡らせた。

 ナガン領の中心に近いほど、領主の住む屋敷は近い。


 確かこの地の領主の名はメリュジーネ=エル=ナガン。ラミア族の上流貴族だ。

記憶を掘り返し、どのような人物だったかを思い出す。それ如何いかんによって、領主を訪ねるか否かを決めようと考えていた。


「ああ、確か旦那さんと別れて血気盛んに叫びちらしていた彼女か。ならば一つ挨拶にいくとしよう。最近の地上について現地の者の話は聞いておきたいしな」

 謁見の間で、旦那さんの愚痴をはばかる事なく撒き散らしていたメリュジーネの姿を、彼もよく覚えていた。

 並み居る貴族達が居並ぶ中、まるで臆する事のない彼女は、他の貴族が迷惑そうにしていた事もあって地上の一領土の領主に指名したら、あっさりと受けて赴任していった者だ。

 少なくとも、ダヌクのような生真面目に過ぎる人物ではないだろう。



「わっかりましたー。んじゃ2、3時間くらいですねー、いそがなくても大丈夫そうで―――お下がりを」

 調子のいい雰囲気が一瞬でなりを潜める。イムルンは真剣な表情で道の向こうを鋭く見据えた。


 昼前でも空に黒雲が広がっているおかげで薄暗くなりつつある中、地平線の彼方より影が見えてくる。


 街道をゆく旅人は何も珍しくはない。イムルンがここまで警戒する必要はないはずだ。

 しかし彼方より向かってくる影から感じられる魔力と雰囲気は並大抵の者ではありえない。確実に実力者、それも今のイムルンでは刺し違える事も難しいかもしれないほどの。


 彼女はまだ姿も見えぬうちから相手の力をそこまで見抜いていた。いや感じ取っていた。


「おや? これはこれは。意外なところで意外な御方と遭遇したもので。お久方ぶりですね」

 影は複数人からなる一団だった。何人かは大きな荷を積んだ車を引いている。

 一番先頭を歩いていた細身の派手な井出たちの男が早足で歩み寄り、気さくに声をかけてくる。


「それ以上近寄るな! 貴様、何も―――」

 全力で警戒していたイムルンの肩を叩き、心配いらないと彼女の顔前に片手をあげて前に進み出る。


「相変わらずのようだな、ジャック? まさか一目で見破られるとは思わなかったが」

「商人たるもの、わずかな情報も見逃しませんとも。…まぁ、一目でわかったわけではないのですが、そのお付きの者の態度が決定打でしたね」

 メガネをくいとあげながら得意げにイムルンを見る。その視線は、まだまだ精進が足りませんね、と彼女の付き人としての・・・・・・・実力不足を見下すものだった。



「そういじめてやるな。それで? お前はこんなところで何をしている、商売か?」

「ええ、地上はどこもかしこも戦後復興の真っ只中ですからね。我々のような者には腕の振るい甲斐のあるご時勢ですよ」

 素人は、復興は商売のチャンスと思いがちだが実際はそんなに楽ではない。どこもかしこも物が不足しているため商品の売却の際は確かに楽だが、問題は仕入れ時である。

 いずこも品薄な状況で一体どこから買い付けるのか。買い付けの際の価格も高騰している中で、どうやって儲けを出すのか?


 安定している世の中のほうが楽に儲けられる。


 だがその分商売の手ごたえを感じられない。ジャックにとって今の地上はまさに商人としての手腕を存分に振るうことのできる最高の場所だった。



「……フッ、それだけではあるまい。またぞろどこかの貴族の悪巧みに手を貸しているのだろう? まぁかまわないがな」

「おや、余裕ですね? 首謀者アズアゼルを捕えてもはや憂いはなしといったところですか?」

「まさか。そこまで呆けてはおらんさ……勿論、必要とあらばお前も容赦はしないぞ? 悪戯わるさもほどほどにな」

 一瞬、本当に極一瞬ではあったが、世界に亀裂が走ったかのような錯覚がジャックを襲った。さすがの彼も、いつもの不敵な笑みを絶やして冷や汗を流す。

 誰が相手だろうと己のスタンスを変えない彼だが、さすがに世界の主たるレベルの御方が相手では過ぎたるははばかられた。



「もちろん貴方様を敵に回す、どこぞの阿呆アズアゼルのような愚は犯しませんとも。ええ」

「面倒なのは勘弁願いたいからな、頼むぞ。……それはそうと、後ろの者たちは奴隷か?」

 ジャックの荷を運んでいる爬龍人族ドラゴマンは、一見するとただの下働きのように見える。しかし魔力の流れをよく凝らしてみると、ジャックから彼の者に向かって魔力の縛りが伸びているのが見えていた。

 荷台に積まれている翼と足をグルグル巻きにされた翼手鳥人ハーピーにも同じように伸びている。


 少なくともこの二人はジャックによって縛られている状態にあった。


「ええ、愚か者たちですよ。本来ならば生かしておく価値もないゴミですけどね。…よければ後ろのハーピーをお買いになりませんか?」

「いや、いらん。助ける必要もなさそうだしな」

 縛られている二人の人相はあきらかに悪い。大方、ジャックに突っかかって返り討ちにでもあったのだろう。


「そいつらはどこで縛った? 一応聞いておこう」

 あきらかにチンピラと思われる二人だが社会に影響力をもっていないとも限らない。

 ジャックの尻拭いをするのは御免だが、何が他の事件へと連鎖するかはわからないものだ。杞憂に終わっても、知っておいて不足になる事はない。


「ここより西のアトワルト領ですよ。確かの地の領主のことはご存知でしたよね?」

「ああ、ワラビットの少女の赴任先にと指定した所だな。側付きの者を一人付け与えた……」

 少なくとも悪い報告は聞かない。それなりによくやっているという事だろうと、彼はこれまで特に気にもかけていなかった。


 しかしジャックの言い草からはどうも雲行きの怪しそうな雰囲気が感じられる。




「一度行ってみる事をおすすめしますよ。なかなか苦労してらっしゃるようですからね、では私めはこれで失礼致します」

 遠ざかるジャックたちを見送りながら、彼は今後の行き先を思案する。


「ぷっはーっ、ふはぁ~。……なーんか嫌な感じですねーアイツ」

 イムルンは呼吸も忘れてジャックを警戒していた。じっとりと汗で濡れた肌は雲で隠れて少なくなった陽光量ひかりにも白い照りを返す。


「あれはあーゆーものだと思えばいい。むしろそう思わねば応対などしてられんぞ? それでだ…今後だが、まずメリュジーネの屋敷に向かい、後にアトワルト領へ行く事にする」

「はいほーい、了解でっす。んじゃ雨も降ってきそうですし、ちょっとだけ急ぎますかっ」

「人目もある。普通に・・・走るぞ」

 イムルンはラジャーとジェスチャーを取ると軽快に走りだした。

 人の走るのと変わらぬ速度は、彼らにとっては走るというよりもちょっとだけ意識して歩く程度のレベル。すれ違う人々に怪しまれないように街道を進んでいった。










「今年の税収が金貨24万枚で予定の2割減で~、戦前までの蓄えが40万枚で~」

 ミミは机にかじりついて帳簿とにらめっこをしている。その様子をドンは我が目を疑うような驚きの表情で眺めていた。


「穴の埋め立て作業に1件あたり、人件費が金貨80枚で~、460件が終了したから全部で3万6800枚の~」

上がってきてる嘆願書で残りの埋め立て案件が1970件で、必要推定金額が15万7600枚に~」

 最初、領主としてあったミミとはまったく違う言葉遣いに彼は戸惑う。大変そうで声をかけるべきか否か迷い、先ほどから直立不動のまま待機しているのだ。


「シュクリアの外壁の工事がえーと? 報告資料はっと…、あ、あったあった。作業期間が5週間、人件費が金貨1200枚で、材料費が金貨2万2000枚の~」

 コンコンと小さなノック音が鳴る。

 ドンが静かに扉をあけると、メルロを伴ったイフスがお茶を持って入室してきた。


「街道整備に今までで金貨1万6400枚、建設中の各地の橋は今のところ全部で7000枚で、山崩れの対処と整備が3900枚」

 ドンがどうしたものか助けを求めるように無言でイフスを見上げる。すると彼女は口前に指を立て、お静かにとだけジェスチャーを出して返した。


「死者を出した世帯への生活補助金が8万枚で~、壊れた家屋の建て直しに18万枚の~…」

 そこまでつぶやいて、ミミは机に突っ伏つっぷした。


「あー、やっぱり足りないなぁ~。うー、う~ぅん~……」

「お疲れ様です、ミミ様。ご休憩になされてはいかがですか?」

「うん? あ、イフー、それに二人も」

 間の抜けた声、表情には疲労の色が浮かんでいる。どうやらミミは徹夜で仕事をしていたらしい。


 ドンとメルロはイフスがお茶を出したのを見計らって、ミミの執務机へと歩み寄った。


「領主様、大丈夫ですかい? 無理はいけませんぜ」

「んー、わかってはいるんだけどねー。なかなか悩ましい問題がね~…気づいたら朝になっちゃってた感じで……アハハ」

 力のない笑い声をあげる。疲労半分、悩み半分といったところだろう。


 だが本人が思う以上にドン達はミミを心配していた。それは彼らが知らない彼女の言葉遣いにあった。

 二人はミミの素の言葉遣いを知らない。なのではじめて対話した時との落差から、彼女の疲れが丁寧な言葉遣いすらも忘れさせるほどに及んでいるのではないかと危惧しているのだ。


「ミミ様、お二人はミミ様の事をまだよく知りませんから、その態度とお言葉遣いに驚かれているかと思いますよ?」

「ああ、そういえばそうだった~」

 ミミはずるぅと机の上に上半身を滑らせると、両腕を前に思いっきり伸ばしてそのまま突っ伏す。


「んー、これが一応素の私~、かな。丁寧な言葉遣いや立ち居振る舞いも、素っちゃ素なんだけど、意識しなくてもなんか勝手に切り替わっちゃうの~」

 いつにも増して疲労感をにじませたミミ。見かねてイフスが口を開く。


「補足いたしますと、ミミ様は何も考えられずとも、貴族としての振る舞いやお言葉遣いが必要な場ではそうなりますし、必要でない場においてはこのようになられる、という事です」

「そ~、そ~。基本は怠け者だから~。二人ともあまり気負わずに気楽に接してくれてい~よ~、はふぅ~」

 耳をピコピコ揺らしながら、貴族らしからぬリラックス態度で疲労を緩和しようとしているミミは、先日はじめて出会った領主と同一人物なのか疑うほどの変わりっぷりだ。


 しかしドンはつい苦笑しそうになるのを必死に飲み込む。


 そうは言っても彼女が領主という身分である事実にかわりはない。いくら気楽に接しても良いと言われても、最低限の分別はキッチリとしておかなければならない。



「まぁ、領主さまがそうおっしゃられるんでしたら……。とりあえずお疲れなのは間違いないようですし、今日はお休みになってくだせぇ。カラダ壊しちまったら元も子もありやせん。あ、それと……」

 そこまで言うと、ドンはメルロの方を見た。するとメルロが進み出て丁寧に何かを差し出す。


「今朝、屋敷の周囲を軽く見回ってきた時に、お隣の領主さまの使者ってのがやってきやして。それを領主さまに渡して、こう伝えてくれと―――今日、昼頃にそっち着くから―――ってだけ言えばわかるっつて帰っていきやした」

 ドンの言葉を聞いて、ミミが机から自身を引っぺがすように突如身を起こす。


 そしてメルロの差し出した手紙を受け取ると目を見開き、そしてすぐさま残念そうな表情で深くため息を吐いた。


「……イフー。とりあえず、メルロさんと一緒におもてなしの準備おねがい。ドンさんはえーと……うん、私と一緒に身なり整えよう。あー、せっかく来なくてもこっちは大丈夫だから心配しないでって手紙だしたのに」


「まさか……メリュジーネ様ですか?」

 イフスの表情が少しだけ険しくなった。ひそめた眉に、ちょっと苦手だといった感情があらわれている。



「ん。ドンさんの言うとおり、今日の仕事はオールキャンセルにしちゃわないと。二人も覚悟しといて、これからここに来る御方は魔界の大貴族の御一人だから」

 ドンとメルロは互いに見合わせた。

 二人はまだミミの元に来てより2日目。互いに仕事にもまだ慣れていないし、この館についても勝手がわからない状態だ。


 領主というお偉いさんであるミミと面会するだけでも結構な出来事だというのに、上流階級の貴族が来訪するとなればまさに一大事。

 一体自分達はどうするべきなのか困惑していると、イフスとミミがそれぞれ声をかけてくる。


「ではメルロさん。私についてきてください」

「…はぃ…」


「ドンさん、まずはお風呂。その後に服とかいろいろ見繕うからっ」

「え、え? ふ、風呂ですかい? いやそりゃ身を綺麗にするのは当然かもしれやせんが、まさか領主さまも一緒にですかい?!」

 ドンの記憶の限りでは館に風呂は1つしかない。


「時間もないからねっ。はいはいはい、恥ずかしがってないでキリキリ入っちゃおう!」

 身分差に加えて男女の差だ。普通なら一緒に風呂に入ることなどまずありえない事だろう。

 それでも時間短縮を優先するというのだから、メリュジーネとは一体どれほどの御仁なのだろうか?


 ドンの中でのメリュジーネ想像図は、混浴の恥ずかしさを打ち消すためにもどんどん盛り上がっていった。











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