第7話 幻の刃紋(前編)
『世界信仰は、特に大陸の東方でよく見られる信仰のあり方である。世界そのものを一つの人格とみなして、信仰の対象としているのが最大の特徴とされる。
特定の祭祀階級を置かず、教義や儀礼もほとんど統一されていないため、宗教というよりも信仰と称したほうが実態に沿っているだろう。
そのため、社会に直接与える影響は大きくないが、東方の人々の中には今なお根強く信奉している者も多い。
その起源は非常に古いものと見られており、特定の教典などは持たないが、いくつかの古い詩歌集が祈りの際に使われている』
――――アリアス・フォシェル他 『エミレア万物事典』 「世界信仰」の項より抜粋。
*
「なあフリッツ、一つ言わせてもらっていいか」
荷馬車の手綱を握るフリッツの膝の上で、白い小さな魔物、の姿をしているリントが言った。
荷台では、麻袋の山に埋もれるようにしてシーラが眠っている。御者台は揺れるしうるさいしで、まだ荷台の方がましらしい。
「なんだ? なんでも言ってくれ。あんたは俺の剣の指南役だしな、大抵のことは聞いてやるぜ」
「……明らかに道を間違えたと思うんだが」
「そうか? いい景色じゃないか。間違ってはいないと思うぞ」
「間違ってるんだよ! さっきから草原と森しかねーぞ! 今頃は次の街に着いてるはずなんだよ! 日が暮れる前に着かなきゃまた野宿だぞ! ったく、夜は冷えるってのに」
リントがグチグチ言っているのを見下ろして、何事もないようにフリッツは言う。
「街ならもう見えてるじゃないか、ほら」
フリッツが指し示した先には、丸太を組んで作られたらしい古ぼけた家が小さく見える。
「明らかに一軒家じゃねーか! どこが街だ!」
ぎゃあぎゃあとリントが喚いていると、後ろからにゅっと手が伸びてきて、長い特徴的な両耳を鷲掴みにした。シーラだ。喋り声がうるさくて起きたらしい。
無表情といえば無表情だが、リントにはわかる。明らかに機嫌が悪い。なにせ、両耳が握りつぶされようとしているのだから。
「いでててて! 悪かった、黙るって! ……まあ、もうしょうがない。今日はあそこに泊めてもらうか。道も聞けるかもしれねーしな」
リントの言葉に、フリッツも頷いた。シーラはリントの両耳にかけていた力を、ほんのちょっと緩める。
*
荷馬車を適当なところに止めて、馬をつないだ後、フリッツは丸太小屋の扉を軽快に叩いた。一応、剣も携えていた。
「誰か居ませんかー」
反応はない。躊躇うことなく、フリッツは扉を開けた。
丸太小屋の中は、いくつかの雑貨と、小さな食卓、それから暖炉と竈くらいしか目立ったものはない。後は、奥の方にいくつかの短剣が掛けられてあるのが見える。
「ふむ、暖炉が使われた形跡があるから、無人の廃屋ってことはないな。留守か」
リントはそう言う。シーラは興味無さげに戸口に立っていた。
「おや、誰かの」
声はそのシーラの背後からだった。フリッツが振り向くと、そこには老婆がいた。彼の祖父のガンツよりも、かなり年を重ねていそうだ。随分と腰を曲げているが、杖もなしで立っている。
背中には薪を背負っていたらしく、丁度それを下ろしたところだ。
「おお、婆さん、あんたがこの家の主か。実は道に迷ってな。一晩宿を貸して欲しいんだが」
リントが言うと、老婆は怪訝そうに白い眉をひそめる。
「…………とうとうわしの耳もおかしくなったか、幻聴が聞こえるのう。魔物が喋るとは…………」
「幻聴じゃねーよ! 今はわけあってこんな姿をしているが、元は騎士だ! 今は魔王を倒すための旅をしている」
「魔王を倒す、じゃて? あんたらでか?」
老婆はさらに怪訝な顔つきになった。当然といえば当然だ。一人前になったばかりの若造と、小さな少女、それから奇妙な喋る魔物。このパーティで魔王に挑もうというのだ、疑う方が普通だ。
しかし、老婆はフリッツが腰に差している剣を見て、やや顔色を変えた。鞘に収まったままの逸品は、フリッツの動きに合わせてわずかに音を立てる。
「魔王を倒すなんて信じられねーか? なら、信じさせてやろう。シーラ、一発魔法を見せて――」
「いや、その必要はないぞ。そこの坊主の提げておる剣を見て、合点がいった。その業物は魔王を倒すにこそ相応しかろう」
「お、爺ちゃんの剣の良さがわかるのか!」
嬉しそうに言ったのはもちろんフリッツ。単純といえば単純だが、身内の仕事を褒められては、老婆に悪感情を抱くほうが難しい。
「うむ、鞘越しでも良く鍛えられておるのがわかるほどじゃ。さぞかし腕の立つ職人じゃろう。――――ま、わしの次にじゃけどな」
「なんだと?」
「なんだって?」
リントとフリッツの言葉が重なる。老婆は歯抜けの口をにいっと開けて笑った。フリッツの老婆に対する評価が反転する。
「わしは鍛冶職人じゃ。剣の良し悪しなんぞ、手に取るようにわかるわい。その剣も立派なもんじゃが、わしのには及ばんて」
かかか、という老婆の笑い声。フリッツにはそれが、祖父を馬鹿にしているように聞こえるのだった。
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