第1章4 孵らぬ卵を抱く

―――それは、大戦の最中にさかのぼる。



 大いなる炎は慈悲もなく弱者を焼いた。非戦闘員にすら及ぶそれは現場の兵達にはなお強く、無残に降り注ぐ。



 アァァア゛ァァァァ゛アァァアァァア゛ァアァァア゛ーーー………



「ぐああぁあぁ!!? な、なんだこの音はっあぁぁ!?」

「あ、ああ…、たい、ちょ…おぉお!! ひぎいいぃいいあいあ!?」

 ある者は五体が引き千切れ、ある者は白目をむいたまま吐しゃ物を撒き散らして倒れた。


 魔界軍、地上第12師団迎撃方面軍。彼らは今、猛烈な“こえ”に晒されていた。


「こ、これも攻撃…なのぐぁぁあぁああああ!??」

 ある兵士は緑色の液体となって溶けた。


「えべへえぇぇえぇええげえぇええぇぇえ………」

 またある兵士は内蔵を口からぶちまけて、膝を地面について絶命した。


 ―――阿鼻叫喚。


 そんな地獄の中に、彼―――マサノブ=サエモン=マツシマもいた。


「(ううううう…ま、負けるものか! メルロ…っ、オレは…君の、ためにっ…生きて、生きて帰るんだっ!)」

 身を丸めて地面に伏し、両耳を塞いで懸命に音に抗う。

 次々と奇怪な同僚達の死に様……襲い掛かる苦痛と幻覚は、まるで個々に異なる・・・・・・破滅を与えられているようだった。


 事実、マサノブの視界にはこの場にはいないはずの妻の姿が映っている。しかもそれは、彼が考えうる限り最悪のシチュエーションで像が見え、声が聞こえているのだ。



「(せ、精神への攻撃だ、これは…これは嘘だ。そう、オレを、オレを追い詰めるための幻覚なんだっ、耐えろ、耐えろっ、耐えろっ!)」

 今時珍しい、純血に限りなく近い人間種であるマサノブには魔法の類は一切使えないし、身体能力も他種族に比べて貧弱だ。

 それでも戦場に兵士として志願したのは少々の戦功でも莫大な恩賞が出る上、万が一の場合でも手当てが充実している。

 そして何かの偶然でも大きく稼いで帰ることができれば……。



 妻、メルロは人間の美観から見ても美人で可愛い女性だった。その容姿には人との差は少ない。

 それでもハーフトードマンである彼女との結婚は、障害の連続であった。


 異種族と結ばれる事は昨今、どの種族であってもさほど珍しくはない。

 しかし生態的に弱すぎる人間は、寿命の短さもあって相手として歓迎しない種族もいる。蛙亜人族トードマンは特に自種族の繁栄と規律を大事にする種族で、多くが彼と彼女の結婚に反対した。


 結果としてメルロが、種族領土に二度と踏み入る事ならずという事実上の追放処分を受けたのと引き換えにして、ようやくマサノブは彼女と結ばれた。


 つまりメルロは、仲間である一族を捨て今後一切、一族からの援助も支援も受けられない身となってまで彼と添い遂げる道を選んだのである。





「がぐうううう!! だ、めだ…ぁがぁああ、じ、じぬぅううう!」


 ボンッ!


 また一人、すぐ側で同じようにうずくまっていた赤童子レッド・ドウジの兵士の両目がめちゃくちゃに動いかと思うと、直後その頭部が爆発し、彼は絶命した。


 転がった目玉とマサノブの視線が交錯する。


「……っっ…、…ぅ…ぅ…」

 嗚咽が漏れる。吐き気がノドをのぼってくる。涙が溢れそうになる。


 彼はその巨躯と強面に似合わず、昨晩気さくに話しかけてくれた兵士だった。

 会話をかわし、ともに食事を囲った仲間のむごたらしい死に様は、なんの力も持たぬ彼に途方もない恐怖を与えた。


 ・

 ・

 ・


「す…こし、弱まってきた、か? はぁはぁ、ど、どれだけ生きているっ!? 無事なものはっ、へ、ん…じを! ぜぇぜぇ…はぁはぁっ」

 音の弱まりと共に、小隊の隊長がよろめきながら立ち上がった。


 屈強な体躯に歴戦のつわものを思わせる傷跡を持ったハーフファフナー混血の魔龍族ですら、今にも息絶えそうなほど青ざめている。


 隊長としての責任を果たさんと、軍旗のポールを掴んで懸命にその身を起こし、部下達へと声を飛ばした。


「…た、たいちょう…はぁはぁ、なん…とか…」

「おお、マサノブ! お前、無事だったかっ」

 生存者がいる――それがどれだけ勇気付けられる事か。もし誰も声をあげなかったとしたら。生き延びたのが自分だけだったとしたら、隊長の心は折れて死にその身を預けてしまっていたかもしれない。


 それほど部下の生存への喜びがものの声には宿っていた。


「…た~…ちょ…お。こ、っちも…ぜぇぜぇ、い、生きて…ますぜ…」

 死体と化した者達の中で、なんとか片腕をあげて生存報告する者。


 上体を起こそうとして、何度も地面に吸い寄せられてしまっている者。


 いまだ幻覚に悩まされた精神を引きずり、言葉にならない声で返事をする者。


 ……自分の想像よりも生きている者が多くて、隊長はひとまず胸をなでおろした。








「102名…か。2000はいたはずなんだがな…」

 深い森の中、隊長は肩を落とす。

 マサノブも他の兵士達を見回して絶句した。自分を除けばあれほど強そうに見えた部隊の面影はどこにもない。何度かの戦闘でもその勇姿に、自分はなぜもっと強い種族に生まれなかったのかと羨望の眼差しで見つめたほどだったというのに。


 それが今、駐屯中の陣屋を放棄し、さらなる攻撃を避けるべく森に避難した部隊はあと一突きされれば全滅しそうな、まさに風前の灯の状態にまで弱りきっている。


「ともかくだ。他の部隊と合流するのが最優先。敵部隊を見つけても戦闘は避ける」

 どのみち戦闘なんて無理だった。今もマサノブの隣でせっかく生き延びた兵士がゆっくりとその身を地面に預け、そして動かなくなった。

 種族に関係なく、誰もがもはや一滴の気力だけで生をつないでいる。仮に敵に遭遇してしまったらもう殺されるしかない。


「(いや、オレはあきらめない! メルロが待ってるんだ、生きて…帰るんだ!)」

 人間という最弱種でありながらあの攻撃に耐えられたのは、最愛の妻のおかげだとマサノブは思う。彼女の存在があるからこそ、彼は押し寄せる破滅のビジョンにも耐え抜けた。


「(あんな、あんな事には! 生きて帰って、そしてメルロを一生大事に…幸せにしてやるんだ!)」

 彼が見た幻覚―――それは最愛の妻が醜い男達に暴行され、無残に堕ちてゆく様だった。


 泣き叫ぶ彼女を助けることもままならず、やがてその瞳が自分を見なくなり、虚空をさまよって色あせ変わりゆく。

 モノ言わぬ肉奴隷に成り果て、男達が飽きた瞬間、ボロボロになったその身をめった刺しにされて絶命する妻の顔がこちらを向いて猛スピードで腐っていった。


――――――思い出しただけでも身の毛がよだつ。精神が絶望にとらわれてしまいそうになる。


 幻覚と認識してはいてもなお精神が死に誘われる。

 ただの幻覚ではない、これは確実に高レベルの精神攻撃に違いないと自分に言い聞かせ、こびり付いたイメージを脳内より必死にふりほどき、彼は気力を振り絞った。



「隊長、他の部隊に合流するにしても、ルートはどうしましょう? あまり長い距離は…」

「わかっている。皆疲れ果てているからな。ワイバーン飛竜が1体でも生き残っていればよかったのだが……とにかくまずは一番近い位置に構えていた第四小隊の兵站に向かう。あそこならここから1kmもないはずだ」

 誰も異を唱えはしない。それが今とれる最善である事をわかっているからだ。


 彼らにとって最悪なのは、その第四小隊も全滅している可能性だろう。


「(いや、オレ達で…オレですら生き延びれたんだ。絶対に生き残ってる! 無傷でなくとも、必ず生き残りがいるはずだ!)」

 それに第四小隊はこの辺りの部隊全ての後方支援を担っている。食料や医療品などの物資も預かっていた。

 合流すれば最低でも物資の補充に傷の手当と食事など、一息つく事はできるだろう。他の兵士もそう思っているのか、一抹の希望が皆の目に灯ったような気がした。







……しかし、彼らにとっての最悪は今、天より降り注ぐ。



「!? 熱―――」

「な!? ぁ―――」

「えっ…――――」

「う? ―――」

「…――――」

 光が、白亜ではない色の熱光が全員の視界を埋め尽くした。


 グレートラインの麓に広がる森が、美しい深緑の森が濃淡のない単一の白に染まって、そして


「メ、ル…ろ……ぉ………っ…――――――――」


 ・

 ・

 ・


 地表に浴びせられた爆風が、十数秒の後にようやく霧散する。跡に森の木々はなく、そして生き物の姿も、骸も、影すらも……


 そこには何一つ、残ってはいなかった。











 近隣の村の者から聞いた話では、その知らせが届いたのは強い雨の日。大戦終結より3日後くらいの事だったという。


 夫の死亡――――魔界正規軍よりの使者が持ってきたという書面は、10行程度の文章がつづられてはいたが、要約するとそれを伝えるのみのものだった。



「……そうかぁ」

 は、それしか言えなかった。


 台所の整理を行っている最中に見つけたソレを、丁寧に折って元あった引き出しへと戻す。

 そして下を向いてしばらくその場にたたずみ、面識のない男の冥福を祈った。


「だがよ…、可哀そうとは思うけどよ。このままじゃあいけねぇよな?」

 目を見開き、強く鼻息を吹く。お世辞にも格好がいいとはいえないが、精悍な面持ちで彼は向かう。メルロの元へと。




 彼―――ドン=オンブラは小亜人族ゴブリンである。


 メルロの親類でもなければ知己でもない。まったくの赤の他人な彼は今、彼女と亡き夫の新居に住み着いていた。


 手作り感の残る木造のログハウス。部屋数は少ないが2階建ての家は世帯が暮らすには十分な広さだ。金をかけたところは見られず、家内にある物品の少なさからも裕福でない事はすぐにわかる。


 そんな家の階段を、ドンは建築者への敬意を込めて丁寧に昇っていった。2階の一室にノックもせずに入り、室内の中央に腰掛ける人物に近づいていく。



 彼女―――メルロは、未亡人だった。


 一人暮らしの若い女がいる、それだけでドンはこの家に押し入った。すぐに彼女を見つけ、押し倒し、欲望の赴くままの行動の限りを尽くした相手。


 ドンは悪党だ。ケチな犯罪を繰り返してきた最低の男である彼は、機会・・を待ち望んでいた。

 一人暮らしのハーフトードマンの話を最寄の村で仕入れた時に、その機会が来たと思い、即座に行動に移した。


 結果、あっさりと成功をおさめたわけだが、徹底的にけがそうがねぶりつくそうが、まるで反応のない彼女メルロ

 全てを終えても、意識があるにも関わらず、泣くでもなければ怒るでもなく、ただ天井を見つめる虚無さが気になってしまい、放っておけなくなったのが全てのはじまりだった。



 それから既に1ヶ月近く。


 ドンは押し入り強盗加害者でありながら、被害者メルロの家に住み着き、彼女の世話をする奇妙な暮らしを続けていた。





『気持ち悪い! 近づかないでくれる!?』

『ゴブリンがっ、身の程を知りなさいよねっキャハハハハ!!』

『うっわー、ラブレターとかひくわー。ねぇ自分がゴブリンだってこと、ちゃんと理解してるぅ?』


 ドンにとって、女性とは忌むべき存在であった。


 小さい頃からドンは、ゴブリン族の中でも優秀であり、魔界の学園の地上支部キャンパスに通えるほどの知能も財産も意欲もあった。



 小柄なゴブリンの中にあって体格もガッシリと筋肉質で、戦いの技術にも長けた、まさに文武両道のエリートであった。

 …だが見た目が醜悪と罵られる種族の出自である事だけはどんなに努力しようとも払拭する事はできなかった。



 往々にしてよくある事―――それは醜い者への偏見である。


 全ての者がそうではないだろうが、少なくともドンが在学していた頃、彼の周りにいた女達は、外見が悪いというだけで彼を見下し、陰口を叩く陰湿な性格の者達ばかりだった。



 ―― 純朴な恋心を踏みにじられた回数は両手では数え切れない。

 ―― 言われもない悪口に一体どれだけ我が身を突き刺されたか。

 ―― 成績に劣る者達によるねたみがそうさせるのだろうかと、あくまで自分に問題があるのではなどとお人よしな悩みを抱え、日々眠れぬ夜を過ごした。



 そしてそんなドンの心を救ってくれる女神様はついぞあらわれはしなかった。


 世を恨み、ゴブリンに生まれた事を恨んだドンは、学園卒業後みるみる落ちぶれていく。


 たとえ自分がどうなろうと構わないと、捨て身になって犯罪に手を染めた。だが彼は不思議と捕まりはしなかった。

 盗みを中心にケチな軽犯罪ばかりを繰り返したとはいえ、あまりに捕まらないことに一時はその地の治安を危惧した事もあったほどだ。


 運がいいのか、はたまた自分の犯罪計画が巧妙なのか……いつしか彼は、捕まりたいと思うようになった。


 死にたかった。極刑に処して欲しかった。そしてこの世界より自分という存在が消えてなくなればいいとさえ思うようになっていった。


 しかし同時に彼はこの世への心残りを覚える……復讐だ。世の女達への復讐を望む。すると2つの望みは1つへとあわさった。


 醜い自分が、か弱い女を乱暴を働き、そして捕まって死刑になればいい―――と。





「おい。夕飯ゆうめしだぞ」

 ドンの言葉に、メルロはかすかに瞳を動かすだけだ。それは彼の声を聞いているというよりも何か音がしたから反射的に動かした、というだけの微々たるものだった。


「………」

 メルロは何も言わない。だがこれでもまだマシになった方だった。


 最初の頃は、どんなに大声で叫び、わめき散らしてみても僅かな反応すら返さなかったのだから。



「(一体ナニをしているんだ、オレは…)」

 ゴブリン族は本来、あまりしゃべるのが得意ではなく、最低限の言葉数で会話を成す。

 それは体の構造上しゃべるのが難しいというわけではなく、単純に知能が低い者が多いためだ。


 しかし彼らは恐ろしいくらいに上下差別を行わない。知能の多寡で同族を卑下したり、妬んだりする者はいない。

 ドンはそんなゴブリン達の中では非常に高い知能を有していた。人間族の学者並に物事を理解できるし、辞書を丸暗記が出来るほどの記憶力だってある。


 たとえ今のメルロが、失意に我を失っている非健常者であっても、こうも世話を焼くのは、そんなゴブリン族特有の共存意識がいい方向に働いき、彼の優秀さがその活躍の場を求めた結果なのかもしれない。

 見知らぬ家の、他種族の生活様式も彼には難なくなじめたし、彼の種族ではなじみのない道具の数々も簡単に使いこなせしていた。



「ほら、食べろ。死ぬぞ」

 最初は口をあける事すらしなかったメルロだが、ドンが強引に口移しで喰わせ続けてきた結果、数日前からようやく差し出したスプーンを受け入れてくれるようになった。


「(ゴブリンのディープキスと唾液交じりの食べ物をいつまでも喰いたくないってとこだろうな……)」

 絶望に心身を投げ出しているからこそ自分のような者が側にいても、何をしようとも悲鳴ひとつ上げないだけで、正気に戻ったならばきっと彼女も……


 自分で考えて嫌になる。穿った見方しか出来なくなっている自分が。しかし、本当に彼女の心が戻った時、いったいどんな反応を示し、どう思うだろうか?


「ハハハ、決まってる。あなたは誰だとわめき散らし、罵倒の限りを尽くし、追い出そうとするだけだ。それ以外何がある、なぁ?」

 問いかけたところで、彼女は変わらず虚空を眺めながらスプーンの中身をコクリと飲み干すのみ。今はそれが精一杯だった。


「(……やっぱりこのままじゃ、ダメだ。どうにかしてやらないと)」

 あるいは、世界より隔絶された気持ちになったかつての自分と、今のメルロが同じだと同情心が働いているのか?


 あるいは、正気に戻ったところで今度こそその心身とも強引に手篭めにしてやろうなどと、ドス黒くよこしまな欲望をまだ抱いているのか?


 彼女は自分とは違う。器量が良く美人、亡き夫を忘れさえすれば彼女を望む男は引く手数多だ。その未来は大きく開いているはずなのに……


 そこまで考えて、彼は虚しくなる。急激に高まる嫉妬心が抑えられない。


「は…ははは…は、なんだ、結局。ない者ねだりなんだ、お前はっ! ははは、ははははっ、それに比べてオレは、オレは、オレハァァァァ!!!!」

 ドンはメルロを椅子から引きずりおろし、ベッドへと投げつけた。受身など取るはずもなく、大きく作られた夫婦用の布団の上を彼女は転がる。



「オレハ、オレハ! オレハホントウニナニモナイッ!! ナインダッ、ナインダァァッッ!!!」

 鬱屈したものが一気に爆発する。


 勝手に思い込んだだけだ、メルロと自分が似たもの同士かもだなんて。


 勝手に思い込んだだけだ、彼女と自分は違うだなんて。


 高い能力を持ちながら、生涯において苦渋を歩み続けてきたこの小亜人ゴブリンは、メルロに沸き起こる鬱憤をメチャクチャにぶつける。


「(最低だ、オレは、最低だっ)」

 死にたい。こんな酷い生き物が生きていていいわけがない。今、彼を突き動かす衝動は情欲ではない。

 不細工というだけで嘲笑の的になり、不細工というだけで華達に毛嫌いされ、不細工というだけでその心は劣等感に悩まされる。


 ドンは思う。


 こんな思いをするならば知能なんてなければよかったと。同じゴブリンの他の連中は、己の容貌など気にも留めないし、気にしない。下品にゲラゲラと笑って、楽しそうに生きているじゃないか。


 自分もああなりたかった。こんな辛い思いをするくらいならあんな風に笑っていられる存在でありたかった。


 ほら、結局自分だけが違うんだと。同族と比較してもやはり孤立した存在だと、自己をどこまでも貶めてゆく。

 

 自己嫌悪、もしくは自己存在嫌悪とでも言うべき負のスパイラル。



 何日かに1度、彼はこうして暴発していた。ダメだと思いつつも、懸命に普通に戻してやろうとしている者を……積み上げた努力を自分で壊す矛盾を感じても、なお彼は定期的にやってくるこの衝動を止められなかった。


 ドンが流す涙は滝のようにメルロのカラダへと落ちてゆく。涙が滑り落ちた後の素肌は適度に湿り気を帯びて、沈む夕日の紅に彩られ、艶やかな輝きの照りを返していた。









「では、ご依頼の品は確かにお納めいたしましたよ、アトワルト候」

「確かに……受け取りましたわ。もう一つの件もよろしくお願いしますわね、ジャックさん」

 館の玄関で仕入れを依頼した品物が入った箱を受け取る。

 そんなミミのやや後ろに控えているイフーは、微笑みこそ浮かべてはいたものの、ジャックに向けて早く帰りなさいと敵意むき出しな視線を送っていた。


 ジャックは相変わらず不敵な笑みを浮かべたままだが、確実にイフーに敵視されている事を感じ取っている。むしろ面白い、受けて立ちましょうとでも言い出しかねない、嬉々とした雰囲気すらかもし出していた。


 そんな二人に前後を挟まれているミミは…


「(はぁ、なんだかなぁ~)」

 どっと疲れていた。表だってケンカしはじめないだけまだマシだが、勘弁してほしいと肩を落とす。


「ではこれで本日は失礼させていただきます。今後も何卒、ご贔屓に」

 ―――バタン。


 館の外でジャックが別れの挨拶の言葉を言い終えた途端、イフーが扉を閉めた。

ご丁寧に急ぎ、鍵までかけている。全てを終えて振り返った彼女は実に良い笑顔をしていた。


「……いいけどね。とりあえずイフー、これ運ぶの手伝ってくれる?」

「はい、ミミ様。……ですが、これは一体なんなのでしょうか? あんな胡散臭くも怪しく、危険極まりなさそうな怪しい商人にご依頼されてまで」

 そこまで言う?――――どうやらイフスのジャック嫌いは筋金入り。確かに好かれる類の者ではないが、ミミにしても何かと用立てしてもらいたい故、あまり険悪にならないでほしかった。


「いろいろ。この先必要になるモノとか、領内で手に入らないモノとかね」

 確かに二人して両手で持ち上げ運んでいる箱は大小さまざま。

 今イフスとミミが運んでいるものも、中から聞こえる音が異なっており、大きさのみならず内包されてる品物もまったく違う物のようだった。


「言ってくだされば、信用のおける商人を手配いたしましたが」

「……フツーの商人じゃ手に入れられないモノとかもあったりするから。…まぁ、蛇の道は蛇ってトコかな」

 言いながら、ミミは少し懸念を覚えた。イフスは少し “ キレイ過ぎる ” のだ。


 どんなに嫌いな輩であっても、必要とあれば取引や対話を行わなければならない。

 それは社会全般において生じて然るべき事であり、好き嫌いの感情だけで判断していては取り返しのつかないような失敗を招くこともある。


 ましてや貴族社会に生まれ領主という役目ある地位につく者にとってはより顕著で、綺麗事以外の汚い事にも目をむけ、手をよごす必要性と覚悟を理解して実行する必要が出てくる。そうでなければ上手く回らない事も少なくない。


「(やっぱりイフーは外さないと・・・・・耐えられないかなぁ。と、なるとやっぱり人手が足りない…か、う~ん……)」






――――――深夜、ミミの私室。


「…拝啓…は、ヘンかな。そんなにかしこまった書き方はキライそうだし。やっほー、元気ー? って…同級生じゃあるまいし、これは砕けすぎ」

 机に向かう彼女は、手紙の書き出しになんと書くべきか迷っていた。封書にはすでに届け先と宛名を記し終えている。


 魅惑的な半透明のネグリジェ姿寝巻きで机に向かいながら呻る。彼女の肘のすぐ横に置いてある封書の宛名には、隣のナガン領領主、メリュジーネ=エル=ナガン候の名が記されてあった。


 同じ地上領土の領主とはいえ、年齢的も領主歴でも先輩である相手、なおかつ自分よりも上位の爵位を有する大貴族。


 しかし一方で、堅苦しいことがキライであり、ワガママ奔放なところがあり、過去にはお忍びで遊びにきては、部下の人たちにこっぴどく叱られてた事もあるなんとも形容しがたい親しみを覚える人物でもある。



「うう~、とにかく大事に・・・ならないように仕向けなくちゃいけないから…少し崩し気味で、フレンドリーかつ大丈ブイッ、的なはっちゃけた感じにしてしまうのも…いやいやいや、少しは敬意を払った表現に…」

 貴族同士の手紙ともなるとその書き方一つで意味が変わってくる。

 中には本当になんの変哲もない雑談を記して、込められた真意を相手に読み解かせるような暗号めいた手紙を書く場合もあるほどだ。ヘンに勘ぐられたりするとあの性格ではとんでもない行動を起こしかねない。


 だからこそ今後のことを考え、ミミは隣の領主のメリュジーネにこちらは大丈夫だ、と伝えておきたかった。


「……どのみち、事が起こったら話は確実に伝わるんだけど事前に察知されるよりはいいし。でもなぁ…そうするとやっぱり足りない…ううん~」


 コンコン


『ミミ様? まだ起きていらっしゃるのですか?』

「あ、うん。もう少ししたら寝るから。イフーも見回りご苦労さま」

 扉の向こうから聞こえるメイドの声。ミミは書きかけの手紙を片付けると、もういいやと席を立つ。

 煮立った頭ではいい考えには至らないと、すっぱり諦めてもう寝てしまおうと思考を切り替えた。


 はしたなくはあるがベッドに飛び込むと、布団の上で二度三度とゴロゴロして手足を思いっきり伸ばした。


「やっぱり人手不足だよね~…ふぁぁぁ、ゴメンねイフー…苦労…かけ…る…、…」

 毎日の忙しい執務はベッドに入るとすぐに心地よい睡魔を運ぶ疲労を与えてくれる。


 山積した問題はまだまだ底が見えない。それでも仕事への不安より疲れが勝り、ミミはすぐさま眠り落ちた。










「Zz…z……グス……、zz…z……」

 自分の胸の中で、やや低くくぐもったような寝息を立てるゴブリン。窓の外はすっかり夜の帳がおりていた。


「………」

 物言わぬ瞳は、天井を眺め続けている。


 涙に濡れた胸の谷間…他種族ならば気持ち悪いのだろうが、ハーフトードマンの彼女には適度な湿気とペタペタした触感がむしろ心地いい。


「………」

 彼女は全てを感じていた。失意の中にあっても、我を忘れていても、我が身に何が起こったのかはちゃんと全部覚えている。


 夫の死を知った日から何もする気がなくなった。死にたくなった。死んで夫の後を追いたいと思った。


 でも…できなかった。


 一日がとても短く感じて、何度も日が昇り、落ちて、また日が昇る。

 何度か村人が来たのも覚えている。何かを語りかけてくれていた。それは励ましの言葉だった。

 でも届かないし、響かない。なぜなら自分と同じ境遇の者は、村にはいなかったからだ。



 一族を捨てでも愛したあの人が永遠に戻ってこなくなった悲しみ。どこにもいけない、誰にも頼れない。口だけの同情はこの心を潤しはしない。


 そうしていつしか、誰も来なくなった。




 あの娘はもうダメだよ―――最後に訪ずねてきた村人の一人が、帰り際にそう言っていたのが、記憶にある。


「………」

 その通りだと思う。私はもうダメだと。あの人のいない世界で、いったいどう生きていけばいいのだろうか?


 それから数日後に彼はやってきた。

 乱暴に押し入ってきて、私を押し倒し、犯した、穢した、それも徹底的に。



 ………別に構わない。満足したならそのまま殺してくれると嬉しいとすら思っていた。そのための代金だと思えばお安い良心的なものだと。


 だから最初から抵抗する気もない。泣き叫ぶ声も涙も、とっくに枯れてしまっている。


 ああ……願わくば、アナタの元へいけますように。心の中でそう祈った。


 でも不思議な事が起こった。小さな体躯の、しかし力強い彼は、私の世話をしはじめたのだ。


 毎日料理をつくり、食べさせに来る。


 あの人がなけなしのお金で材料をそろえ、その手で建て残したこの家を掃除してくれる。答えない私に一生懸命に話しかけてくれる。


 なぜそんな事をするのか? 理解できなかったしする気力もなかった。




 でも…今日はなぜか、熱かった。


 お腹の中に、すごく熱いモノが流れ込んできた。

 それは初日の時とは違う心の熱さ。肉体を通じて流れた、彼の心の慟哭だと理解できた。









 ホー…ホー……ホッホーウ…ホー、ホー…


 満月の下で、フクロウが鳴いている。メルロは、いまだ虚空を見つめたままだ。

しかし、その手がゆっくりと動きはじめる。



 本当に、本当にゆっくりと。


 やがて手のひらが自分の胸の中でいまだ涙を流しながら眠るゴブリンの頭に触れた。そしてゆっくりと、ゆっくりと撫でる。


 取り返しのつかないモノ、かけがえのないモノ。


 失った者達がはじめて真に深きところでつながりあった瞬間、捨てられて久しかった彼女の心は、僅かながらこの世に還ってきはじめていた。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る