第1章3 仕事の一幕


――――都市シュクリアの市場




「おいおい、これ以上はまけられねぇって。これくらいで勘弁してくれジャックさんよぉ」

 恰幅のいい大亜人オーガの店主は、さきほど覚えた顧客の名に憎しみをこめながら、数字を書いた紙を渡す。


  ― 金635 ―


 それは金貨6枚に銀貨3枚、銅貨5枚の意だ。取引において価格に関する数字のやり取りは、すべてこの表記方法を使う。

たとえば銀貨5枚と銅貨2枚ならば“銀52”、銅貨7枚ならば“銅7”といった具合だ。

 店主より渡された紙に目を通すと、ジャックはさらにその下に数字を記して返しす。


  ― 金610 ―


「でしたらここまで切り詰めて手打ちといたしましょう。こちらは金貨6枚ちょうどでもかまわないくらいなのですが?」

「くううう、アンタは悪魔かっ!!」

「厳密には違うでしょうが関係する種族ですかね、まぁその通りと言っておきましょう…それで、それが何か?」

 店主の大きな体躯が小さくなる。上半身をぐったりと垂らして疲労感をにじませながら、毛のない頭をかきむしった。


「あー、もういい! それでかまわねーからもう勘弁してくれよっ」

 元の売値は金貨11枚。

 それでもオマケで金貨1枚に銀貨6枚を引いた、良心的な価格だった。しかしジャックは実に5時間もかけて半値近くまで値切り倒したのだ。

 理知的な交渉に対し、店主も商売人の端くれとばかりに懸命に頭を回転させて抵抗してみせたが、精神的疲労がピークに達して根をあげた。


「露店商売でこのように素晴らしい品を、これほど良心的な価格で売っていただけるとは思いませんでした。感謝いたしますよ店主」

 しかし当の店主はもう関わりたくないとばかりに、店内の椅子に腰掛けて素っ気無く明後日の方角を向く。しかし商売は商売だ、まだ荷の届け先や時刻などの打ち合わせを続けなくてはならない。


 もちろんそれらは、早く目の前からジャックがいなくなって欲しい一心で、極力最低限の会話で手短に済ませたのは言うまでもない。



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「おや、お客さん。上機嫌だねぇ」

「ええ、なかなか良い買い付けができましてね。お隣にナガン領売りにいきましたらまたこちらに買いに戻ってこようか迷うほどで…」

 途中で言葉を切るのは、酒場の主マスターから何かしらの情報を引き出せればラッキーだという思惑からだ。会話にのってくれれば、高確率で何かしらの情報を得られる可能性があった。

 ゆえに言い切らずモヤっとしたものを、会話の糸口として流す。


 ジャックの酒場での情報収集のテクニックであり、無駄に口数を増やさない事で品格を下に見られる事も防ぐ、彼が好んで常套するやり方だった。


「領主様ががんばってくれているからねぇ、ウチはアトワルト領。大戦の爪跡がまだ残ってるっちゃあ残ってるんだが、この町で商売人うちらがこんなに早く再開できているのも戦前の治世のたまものですよ」

 マスターはグラスを磨きながらウンウンと頷く。ヘッドレスマン頭無魔人の頷きの動作はわかり辛いが、経験則を頼りに会話の流れや彼の口調から、ジャックには彼にはない無い頭がそう動いたように見えた気がした。


「ほう。随分と買っておられるようにお見受けしますが…おっと、グラスを空けてしまいましたね。ふむ……では次は、“ アンチュウ ” をいただきましょうか」

 ジャックが注文した酒は高級酒として名高い銘柄の一つだ。1杯で金貨1枚はする。普通の酒場の酒が銅貨5枚前後から高くても銀貨3枚程度である事を考えると、かなり高額である。


 こういったスタイリッシュなカウンターバーの店でもなければ、仕入れすらできないし、似つかわしくない。

 心なしかマスターのグラスに酒を注ぐ動きが幾分丁寧になっていた。



「(酒の品揃えに店構え……経済の土台が崩壊してしまえば短期間でこうはいかないでしょう。やはり彼女は本物、という事ですか)」

 いってしまえば酒は嗜好品であり生活に必須の品ではない。アトワルト領は決して大きな領地ではないし、発展具合も下から数えたほうが早いレベルだ。


 しかしあの大戦で受けた被害を考えると、この地と同等の他領ならいまだ酒場の一つも再開できてはいない。

 優先順位の高いものへの投資と復興事業が優先され、嗜好性の強いサービスや施設、商品に関わるものは当然後回しになる。


「(しかし、このシュクリアではほとんどの商売人、そして店舗が既に営業を再開している。そこに領主からの治世による支援が入った形跡はない…)」

 つまり彼女は見越していた……いや大戦が起こりうる事を見越したわけではないだろう。しかし将来において領内にダメージが及ぶ何かしらの事態が発生する事を想像し、備えていた。



 物流が滞り、商売人が領外へと流出すれば税収は致命的である。


 土地や居住環境にダメージが残る数年のうちは、第一次産業をはじめとした他の業種に携わる領民は収入が減少し、満足な税を上げることができない。

 その中で、領外との取引により財を成す事の出来る商業力は、唯一短い期間である程度の税収を上げられるまでに回復可能な分野である。


 ただでさえアトワルト領の人口は少ない。


 商業が廃れることは復興のための資金源を失う事になり、復興の遅い領地を見限った領民の流出にもつながる。さらに税収は下がり、そして何も出来ないままにこの地は死んでいく事になっただろう。



「新しく商売をはじめる者には3年の間は税金を免除。さらには領主様の指定する場所で商いを行えば、免除期間が2年延びる制度がありましてね。おかげで私の小さな店でも蓄えが出来て…それが幸いしましたよ」

 そう言いながら上機嫌にもう1杯いかがですか、と勧めてくるマスターの申し出をジャックは快く受けた。


 アトワルト領のような田舎では、そもそもの税収総額もたいした事はなかったはずだ。当然、そんな領地を数年でどうにかできるはずもないが、ミミ=オプス=アトワルト侯は3年でどうにかしてみせた。


 その一端が領内での新たな商売人に対する税金免除策に、出店場所を指定するというかなり思い切ったやり方だ。

 新しい商売人が商売を軌道にのせる事は難しく、当然売り上げも伸び悩む。そんな相手から税金をむしり取ったところで、額はたかがしれているもの。


 ならばいっそ取る事を止めてしまい、商売人を多数呼び込んで商業を活性化させた方が、結果として商売人からの直接税よりも発展した町全体からあがってくる税が増加し、税収が伸びる事は間違いない。


 さらには出店場所を指定することで、町づくりという面でも効果を得ることができる。領主ならば町の全容に関する資料は山とあるため、全体を考える事が容易だが、いち商売人は狭い視野でしか考えられない。新参者であればなおさらだ。


 ここだ! …と、自信をもって店を建てても、出店位置を誤っている事は多い。当然その場合は高確率で商売に失敗する。そうなれば町にとっても無益だし、最悪の場合はその店がつぶれるまでの間、土地を占有されてしまい、町の損失にもつながる。


 だが免税をエサに出店位置を指定する事で、町の景観や人の流れの誘導もでき、商売人の利益だけでなく、町の雰囲気そのものを良く導いて作りだす事もできる。



「(素晴らしいですね、これほどのぎょくを見抜けなかった私も、まだまだ未熟でしたか)」

 一気に高級酒をあおる。ノドが心地よい熱を帯び、腹の底が良質の強いアルコールを迎えて喜びに震えた。


「ミミ=オプス=アトワルト殿に、乾杯」








 両耳がピンッと立ち、彼女は肩を震わせた。


 窓の外は晴天、差し込む光はミミの体を心地よく温めてくれている。


「…!? なんだか…ヤな感じ…」

 書類に筆を走らせていた手を止め、寒気の正体に思考を向けるが、思い当たる理由はない。誰かが自分に対して噂しているのだろうか……

 筆を置いて立ち上がると窓に体を預けるようにもたれかかり、疲労を追い出すように息をついた。


「あれから2日かぁ…。ジャックさんがうまく物資を仕入れてきたとしても最低3週間くらいかなぁ。領内だけじゃ間に合わないし、ないなぁ…時間」

 領地経営にタイムリミットなどない。魔王様から期限付きで領地をもらったりしたとかならばともかく、今の彼女に時間を気にしなければならないような事はないはずだった。


「魔界まで帰る必要があるだろうから、奏上して、謁見して、…んー、途中で通らない可能性のが大だし、かといってあの御方エロジジイにまた助力してもらうのもなー…あー、それでも時間足りないかなぁ。もっと手近なところでどうにか…は、無理だし。公にこっちから助けを求めるのはもっと悲劇を装って…ブツブツブツ」



「ミミ様、ミミさまー? ミーミーさーまーぁーっ!」

「ふぅあっ!? …あ、イフー。いつの間に…ううん、ボーッとしてたみたい、ゴメン」

 温かい日差しがポカポカで、意識が思索を呼び起こし、朦朧としてブツブツと独り言うんぬん…

 自分でも乱れていると理解できる思考が彼女の中を流れ、どうしたものか戸惑い、なぜか奇妙な動きをとっては、変なポーズで止まる。


「落ち着いてくださいミミ様。何時間も執務で机にかじりついていらっしゃいますから、お疲れになっているんですよ」

 優しい笑顔を浮かべる彼女のやんわりとした姿が、ミミの混乱を抑えてくれる。


 窓から離れて椅子に腰かけると、首から上だけで伸びをする。種族の特徴ともいえるウサギ耳も、適度に伸びをしてから己が楽な角度に向けてゆっくりと折れ曲がった。



「はぁ~…ふぅ。うん、もう大丈夫。ごめんねイフー、ちょっとヘンになっちゃってたみたい。頭の痛い案件ばかりで頭の中が茹ってたのかも」

「クス、無理はなさらないでくださいね? ストレスを溜め込むと、病気になってしまいますから」

 言いながら彼女は、運んできたポットを手に取り、カップに紅茶を注いでゆく。


 紅茶、といっても色が赤いお茶というだけで普通の茶葉ではない。魔界に住むワラビット族の熱烈なミミ支持者達が送ってくれた、彼らしか栽培していない特別な食用草を乾燥させたものを茶葉として使用している。

 他種族にはたいして美味しくないものだが、ワラビット族にとっては日常的に食用するレベルの食材だ。


「ん、いい感じ。イフーの淹れ方も上達してるねー」

「ありがとうございます、ミミ様」

 他種族にとってはなじみのない食材だけに、魔王のメイドすら務めたイフーであってもここに来た当初は淹れ方がわからず、普通のお茶と同じようにやってしまいそれはそれは美味しくないお茶が出てきたものだ。


 思い出しておかしくなる。あの時のイフーの困惑ぶりは、つい先ほどの自分のようだったと。


「んー、私もがんばらないとね。イフーだってこんなに上手くなってるんだから」

 筆を取る。書類に向き直る。そして文章を記してゆく。なんだか腕が軽くなった気分だ。


「(…そっか、らしくなかったなー私。あれこれ悩んで、考え込んだってなるようにしかならないんだし)」

 生来、ミミはどちらかといえば怠け者だ。より正確には怠けたい者、というべきだろうか。



 物心ついた頃から父が忙しくしているのを見てきた。


 幼い自分に亡くなった母の分まで愛情を注がんと、忙しい最中でも一緒にいる時間をしっかりと作り、苦労の素振りを見せなかった父の姿を見続けてきた。


 だからミミは、怠けた大人になろうと思ったし事実、表向きはそうなるように生きてきた。


 そうすれば彼女という人物はそういう者怠け者だと周囲は思う。

 大人になっても怠惰な人物に対する期待は薄いものになり、いかなる事をなそうとも自身の能力の限りを尽くさなければならないような成果ものを求められることはない。


 そうしてできた余力は、本当に必要な事にまわす。そのためにも過ぎたるを行わず、限界を捧げず、流れに任せる事を厭わず、なる様になるでいい。

 たとえそれが、己の身を切る事になるとしても最悪、死ぬようなことにならなければ勝ちだ。そう言い聞かせて、自分が納得できさえすれば、なんだって出来るはずだから。


「………はぁ~ぁ。なまけた~ぃ」

 書類を1枚書き終えると同時に、顔が溶けだしそうなほど力みを解き、机の上に滑り込むように上体を預ける。

 いつもならばミミの怠け癖をはしたないと窘めるイフスは、この時ばかりは微笑むだけで何も言わなかった。ミミを優しく見守りながら静かにお茶のおかわりを差し出した。









「メリュジーネ様、こちらにもサインをお願いします!」

「メリュジーネ様っ、東南の山崩れの件、終わりました! 街道の整備も開始しております!」

「メリュジーネ様、昨日のエルベロ領よりの物資ですが……木材が160包、鉄材が35箱、赤銅が60箱で、領内の工事に振り分けておきました。こちらに承認のサインをお願いします」


「メリュジーネ様」「メリュジーネ様」「メリュジーネ様」「メリュジーネ様」


 次から次へと、息つく暇もなく無数の部下達がひしめき合う執務室。50人は余裕で入るはずの部屋が狭く見えるほどごった返している。

 その部屋の主は、うんざりしていた。自分の名を連呼する者達は、まるで暗示でもかけようとしてるんじゃないのと思ってしまう。



「あー、もう! 少しは間をあけなさいっての! 順番に来なさい、順番にっ! ハイッ、一人づつッ!!! ほらちゃんと並んでッ!!」

 蛇の尾先が床をたたきつける。まるでムチが振るわれたような音が室内を駆け巡り、部下達は水をうったように静まりかえった。


「失礼いたします。メリュジーネ様、お茶をお持ち致しました」

 室内が静かになるのを待っていたかのように、執事―――マグロディ=アン=ヴロドラスがメイドをともなって入室してくる。メイドの押す豪奢な装飾のカートの上には、これまた煌びやかなポットとカップが乗っていた。


「じゃすとたいみーんっ!! ナイスよロディ。全員きゅーけいっ、仕事のことは忘れなさい!」

 すっかり疲れ果てていた顔に喜色が戻り、飛び上がりそうな勢いで席を立つ。メリュジーネは早く、早くと体を揺らしながら、まるで子供のようにお茶がくるのを催促した。


「本日はゼルヴァラン領より先日輸入致しました、最高級ミルクで淹れましたミルクティーをご用意いたしました」

 彼の説明に、部下達とメリュジーネはおぉっと歓声を上げる。

 ゼルヴァラン領―――それはここ、ナガン領よりも少し離れた東方に位置しており、間に他領を複数挟んでいるため、なかなか彼の地の産物を仕入れる事が出来ずにいた。


 しかし先の大戦の結果として各地の経済が疲弊してしまった事は、酪農商品を外部に販売することを主力産業としていたゼルヴァラン領にとって、それまでの売り先の購買力低下による経済的なダメージをもたらしていたのだ。


 それは経済的余力のあるナガン領にとってはまさに、ゼルヴァラン領との物流開拓の絶好の機会だった。半月ほど前に交易の相互条約が締結された後、ゼルヴァラン領の領主直轄である隊商団キャラバンの第一陣が既に2日前にナガン領に到着している。

 ゼルヴァラン産のミルクは特に名高く、メリュジーネが前々より所望していた食材の一つでもあった。



「説明なんていいからっ、焦らさないでちょうだいよぉ~」

 メリュジーネの声を聞いてか、ロディの後ろでメイドがお茶を淹れるカップを並べる手が早まる。

 もっとも大きく、そして宝石をあしらったカップはメリュジーネ専用だ。まずは領主たる彼女に…とおもいきや、メイドは先に他のカップのほうにお茶を注いだ。


「毒見なんていいってば! いつも言ってるのに」

「なりません。特に此度は他所より入ってきた品でございますれば、いかにラミア族ご出身のメリュジーネ様といえど、直接お出しするわけには参りません」

 ラミア族は、半身半蛇のナーガ系種族の中でもより優れた種族だ。多くの毒への抵抗力を有しており、毒殺の類はまず不可能だろうとされているほどである。

 当然、メリュジーネはその一族の出であり、毒物への抵抗力は指折りであり、毒殺を心配する事そのものが無駄である。


 しかしロディはある情報を掴んでいた。それは神側の工作員が地魔界側の地上領土に潜入している可能性あり、というものである。



「(この辺りではナガン領は最も大きく勢いのある地…もし敵が狙うとするならば、メリュジーネ様が最も可能性が高いはず)」

 なんだかんだ言っても、メリュジーネは魔界において万を数える諸侯の中でも、上の中に位置する上流貴族である。


 魔王にすら直接謁見可能な高位者が地上にいる―――それも神魔大戦マイソロジー・ウォーの直後のこの状勢は、神側にしても不穏分子や暴走する者が命令を無視しての行動に出る可能性は高い。



「Boo…。あ、あ…ッ! いいな、いいな~。はやく、はやく! 私にもはやくぅっ!!」

 部下が乳紅茶ミルクティーに舌鼓を打つ様子を羨んで、悶えるように懇願するメリュジーネ。犬の尻尾じゃあるまいし、下半身の蛇尾先を振るう姿はつい甘やかしたくなる、年齢不相応な可愛らしさだ。


 部下達はニヤけているが、そんな彼らをロディは鋭い視線で見回していた。



「(部下達の素性は問題な―――いえ、油断は禁物。出自の偽装など簡単にできまるでしょうし、こちらで確認できる範囲にも限界が…)」

 この数の部下である。しかもこの大きな屋敷の内外にはあわせて1000人ほどが詰めているのだ。その中の一人でも、曲者が混ざっていないとは言い切れない。


 ロディは軽く目を閉じる。脳裏で採用してきた部下、一人ひとりの姿を想起する。

 この広い執務室の中にいる者だけでも、種族は多種多様だ。ナーガ系統の種族だけで統一することも提案した事はあったが彼女曰く、“屋敷が狭くなる”との事で拒否された。


 確かにメリュジーネにしても、上半身こそ人間族の女性レベルの体躯だが、下半身は大蛇だ。移動ばかりか、じっとしている時でもその身を置く空間はある程度の広さが必要になる。個体差はあるにしてもナーガ系種族はおおむね必要とする活動空間はメリュジーネと大差ないだろう。


 それでも同族もしくは同系統種族は、あらゆる種族の中でも最も信頼がおける者たちだ。

 ……ロディのような特異な種族を除いて。




「ロディ様。お茶が入りました。どうぞ」

「ありがとうございます。………っ」

 一口カップを傾けた瞬間、味覚が異常を感じた。そして彼自身が考えるよりも早く、その周囲は全ての動きを止める。メイドも、室内の部下達もメリュジーネも、全てが一時停止していた。


「……なるほど、何も部下であるとは限りませんか。やれやれ」

 誰も動かなくなった世界で、ロディだけは口元よりゆっくりとカップを下ろす。部下全員にミルクティーの入ったカップがいきわたっており、最低でも一口は皆口をつけているが、異常の気配のある者はない。


「狙いはこのわたくしめとメリュジーネ様とは……。いやはや高く買われたもので」

 敵対者の自分への評価に対し、彼は口元に僅かに笑みを浮かべる。


 たかだか領主の執事を狙う理由は2つ。1つは領主に対する間接的な脅しだ。次はお前だ、などのメッセージ的な理由で側仕えの者を殺す。そしてもう1つの理由はロディの正体を知り、その存在と能力を脅威とみなし、排除するため。



「まぁ、無差別や犯人を辿り辛くさせようという浅知恵である線もありますが。とりあえず、まずは貴女です」

 ニッコリと微笑んだまま止まっているメイドの首筋にロディは牙を突き立てた。

 時間にして僅か1秒にも満たないが、メイドの体内には彼の血液が流れる。


「そして私のカップと、メリュジーネ様のカップは新しいものに交換させていただきますよ」

 派手で豪華なティーカップを躊躇うことなく取り払い、ロディはダイニングルームへと向かう。


 夕食の下ごしらえをしている大柄なコックタウロスの、邪気のない料理に向き合う真剣な表情に、満足そうに笑みながら食器棚をあけ、真新しいティーカップを取り出す。さらに新しい茶葉とミルクを用意すると、ゆったりとした足取りで執務室へと戻った。


 メイドは相変わらず笑顔のまま同じ格好で止まっている。その前で新たにミルクティーを2つ作って両手に持つと

「さて………、っ」

 ロディの瞳から煌々とした輝きが失せて普段の目の色に戻ると、静止していた執務室は再び動き出した。



「痛っ!? あ、あれ…ロディ様、なぜカップを2つお持ちなのですか?」


「一つはメリュジーネ様の分です。貴女はそこで待機していなさい」

 メイドは自分の仕事を取られた気がして少し不満げだったが、了承の会釈をすると大人しくその場に立っていた。


 しかしロディには彼女のすべてが理解できている。メイドの体調の変化、そして焦燥感を。



「ん、ロディが持ってきてくれたの? …………ッ! ふ~ん、そゆこと」

 カップが自分愛用のものではなかった―――メリュジーネは即座に理解の色を浮かべ、真面目な表情かおつきへと変わる。


「は。つきましては調べたく・・・・思いますので、一時退室させていただきます。メリュジーネ様もご油断なされませぬよう」

 余計な会話は謹んで、彼女は小さく頷くのみにとどめる。彼女の全身には先ほどまではまるでなかった、領主に相応しい威厳が宿っている。


「では失礼いたします。貴女も来なさい」

「は? あ、はぁ…。ですが、みなさまのカップを下げな―――あ、ろ、ロディ様っ?!」

 ロディはメイドの腕を引いて執務室を後にする。その並々ならぬ様子に、一部の部下は何事かとカップより顔をあげていた。


「あの、メリュジーネ様。ロディ様はどうかなされたのでしょうか?」

「うんー? さぁ~ね。彼もいい歳だし? メイドに欲情でもしちゃったんじゃないのー?」

 既にいつもの調子に戻り、適当にそ知らぬフリをするメリュジーネ。無論、メイドがこの後どうなるかは知っている。




 ロディは吸血鬼族ヴァンパイアの出身であるが、その能力は同族の中でも特異だ。

 彼の瞳に赤き輝き灯る時、弱き者はその姿捉える事叶わず。

 ――――<統べたる者スロウタイム時を駆けるラピドセルフ

 その能力のせいで、幼き頃より同族内でも異端視された彼は、長きに渡り孤独な生涯を送ってきた。


 子供の頃の彼を擁護し、庇ってくれたのは両親のみ。そんな優しき肉親二人がいつかの大戦でこの世を去った後は、能力を恐れられて満足な労働にも付けず生活も叶わず、中流貴族でありながら酷い貧困と孤独に苦しむ日々を送った。


 1万歳を超えた頃に魔王によって見出され、ようやく彼は自由を手に入れる。若い時代を無為に過ごさせられた無念は、その時の喜びが塗りつぶしてくれた。


 そして今、こうして執事の仕事をしている。本来ならば領主に任じられてもおかしくない身分であるが、彼は孤独の半生を埋めようとするかの如く、誰かの側に仕える事の出来る今の仕事をこの上なく気に入り、生き甲斐になっていた。




「……それを壊すなど、何者であろうとも許しません。決してね」

 椅子にくくりつけられたメイドは、上気だってしなだれている。えもいわれぬ興奮、性欲の高ぶり、そして全身が吹っ飛んでしまいそうなほどの解放感。

 荒い息をつきながら、これまでひた隠してきた背中の翼エンジェルウィングを尻尾がわりに羽ばたかせ、ロディを熱い視線で見つめていた。


「しばらくそうしているように、相応の処置は後ほどして差し上げますので」

 一切の感情が宿らぬ一言を投げかけると、彼はその部屋を出てゆく。窓もなく、一つしかない入り口が閉ざされ、完全に闇に包まれた瞬間、メイドの中に入ったロディの血が暴れだす。


 完璧な防音の壁を伝ってなおメイド天使の悶え叫ぶ声が牢獄の外にまで伝わる。

 時間が経てばたつほど、彼女の性欲と快楽は高まってゆき、ロディを欲してたまらなくなってゆくだろう。



 そうして訪れる未来は2つ―――従順なペットとなるか、耐えられずに壊れて生ゴミとなるか。

 執務室へと戻ってゆくロディにとって、それはどちらでも構わない。洗いざらいを聞き出し終えた彼女メイドに重要性はなく、至極どうでもいい存在ゴミでしかないのだから。



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