6章 雨の降る家――雨晒しの猫。(後)
目が覚める。目を開ける。
そこにはいつも通り雨でも降っていそうな、見慣れた天井が映る。
夢を見た。
何の意味もないただの
「…………お風呂入りたい」
体中が寝汗でキモチワルイ。しかし、寝起きなのと夢見が悪かったのも相まって、起き上がる気力がわかない。何をする気も起きない。
引きこもって一週間、その間花の女子中学生が――というか女子として――やるべき諸々を怠っているので、今現在の猫野珠の状況はちょっと女子として危険な域に達していた。
しかしやる気が起きない。起き上がりたくない。
こんな状況では人に会うことはできないし、まかり間違って人海空にでも会ったらきっと、羞恥のあまり目つぶしくらいはしてしまいそうだ。
(――なんて、先輩が来るわけないのにね)
来る者拒まず去る者追わず。
人海はきっと否定するだろうが、それでも猫野は人海空をそういう人間だと思っている。厄介ごとを持ち込んでも受け入れてくれる――ただし、助けてくれない。辛いとき、逃げ出したとき彼が現れることはない。だから今自分のもとに現れることはない。
少なくとも猫野珠はそう思っているし、それは概ね正しい。事実人海空は今日まで猫野珠の元に来なかったし興味も無かった。
だが、それは――
「おい! クソガキ! 居るんだろ! 出て来なくてもいいから返事しろッ!」
人海空が何も知らなかったらだ。
「ひゃいっ!?」
変な声が出た。
今さっきありえないと切り捨てた予想が音を鳴らして転がって来た。
「お、居るな。まったくメンドクサイことに巻き込みやがって……、俺はめんどうなのは嫌いなんだよ」
「え……? えッ!?」
これは夢だろうか? だとしたらなんて悪い夢なんだろう……できることなら覚めたくない。だってそうだろう? 傷ついて蹲っているときに呼んでもいないのに助けが現れる、そんな都合がいい事なんてありえない。それも、人海空が来るなんてありえない。
これならまだ、気まぐれを起こした『名探偵』が来る方が現実的だ。
「せ、先輩っ!? なんで先輩が……!?」
だから訊く、なんでどうして、と縋る様にあるいは突き放すように。
「なんでって、おまえに文句言いいに来たに決まってるだろ?」
「え……? も、文句……?」
なにか怒られるようなことをしただろうか?
人海は
だから、本気で訳が分からない。
「おまえの家庭のことも聞いたし、今お前がなんで引きこもったのかも聞いた。まったくめんどくせぇ」
それはそうだ、猫野珠は人海空に何も話していない。自分の知らないところで自分の事情を洗いざらい話されているなんて、わかるはずもない。
人海空は詮索しない。だからありのままそのままを受け入れてくれる、そんな都合のいい存在、その前提が崩れた。
「い、いつから……?」
どうしてなんて、重要じゃない。重要なのは、いつから知っていたか。
「ああ? いつからって……忘れた。てかそんなのはどうでもいいんだよ。お前の事情は確かに知ったけど、んなもんに興味なんかない」
「…………」
いつもの人海空だ。どうしようもないヒトデナシのままだ。
ことここに来て、ようやく猫野珠は悟る。助けに現れたわけでは無いと。
というか、それなら何でここに来たんだと言いたくなった。
「それでも……知ってしまったらしょうがないだろ? 勝手に巻き込んで勝手にいなくなろうとしてるんだ、そりゃ文句の一つや二つ言いたくなるだろ」
「…………は?」
何を言われたのか理解できない。そもそも巻き込んでなんかない。それがいやだから何も話さなかったのだから。
だが、巻き込む巻き込まないの話を言うのなら、それは間違いだ――いや、手遅れだと言うべきかもしれない。
なぜなら、
「おまえ、何も話さなければ巻き込んでないとか思ってるだろ? それは違う。おまえが俺の家に屋根借りに来たときに俺はもう巻き込まれてるんだよ。だっておまえ自分の『事情』が原因で俺ん家に来たんだろ?」
家からの一時凌ぎ、言うなればそれは雨宿りのようなもの。連日逃げ場所に使われればそれは巻き込まれたも同然だ。
「あ……」
つまりそれは当たり前のことを見落としていただけ、ただ都合よく何も話さず利用する。そんなことが、本当に都合よくいくなんてことがあるわけない。まして、そんなことをしておいて、巻き込んでいないなどと、言えるわけがない。
「おまえの事情なんて興味ない。知りたくもない。でも……知ってしまったならしょうがないだろ? 俺だって人間だ、知ったことに何も思わないわけじゃない」
人海空は『興味』が無いだけで、『関心』はある。
「じゃあ今から文句言うからな! 黙って聞いてろ」
(……ああ、先輩だ。このどうしようもない感じまさしく先輩だ)
そう納得しつつも傷心の女の子にそんなこと言うのはどうなんだろうと思う。不幸な目に遭っているのだから、もっと甘やかしてくれてもいいのではないかとそう思う。
「おまえ何で引きこもてるんだ? バカなのか?」
「………………」
本当にもっと言葉を選んでくれないものか……、そんなことは高望みだと分かっていても、そう思ってしまう。
(もう帰ってくれないかな……)
人海空にとってそれらもろもろの反応なんてどうでもよかった。そばで聞いてる猫野充と、扉の向こうに居る猫野珠。そのどちらがどう思っているかなんて、興味ない。自分がただ気に入らないから、文句を言いたいから来ただけ。
自分勝手で自己満足。
相手に対しての言葉なのに相手を見ていない。文句を言ったそこから先など、考えてもいない。だからこそ、人海の言葉に嘘はない。自分自身が感じたこと思ったことを、そのままにぶつけてくる。
「おまえ、家に居るのがツライんだろ? だからよく知りもしない男の家に危険を承知でやってきたんだろ? 俺の家を逃げ場所に選んだんだろ? ……なんで家に引きこもってんだよ。おまえそれじゃあ意味ないだろ。おまえのその行動は練炭を炊いた部屋に居るのと変わらないんだぞ」
(勝手なこと言って……っ)
イラつく、だがそれ以上に何も言えない。言われたことは、全部その通りだからだ。『
(そんなこと、分かってる……)
分かっている。
分かっているけど……猫野珠はこうするしかなかった。どんなに嫌でも辛くても、ここは猫野珠『家』なおだから。ただの女子中学生が単身家をでて無事生きていけるなんて思う程、猫野珠は世の中を信じていない。だからこうするしかなかった。
皮肉にも猫野珠が、苦しいと悲しいと存分に蹲れるところはここしか無かったのだ。
「おまえ家から逃げてるだろ」
(……だから何?)
逃げている。それのどこが悪い。
世の中の
猫野珠は思う自分はそう思えないと。
だから、人海空から”逃げている”そう言われたとき怒りよりも諦めが先に来た。結局、この人も同じなのかと――、
「なら何で俺の家に来ないんだ?」
「――え……?」
でもソレは早計だ。
来る者拒まず去る者追わず。
猫野珠は人海空をそういう人間だと思っている。ならば、人海空の元に逃げ込んだとしてソレを人海空は拒むだろうか? いや、拒まない。そこで拒むのなら既に――猫野充から話を聞いたときに――猫野珠を見捨てている。人海空は猫野珠が家に来ることを拒んだことは、最初の一回以外ないのだ。
「俺の家はお前にとって逃げ場所なんだろ? 逃げる場所があるのに何でお前は引きこもってるんだよ。逃げるっていうなら最後まで、何が何でも逃げて見せろよ」
「……で、でも……だって……わ、私は――」
「うるせぇ! でもも何もねぇんだよ! おまえが俺を信じてないことくらい知ってる。でもそれがどうした? お前はそれでも逃げてきたんだろうが。おまえ、逃げることを甘く見てるだろ? 『逃げる』ていうのは難しいんだぜ? 普通に戦うよりもよっぽど難しい。だから、
「――――」
衝撃だった。
猫野珠はあの日――オムライス食べてくれたあの土曜日――人海空を『信頼』すると決めたんだ。傘を渡すと、そう決めたはずなんだ。
なのに――、
(――私はなんで先輩の家に逃げなかったの?)
――結局猫野珠は人海空を信頼していなかった? その証拠に猫野珠は人海空の家に逃げず、それどころか自分の事情を一切話す気がなかった。ソレはつまり一方的に人海空を利用しようとしていたのではないか?
(私は……私……は……)
ソレは、その行いは、自身の『
――カチリッ。
と時計の音がなった気がした。
「ぁ……――」
目の前が暗くなる。自分がやっていたことに心が削られる。
「嫌なら、嫌な場所に居なくたっていいんだよ。逃げろよ、甘えんな」
何よりも辛いのが、そんな自分を人海空はそのまま受け入れてくれることだった。それも当然だ。なにせ、
「――――」
猫野珠はここに来て、ここまで来てようやく『
「逃げることの意味を履き違えたまま蹲ってるお前はただの馬鹿だ」
「馬鹿…………」
そうかも知れないと思う。なにせ、今の今まで『
ああ――本当に救えない。
「なぁおい女子中学生――いや、珠」
「……ぁ」
だって初めて名前を呼んでもらえて、ただそれだけで嬉しいのだ。どうしようもない関わるべきでないヒトデナシに名前を呼ばれて嬉しいのだ。
人海空もソレを知っているはずだ。自分でさっき何で引きこもったかを聞いたと言っていた。誰から聞いたのか猫野珠は知らないが、人海空にはあの『名探偵』がいる。なにを聞かされたとしても不思議ではない。
だから人海空は、猫野珠が自分の母親に悪ふざけで名前を付けたと聞かされたことを知っている。
猫野珠。読み方は、ねこのたま。
このできすぎなくらいの名前、冗談のような本名。珠という名前だけなら別にさほどおかしくはないだろうが、猫野という苗字を着けるだけで途端に冗談じみた名前になる。
所謂キラキラネーム。
猫野珠はこの名前を嫌なものだと思ったことはない。散々からかわれたが、それでもこの名前を嫌だと思ったことはなかった。その理由はは親からもらったモノだからだというのもあるが――小学六年生のあの日までは正しくその理由だった――だがそれだけじゃない。猫野珠という名前は当たり前だが自分自身の事だからだ。誰でもいい、誰でもないダレカではなく『猫野珠』という立派な個人を表すモノだから。
望まれて生まれなかった『
しかし、ソレも崩された。
人海空の家に泊まったことが『
怒られた。
どこの家でもするように、まるでそのまま母親のように『
「アンタの名前はただの悪ふざけなのよ。キラキラネームってあるっじゃない? アレを見るたびに思ってたのよ”この名前を付けたら学校で虐められると考えなかったのか”てね。だからアンタ『たま』って付けたのよ。勝手にできちゃったアンタにはせめて、虐められたりして私を楽しませてもらおうと思ってね。アンタの名前はだからただの悪ふざけよ、面白いからそう付けただけよ。アンタも私みたいに望まない子供作りたくないでしょ? だから男の家に入り浸るのはやめときなさいよ」
はっきりとは覚えていない、だがそういう風な事を言われたのは覚えている。
そうして、猫野珠は引きこもった。削られた心に積もり積もったモノがこの出来事を切っ掛けにして猫野珠を押しつぶした。
ひっそりとこのまま消えてしまいたかった。どうせ誰も『私』を見ていない。だからこのまま消えてなくなってしまいたい。
そう思っていた。
「珠がこの先どうしようが俺には興味ない。でも俺はお前とゲームするのは結構気に入ってたし、珠と話すのも楽しかった。だから家に来たければいつでも来い。引きこもっていたければ、引きこもっていればいい好きにしろ。珠がしたいようにすればいい」
人海空はとてもひどいニンゲンだ。どうしようもないヒトデナシだと――珠もそう思う。関わった人間は皆嫌な思いをする。それもそうだろう、事実珠も今の気分は最悪だ。
それでも――人海空は見てくれる。
そのままありのまま、どんな選択でも見てくれる、『関心』を持ってくれる。そのまま個人を承認する。
『興味』が無い人海空はそうすることしかできない。
ああ――なんて最悪なニンゲンだろう。
だからこの時、珠は確信した。
最悪だから信頼できると。
他の何かを信頼できずとも『人海空』のその最悪さは絶対だ。だからこそ信頼できる。
珠の今の心境は言ってみれば悪魔に魅入っているのと変わらない。それでも、珠にとってソレは確かに救いだった。
3
「じゃあ俺はもう帰るからな。――ああ最後に一つ言い忘れてた。今まで本当にお前に味方はいなかったのか、この雨の降る家に傘は一つもなかったのか、よく考えてみろ。……じゃあな」
「傘……? えっていうか先輩帰るの!?」
意味が分からない。というか勝手に怒って怒鳴って言いたいことだけ言って本当に帰ってしまった。
まるで意味が分からない。それにある意味救われてしまった珠が言えたことではないかも知れないが、本当に文句を言いに来ただけとか一体どういう神経しているんだろうか。
「えぇ……。こういうのってさ、もっとこう……ねぇ……? あるものなんじゃ……」
無い。現実はラブロマンスみたいにはいかないのだ。
そもそも人海空にそういうモノを求めるのが間違いだろう。言っていたとおり、珠がこの先どうしようが人海空に興味はない。
「…………なんか引きこもってるのがバカらしく思えてきた。なんで私此処に居るんだろう?」
女子として疎かにしていた諸々をどうにかしようと立ち上がる。とりあえずはお風呂に入るべきだろう。そして、それから荷物を纏めなければ。
一度信頼してしまえばもう躊躇はない。そもそも、もう何もかも知られてしまっているのだ遠慮はいらない。
「それに、よく考えたら私先輩に、ご飯作ってあげたりとかいろいろしてあげてたしね」
一方的に利用してたとしても、それなりの対価は払っているのだ。料理の他にも制服着崩したりとか裸Yシャツとかいろいろしている。女子中学生(そこそこかわいい)がこうしていろいろしてあげているのだから、自分が重荷に思う必要はない。むしろ感謝されてもいいぐらいだ。
「明日から忙しくなるなぁ……」
「出てきてくれたのは嬉しいけど……男の趣味は考え直したほうがいいんじゃないか?」
「ッ!」
油断した。気を抜いていた。まさかここに『■《あに》』が居るとは思ってなかった。
「そんな睨むなよ。お前には悪いと思ってるし……今さらそう簡単に信じてもらえるとも思ってない。――でも俺はお前と家族になりたいんだ」
「………………」
何を言っているのか分からなかった。
「俺はおまえとずっと家族にそして兄妹になりたかった」
「………………」
意味が分からない。
「――だから話しをしよう。なんでも話そうなんでも話してくれ」
「………………」
訳が分からない。
「といあえずだ。まず俺がどれだけおまえの――珠の事が好きかを話そうと思う。その無表情ながらも感情表現豊かなのが実に愛らしい……。そうっそのジト目いいよ!」
「………………」
いや、本当にちょっと何を言っているだコイツ。
「まぁ、こんなくだらない事でもなんでも話そうじゃないか。珠が俺をどう思っていたか、俺が珠をどう思っていたか、その全てを話そう」
「――――」
ソレはずっと聞きたかったこと。でもソレは――、
「――遅いのは分かってる。それでも俺は話したい。その結果珠が俺を許せないならそれでもいい、いや良くないけど、俺はお前に許してもらうためになんでもするけど。お兄ちゃん珠のこと大好きだからな」
(私……こんな兄を望んでたの……?)
いや、ソレはないと言い切れる。こんなちょっとキモイ兄が欲しかったわけじゃない。
「さっきも言ったけどでもこれだけは何度でも言わせてくれ。…………男の趣味は考え直した方がいいんじゃないか?」
「……それは自覚してる。放っといて」
「――ははっ」
それから久しぶりに家族、兄と――話をした。
雨は止まない。
雨の音は絶えない。
それでも――猫野は冷たさを感じなかった。
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