第10話 魔王の世界(前編)
『ああ、勇者はいない、何処へ消えたのでしょう?
英雄よ、魔王を打ち倒す、希望の光。
どうして霧の夜、あの岬へ赴いたのかしら!
ああ、勇者はいない、何処にもいないわ!
残されたのは、魔王の首を刎ねた聖剣だけ。
アダマンタイトの、その輝きだけが真実を知るの』
―――― 作者不詳 『都の流行歌』 より。
*
魔王が復活して、一年が経ったある日のこと。エクヴィルツ薬草店は、今日は朝から客も訪れない。端的に言うと、暇だった。年に一度あるかないか、というくらいに。
ディルクは一人、書物を読んでいた。レネは薬草摘みだ。ディルクがページを捲っている羊皮紙を束ねて作られたその本は、学者兼竜使いのアンジェリカから借りた物。
アマデウス・ヴェスティンの『古今伝説集成』だった。隣にも数冊ほど、本を積んでいる。どれもアンジェリカから融通してもらった物だ。
「ふああ。まあ、暇潰しには丁度いいな。たまには本を読むのも悪くない。気になる発見もあったしさ」
余りにも暇すぎて、独り言なんて呟いてしまうディルクだった。
全ての人間が本を読めるわけではないが、商売上、ディルクは読み書き計算を身に着けている。行方不明の父と、幼い頃に亡くなった母から教わったのだ。
「これも読み終わったし、次は――。なんだこれ、著者がアンジェリカ・ノーノになってるぞ」
タイトルは『初期勇者の伝説について』だった。流石、学者というべきか。自分でも本を書いているとは。
ディルクが好奇心に駆られて表紙を捲ったその時、普段は軽やかな鈴の音が、いやに重みを含んだ音色で鳴った。
「――いらっしゃい」
ディルクの声と共に現れたのは、古ぼけた灰色の、目深なフード付きのローブを纏った、老人だった。白い髭が伸びっぱなしだ。
ゆっくりとディルクに近づいた老人は、フードを被ったままでは失礼だと思ったのか、フードを取り素顔を晒す。
顔には幾つもの皺が刻まれている。典型的な、年を経た男の顔だ。
「すまんが、紅雪草を売ってくれないかね」
「運がいいな、昨日入荷したばかりだ、いくらでも売ってやれるぜ」
「おお、そうかね。では――」
有用な痛み止めになる紅雪草を用意しようとして、ディルクは眉を顰めた。老人の皺だらけの右手が目に入ったのだ。
「いや、まった。やっぱりあんたには売れないな。手が震えてるぜ。中毒症状が出てるんじゃないのか」
言われて、老人は右手を左手で抑えた。震えは中々止まらない。やれやれ、とディルクがため息を吐いた。
紅雪草の副作用だ。長く使い続けたり、一気に使い過ぎたりすると、こうなってしまう。新たに紅雪草を摂取すれば収まるが、一時しのぎでしかない。
「これは参ったな。――――そうだ、私はサトヴァナと名乗る女にここを聞いて来たんだが、それでも売ってくれないのかね?」
「なんだと?」
ディルクは少し思案する。死にたがりの不死の女を思い出した。出会ったばかりのこの老人は信頼出来ないとしても、彼女ならば信頼出来る。
「――――いいだろう、売ってやる。ただし、少しずつ使えよ。一気にやると命取りだ」
「その心配はない」
老人は言い切った。ディルクが真意をただそうとしてその瞳を見つめると、老人は目線を逸らす代わりのように目を閉じ、深い息を吐く。
「長い付き合いだ、その辺は心得ているのだよ」
そして、目を閉じたままそう言った。
紅雪草を渡し、代金を受け取る。踵を返そうとする老人を見て、ディルクはまったをかけた。
「少し、話をして行かないか。暇なんでね、付き合って貰いたい」
「ほう、珍しいことがあるものだ。普通は老人の長話に、若者が付き合うものだが――。まあ、いいだろう。私もやることがなくなってしまってね、暇を持て余していたんだ」
「立ってちゃ辛いだろう? 椅子を使ってくれ」
そう言って、ディルクはカウンター越しに丸椅子を渡す。老人はそれにゆっくりと腰掛けた。それを待ってから、ディルクは切り出す。
「なあ、あんた。勇者についてどう思う?」
「突然だね。魔王を倒した者に与えられる称号だろう。全ての人間から称えられる存在だ。違うかね?」
「その通りだ。ただ、俺は最近勇者について気になる事があってな。知り合いの学者に聞いてみたんだ」
「ほう、それで?」
「するとそいつは自分で調べてみるといい、きっと面白いはずだ、なんて言いやがる。で、渡されたのがこれだ」
ディルクは手元にあった数冊の本を指し示した。それを見て、老人は初めて愉快そうになる。
「はは、いい学者じゃないかね。羊皮紙の装丁本なんて、高い代物だよ。それを惜しみなく貸してくれるとは。――それで、何かわかったのかね?」
「ああ。興味深いことがな」
「ほう? 聞こうじゃないか。ただし、詰まらない話なら、少々薬草の代金をまけてもらおうかね」
興が乗ったのか、老人は挑発的に言った。ディルクはいつもの、低いながらも響きのある声で答える。
「きっと満足してくれるぜ。――――実は、勇者の最期についてはっきり記された記録は存在しない。いつも曖昧なんだ。いつの間にか、歴史から消えている」
「…………ふむ、それはつまり、どういうことなのだね?」
「つまり、勇者は一人も死んでいないってことだ。少なくとも、死を確認されたことは一度もない。――――奇妙な話だろ? 勇者だって人間だ、死なないはずがない。なのに、誰も死んだところを見ていないんだ」
「なるほど、確かにそれは、随分と奇妙な話だ。それで?」
老人は話を促した。どうやら薬草代をまけられることはなさそうだ。そしてこの食いつきに、ディルクは確信を持つ。
ゆっくりと溜めて、その一言を口にした。
「俺は、あんたが勇者じゃないかと疑っている。…………不死になった知り合いが二人ほどいてね。一人はまあ、ちょっと事情が特別だからあれだが、もう一人はあんたと同じように紅雪草が手放せない」
「サトヴァナ、という女のことかね。彼女とは偶然出会って、手持ちの紅雪草を分け合った程度の仲なのだが」
老人も話を察している。サトヴァナの名前が出てきて、ディルクは頷いた。恐らく、老人は彼女が本当の名前を名乗っていないことにも気づいているだろう。
同じ人間が、いつまでも生きているのはおかしい。不死の人間は、名前を変えて姿を消すべきなのだ。まあ、中には名前どころか姿が丸切り変わってしまった奴もいるが。
「そう、一人はサトヴァナのことだ。で、もう一人の事情が特別な奴ってのは、まあ一度肉体を失ったんだ。肉体がリセットされたからか紅雪草も使ってないし中毒にもなっていない。ところが、そいつは自称勇者、リント・オルシーニだという」
つまり、話をまとめると、ディルクはある事実を示唆していた。勇者は死なない、不死である。そして長く生きた不死者は、サトヴァナのように痛み止めが手放せない。
翻って、同じように痛み止めを手放せないこの老人も不死者であり、そして勇者ではないか、と。
「ふむ。しかし、それで私が勇者だというのは、少し早計ではないかね? こんな老いさらばえた勇者が、どこにいる? ただの紅雪草にやられた老人ではないのかね?」
「いるだろう、一人だけ老いた身で魔王を倒した勇者が。そう、その一人だけ、最期がはっきりしている。いや、最期というか、その行く末がだ」
「ほう?」
老人の目が、鋭く光る。それはどう見ても、紅雪草に囚われてしまった老人の物ではない。
ディルクは、アマデウス・ヴェスティンの『古今伝説集成』のページを捲る。
そして、第二章が始まるところを開いた。
「初代勇者、老賢者エンピレオ――――。三度も魔王を打ち倒した、伝説の英雄だ。…………実在するとは思わなかったけどな」
「――――ふ、ご明察だ」
『古今伝説集成』の第二章のタイトルは、「勇者エンピレオ」だ。そして彼は、三度魔王を打ち倒した後、自らの魔法で不死になったと書かれている。
他の勇者は、伝説上にしろ歴史上にしろ、その最期は曖昧だ。だが、彼だけははっきりと、不死になった、と記されているのだ。
無論、勇者エンピレオの話はあくまで伝説だ。それが正しいとは限らない。
「伝説じゃ、あんたは自らの魔法で不死になったわけだが――」
「無論違う。君の考えている通り、魔王を殺した者は、つまり勇者は、不死になる。それは正しい」
「…………それは何故だ?」
そこは、ディルクにもわからなかった。なぜ勇者が、魔王を殺した者が、死ねなくなるのか。
書物だけでは、それはわからない。エンピレオは、静かに言った。まるで、世界の秘密を話すかのように。
「恐らく、魔王の正体に答えが隠されていよう」
「魔王の正体、だって? 知ってるのか、永年の謎だろう?」
「これは私の勘でしかないが――。奴は、この世界の意志じゃないのかね。あるいは、世界の化身だ」
初代勇者、エンピレオのその言葉の意味が一瞬わからず、そして分かった後でも、ディルクは呆然とするしかなかった。
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