第9話 世界への祈り

『あなたがいつもなさるように、私たちをお守りください。

 家族をお守りください。

 隣人をお守りください。

 彼らのために、私をお守りください。

 そのために、私たちは祈りを捧げます。

 あなたという世界が健やかでありますように』


―――― 作者不詳 『エルデの詩篇』 第三十八篇より。





 それは八年ほど前のことだっただろうか。



 カンナラより北方、四方を森に囲まれた湖がある。そこは静謐な土地で、人も余り寄り付くことはない。

 森で迷った人間と、命知らずの無謀な人間が訪れるだけだ。


 ――――この辺りには、ユニコーンが棲み着いているらしい。


 強力な魔法と高い敏捷性を備えるユニコーンは、あるいはドラゴンに次いで恐ろしい魔物である、とさえ言われている。

 当然、そんな魔物から得られるアイテムは希少であり、高値がつく。

 サトヴァナは、それが目当てでこの地を訪れていた。探し物を求めて旅を続けるには費用がかかる。

 ただ単に旅をするだけでなく、時には金銭でそれらしき薬を買うことも多いのだ。金はあって悪いことはない。

 サトヴァナは剣の腕にそれなりの覚えがあるし、何より最悪の事態が訪れることはない。

 彼女は死ぬことのない女だからだ。むしろ、最悪の事態を望んでさえいる。


 そして、ユニコーンを探しているうちに、それを見つけた。



 湖畔にうつ伏せで倒れている男。訝しんでサトヴァナが近寄ると、男の背中には大きな傷口が開いていた。

 まるで、鋭い槍で貫かれたかのような。


「おい、大丈夫か。しっかりしろ!」


 男はかすかに顔を上げた。まだかろうじて息はある。そこで、サトヴァナはその顔に見覚えがあることに気がついた。


「お前は、カンナラの薬屋の――――」


 男は、口から血を吹き出しながら、苦しげに言葉を吐き出す。


「――つ、角が、…………娘が、病気なんだ」


「なんだって、あの子が? ――――いや、今はあんたの怪我が先だ」


「――――妻に先立たれて、……一人で育てた、娘が」


「おい、もう喋るな。傷に障るぞ!」


「……俺は、助からない。――レネを、……あと少しだったんだ――――。頼む、……ユニコーンの、角を――――」


 しばらく逡巡して、サトヴァナは懐から小さな丸薬を取り出す。彼女が常用しているものだ。


「口を開けろ。ちっとはマシになる」


 弱々しく開いた男の口に、サトヴァナは何粒か丸薬を放り込んだ。乾燥させた紅雪草の粉末を、水で練って固めたものだ。

 こうすると、普通に紅雪草を摂取するよりも、より強い鎮痛作用が望めるようになる。副作用も、当然強くなるが。


「――――さて」


 サトヴァナは、男を湖畔に横たえた。痛みを忘れたのか、表情は幾分落ち着いたように見える。ただ、ひどく青白いものだった。

 かなりの量の血液を失ったと見える。どうやら、腹側から角で突かれ、背中まで貫通したらしい。

 ユニコーンに角を使わせるだけでも、大したものだ。並の戦士では、ユニコーンの魔法で近づくことも出来ないのに。

 男の傍らには、ミスリルの大剣が落ちてある。ただの薬屋ではなかったのだ。一人前の、それも凄腕の剣士。

 サトヴァナは、その大剣を拾い上げる。かつて使っていた、アダマンタイトの大剣にも劣らない業物。流石にカンナラの街の男だ、良い物を持っている。


「狩りの時間だ、な」


 ユニコーンから得られるアイテムの中でも、角は特別価値のある代物だ。あらゆる病に効くとされるそれは、目玉が飛び出るような値段がつく。イリストーンと並び称される妙薬だ。

 もちろん、普通の薬屋が手にすることはほとんど不可能と言っていい物だ。


 ――――もっとも、不死という症状を治すことは出来なかったから、万病の霊薬とは呼べないかもしれない。





「失礼するよ」


「お、なんだ、あんたか。この前に来たばかりなのにどうした? 忘れ物でもしたのか?」


 エクヴィルツ薬草店を、サトヴァナは訪れていた。表面上はディルクも何もないように振舞っているが、目に力がない。


 レネの病で、気が滅入っているのだろうことは容易に想像できる。


「渡したいものがあってな」


 サトヴァナは背嚢からそれを取り出した。槍か牙のように鋭く、直線的な角。こんな角を持つ生き物は、他にいない。


「ユニコーンの角!?」


「君の妹が、これを必要としているんだろう?」


「あ、ああ。――――どうしてそれを?」


「…………旅先で君のお父さんに出会って、これを託された」


「親父はどうしているんだ?」


 その角が、君たちのお父さんを殺したんだとは、どうしても言えなかった。


「怪我をしていてな、とても自分では帰れないからと私にこれを託したんだ」


「――――そうか。とにかく礼を言うよ。……すぐに粉末にして、レネに飲ませてやらないとな」


 ディルクはそれ以上何も言わなかったが、なかなかに聡い子だったから、察してしまっていたのかもしれない。



 こうして、レネが回復しても彼らの父親は戻らず、行方不明となった――――。





 そして時は流れて、現在。魔王が復活して、そろそろ一年が過ぎようとしていた。


「おや、彼女は何をしているのかな?」


「朝のお祈りさ」


 カンナラの街に居着いた学者兼竜使い、アンジェリカは、訪れたエクヴィルツ薬草店でレネの奇妙な姿を目にした。

 レネは跪いて、両手を組んで目を閉じ、何かに祈っていた。


 祈っている先は、商品棚。より正確に言えば、小さなガラス瓶だった。


「私に売りつけようとしたユニコーンの角の粉末じゃないか。一体何を祈っているんだい?」


 アンジェリカは小声でディルクに問いかけた。お祈りを邪魔しては悪いと思ったのだろう。


「親父の無事さ。そうだ、後はフリッツの無事も含まれているかな」


「フリッツ? ああ、ガンツさんのところのお孫さんだったね。魔王退治の旅に出ているんだろう?」


「そうそう。仲が良かったからな」


「…………そう言えば、君たちの両親の姿を見かけたことがなかったのだけれど」


 アンジェリカは、これまで遠慮して訊いていなかったことを口にした。彼女もこの街に来て半年近く。ディルクたちとも相応に打ち解けていた。


「ああ、母さんの方はレネを産んですぐに死んじまった。体が弱かったからな、剣士だった親父が薬草に詳しくなって、ついにはこんな店を開いたのも、母さんの病弱が原因らしいぜ」


「そうだったのか…………」


「親父の方はといえば、レネが病に倒れた時、ユニコーンの角を探すと言って出て行ってな。しばらくしてユニコーンの角が送り付けられて来て以来、それっきりだ。ユニコーンと一戦交えた時に、怪我をしたらしいとは聞いたんだが――――」


「あれがそうなのかい? 君、私にあれを売るつもりは最初からなかっただろう?」


「いいや、あんたが今にも死にそうな病人なら売ってやったさ。ただあれには願掛けがあってね、あれが売れない限り、親父はどこかで生きてるんだってさ。ガキの頃のレネが決めたことだ」


「そうか。…………いつか、無事に帰ってくるといいね」


「ああ、そうだな」


 やがて、レネは祈りを終えたのか、立ち上がって膝を払った。


「二人とも、何を話していたの?」


「ああ、ちょっとね。最近、うちのドラゴンの様子がおかしいんで、何かいい薬はないかと相談していたんだよ」


「流石にドラゴンは専門外だぜ……。人間の薬でも効くのか?」


 二人のやり取りを少々訝しげに見ながらも、レネは気にしないことに決めたらしい。


「ふうん? まあいいや。じゃあ私は薬の配達に行くから」


「気をつけてな」


「はあい。行ってきます」


 レネはいつも使っている肩掛け鞄を手に取ると、駆け出すように去っていった。まずはガンツのところからだ。腰痛の薬を届け無くてはならない。

 そんな彼女を見送って、アンジェリカはしみじみと言う。


「いい子だね、彼女は」


「あいつは両親がいなくなったのは少なからず自分のせいだと思ってるからな、そりゃいい子に育つわ」


「なるほど。悲しいね」


 アンジェリカは独り言のようにぽつりと呟いた。ディルクも何も言わない。

 少しの沈黙の後、アンジェリカが口を開く。打って変わった明るい口調になるように意識して。


「そうそう、うちのドラゴンの様子がおかしいというのは本当なんだ。何かドラゴンにも効くようないい薬はないかい?」


「さっきも言ったろ、ドラゴンは専門外だ。あんたの方が詳しいんじゃないのか、アンジェリカ」


「いや、私も初めてのことで戸惑っているんだ。どこか痛めた、というわけでも無さそうなんだけれど」


「無理やり同族と戦わさせられて、精神が参ってるんじゃないのか?」


「ああ、なるほど――――。そうかもしれない、少し気をつけてみるよ」


 お邪魔したね、と言い残して、アンジェリカは去った。彼女の鳴らす扉の鈴は、なぜか心地いい。

 嫌な客の時は、それ相応の鳴り方をするものだ。単に、ディルクの心持ちの違いが反映されているだけかもしれないけれど。

 もしも父親が帰ってきたとしたら、一体どんな音を奏でるだろう、とディルクは想像を巡らせる。


きっと、心弾む音色に違いない。


「…………ま、そこまでは望んじゃいないさ。せいぜい見守っててくれよ。天国からだろうがどっかの街のベッドの上からだろうが、どこでもいいからさ」


 そんなことを、ディルクは小さなガラス瓶に向けて語ったのだった。

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