6章 雨の降る家――雨晒しの猫。(前)

 



 猫野珠はあの日・・・から一歩も家の外に出ていなかった。

 ずっと自分の部屋の中で蹲り目を閉じて耳を塞いで動かない。彼女が閉じ籠ったのは部屋でなく、あるいは自分自身なのかもしれない。

 逃げることすらやめ、ただ息をして生きているだけのモノ。誰にも気にされず誰も気にしないその姿は、まるで路傍の石ころだ。あるいは今わの際の猫だろうか? 生きていても生きることをやめようとして、ひっそりと誰にも悟られることなく消えようとしているモノ。

 どちらにせよ共通してるのは『気づかれない』ということ。

 興味も関心も抱かれない。

 無為で無作為で無意味な存在。

 しかし猫野珠はそれで構わなかった。自分だからでなく『娘』だからという理由だけで、世間体の秤という理由だけで、目を向けられるのが嫌だった。関心も興味無いくせに、親の役割だけを演じる大根役者たちに役を押し付けられるのは我慢ならなかった。あの人達が欲しいのは自分ではなく人形だ。面倒ごとを起こさず『娘』という服を着て動く『お人形』、ならば自我も個性も必要ない。

 『猫野珠』なんていう『人間』は必要が無い。

 でも、それでも『猫野珠』はここに居て、猫野珠は人間だ。

(どうして……。どうしてだろう……?)

 人間であり、人形でない彼女が時折泡のように浮かべる思考はいつも同じ結論に達してはじけて消える。そして、どうしようもない倦怠感に襲われ、目をつぶる。

 どうして?

 どうして?

 どうして私の家は普通じゃないの?

 どうして?

 どうして?

 どうして家族になってくれないの?

 どうして?

 どうして?

 どうして私はこんなに苦しいの?

(――そんなもの決まってる。最初からそうだっただけ)

 生まれた時からそうだった。物心ついたときにはもう終わっていた。ソレを理解せず駄々をこねて反逆し足掻いた結果が今のここ・・というだけ。

(だからもう寝よう……。なにもかもめんどくさい……どうでもいい)

 そうして彼女は夢を見る。自らの過去に回帰する。ソレは当然悪夢であるため逃避にはならないというのに、少女は諦念と共に眠りについた。



 1



 物心つく頃にはもう終わっていた。

 すでに『家族』というモノはただのハリボテで形取り繕ってある『家庭』という舞台を演じているだけ。しかも役者たちは全員大根役者ときているから、それはもう見向きもされないような舞台だっただろう。

 役者は当然その役になりきらねばならない。『母』なら『母』の『父』なら『父』の、それぞれの役になりきらねばならないにもかかわず、この役者たちにはその役に対する情がなかった。

 気持ちの入っていない演技しかできない役者など、大根役者もいいところだろう。

 そしてそんな家に生まれてしまった猫野珠と猫野充は生まれた時から大根役者になるように強要された。猫野充はまだよかった……いや、本当に良かったのかどうかはともかく猫野充には素質があった。形だけを演じることを辛いと思う心が無かった。だが、猫野珠はには素質が無かった。彼女には形だけの『家族』だとしても愛したいという心があり、『家族』から愛されたいという願いがあった。『役』ではなく本当の娘として生きて行こうとした。

 それはなにも特別なことでなく、ごく当然に生まれた無垢な子供が抱く感情と願い。

 つまり猫野珠という少女はただのどこにでもいる普通の子供だということ。

 ただそれだけ。

 ただそんな普通の子供であったからこそ、彼女にとってこの『家』はまるで止まない雨が降るように過酷な環境だった。作られた舞台は気持ち悪い程に巧妙で、役者が一人放棄したところでそれも演出の一つとして舞台に飲み込まれてしまった。

 どうあっても逃げられなくて。

 耐えるしかなかくて。

 まだ雨具があればよかっただろう。せめて足元を守る長靴だけだとしてもあったのならば、まだ違ったのかもしれない。だが彼女には何も無かった。傘も合羽もありはしない。

 そんな環境で生活していれば、雨にさらされる猫のように、冷たくなって動けなくなっていくのは想像に難くない。

 そして、そんな過酷な環境ぶたいを生き抜いていた彼女はそれでも『家族』を諦めていなかった。愛し愛される――仮に仲が多少悪かったとしても構わない――形だけでなくちゃんとが心通った、そんな普通の『家族』を諦めていなかった。

 たとえ父が浮気をしていて帰りが遅くても。

 たとえ母が浮気をしていて家事を疎かにしていても。

 たとえ兄が『家族』に関心が無くとも。

 それでも諦めていなかった。いつか心通った『家族』になれると、してみせると夢を見て努力をしていた。その結果たとえ『家庭』が崩壊してもかまわない、一瞬だけでも家族でいたかった。

 母が疎かにしている家事を引き継ぎ、どんなに遅くても父を出迎え、兄に見向きをされずとも甘えた。

 普通の『家族』を目指して夢見て努力して実行した。

 


 しかし――夢は見るものであると同時にいつか覚めるモノだ。



 あの日――小学六年生の誕生日。

 猫野珠が生まれたその日。

 猫野珠は賭けに出た。耐えきれなかったと言ってもいい。

 そも彼女は特別精神力が強い訳では無い。小学生が家事をして夜遅くまで起きて、それでもまったく成果が目に見えないとなれば、焦ったとしても仕方がないだろう。少なくとも、自分のやっていることは間違っていないと確認したくなったとしても、それを短慮だと忍耐が無いと責めるのは間違いだ。なにせ彼女はただの女子小学生なのだから。

 その日猫野珠は『家族』全員に今日は、今日だけは早くちゃんと帰ってきてほしいと願った。ソレは誕生日を祝ってほしいという、単純で複雑な子供心もあったが、それよりも祝われるよりも、一緒に晩御飯を食べたいという方が強かった。

 今日くらいは家族でありたいと、これをきっかけに家族になりたいと、そう思って腕によりを掛けて猫野珠は料理を作った。

 献立はオムライス。

 自分が一番練習して一番美味しいと自信を持って言える料理。

 猫野珠が一番好きな料理。

 会心の出来ともいえるソレを作り終え、猫野珠は待っていた。

 日が沈み月が上がり日付が変わろうとも待っていた。

 オムライスに一口もつけず、寝るまではまだ”その日”は終わっていないと自分を偽りながら、信じて信頼して待っていた。

 なにをどう信じているのか……自分でも曖昧なまま、子供のように大人しく待っていた。

 カチリ。

 カチリ。

 カチリ。

 時計の針が一秒時を削ると同時に心の中のナニカも削られていく。

(何、してるんだろう……)

 削られた箇所を埋める様に疑問と諦念が湧いてくる。

 ソレは希望という名のユメの残骸だ。時計が進むたびに生み出されたモノ、あるいは残りカス。

 不満不安不信――それが諦念に変わる。

 もうだめだ。結局何をしても無駄だったんだ。

 何もかもを諦めて、もうやめようとオムライスを処分しようとした――その時。

 ガチャッ。

「ッ!」

 時計ではない、別の音が響いた。

 心臓が期待によって跳ね、そのままはじける様にして玄関へと向かう。

 そこに誰が居るかなんて考えなかった。誰でもよかった『家族』であるならば誰でもよかった。一人ではなくなるらば、独りで泣くくらいならばどうでもよかった。

「おかえりなさいっ」

「……まだ起きていたのか? 明日も学校だろう早く寝なさい」

 逸る気持ちのまま告げた出迎えは、帰って来た『父』によってにべもなく『正論』によって返された。

「うん。もうちょっとしたら寝るけど……それより、お父さんお腹すいてない? 晩御飯で来てるけど食べない?」

 そんなのはいつもの事なので、猫野珠もめげない。返し方も心得ている、そんな『正論モノ》さらりと流してしまえばいい。どうせ・・・本気で・・・言っていない・・・・・・

「外でもう食べてきたからいらないよ」

「…………。そ、それでもっ! その……せっかく、作ったんだし一口だけでもいいから食べてほしい……んだけど……」

 懇願するようにすがるように、あるいは諦めたように、言葉少なに言外に”誕生日なんだから”と訴えながら言った。

「…………」

 『父』は押し黙る、めんどくさそうに、うっとうしそうに。

「……ダメェ?」

 表情が変わらないのなら、せめて声だけでもとそう思いダメ元で、慣れないネコナデ声を出しながら言ってみた。

「……はぁわかった一口だけな」

 はたして効果はあったのか『父』はそう言ってくれた。だがしかし、どういう思いで『父』が『娘』の甘えを聞いたのか? どう効果を及ぼしたのか? そこを考えるとこの結果を諸手で喜んでいいのかと訊かれれば、おいそれと頷くことはできないだろう。

 なにせ、猫野珠が鳴いてみせた甘えを聞いた『父』はとても不愉快そうに顔を歪めたのだから。

「……うん。わがまま言ってごめんなさい。ありがとう」

 猫野珠はいっそう雨脚が強くなったように感じた。感じながらも止まない雨はないと、そう信じていた。誰にどう信じているのかそれを本当に信じているのか、それを見ないまま盲目的に信じていた。

「今日はオムライスだよ。腕によりを掛けた私の一番の自信作だよ」

 そう言って『父』をの手を引こうとして――やんわりと振り払われながら――案内した。

「…………」

 そして一口オムライスが食べられる。

 自分の自信――信頼を文字通りその身に受けた。

「どう……おいしい?」

 信じている。信じている。信じている。不安なんかない。だってこれは私が練習した一番の自信作なんだ……冷めてもなお美味しいように考えて作ってある。

 だから、大丈夫。

 そう思う。繰り返し繰り返し繰り返し。言い聞かせるように”大丈夫”だと”私は信じてる”と、そう思う。

 そして、

「……おいしいよ」

「……っ」

 そして、

「ただなぁ――」

「――ん? なに?」

 そして――、



「――おいしくても、作る相手によって満足するかどうかは別なんだなって思ってさ」



 少女は止まない雨を思い知る。

「え?」

 最初、猫野珠は何を言われたのか理解できなかった。いや、どういう意味なのか理解ができなかった。

 だからここで聞くのをやめておけばよかったのかもしれない。いやそもそも感想なんて訊かなければよかったのか、一口食べてもらえただけで良しとしていれば――少なくとも今日この日は耐え抜けたかもしれない。

いやなに・・・・今日友達の家で・・・・・・・オムライス・・・・・を食べた・・・・んだけどな・・・・・? そのオムライス・・・・・・・俺の友達・・・・の子供・・・――おまえの・・・・後輩のあの子・・・・・・が作った・・・・んだけどな・・・・・あの子が・・・・作った・・・オムライス・・・・・の方が・・・満足度・・・が高いなってさ・・・・・・・やっぱり・・・・味だけじゃ・・・・・ダメなんだなぁてさ・・・・・・・・・なんか・・・あの子が・・・・作ったやつ・・・・・の方が・・・毎日食べたい・・・・・・って思うんだ・・・・・・よなぁ・・・

 雨だ、雨の音が聞こえる。ソレは生まれて毎日聞いてきた日常の音だ。何も変わらないいつも通りの雑談、『父』が言ったのはそれ以上もそれ以下でもない。まるで絶望のようだ。

 ならばいつも聞いていた雨の音が絶望だとするならば、猫野珠はすなわち――。

(……ちがう)

 ちがう、何かの間違いだ。信じられない――ああそうだ何もかも信じられない。

 今『父』が言ったことは冗談だと思えないし真実ほんとうだと思いたくない。

 何もかも嘘だ。何もかもちがう。なにもかも信じられない信じたくない。

 ――信頼できない。

(――ちがう。ちがうちがう、ちがうッッ!!)

 何が違うのか? 何を誰をどこを違えているというのか?

 ソレを理解せず、ソレを考えず――猫野珠はただただ”ちがう”と言い募る。

「じゃあもういいよな俺は寝るから、おまえも早く寝なさい」

(―――――)

 思考がとまる。心が止まる。

 『ちち』の言葉と同時に――カチリッ――時計の音が削る。

「……うん。おやすみ」

 だから、表情が変わらないこの顔に猫野珠は感謝した。

 そうして、独りその場に残る。

 眠ることなく、時計の音に削られながら猫野珠はその場に留まった。

「――――」

 そして朝が来た。

 どこぞの誰かが希望の朝だと歌う……明日が来た。

 誕生日は終わった。

 『ちち』のあと誰も帰ってこない。

「――――」

 削られた頭と心で、学校に行くための支度をした。

 そして、ランドセルを背負って外に出る。外は快晴で雲一つない。

 なのに雨の音が聞こえる。いくら晴れようとも雨は上がらない。ずっと降っている。

「ああそうか――」

 太陽を浴び目を細めながら猫野珠は気づいた。目が覚める気持ちだった。

 寝起きのようにただひたすら憂鬱で気怠い。

「――無駄だったんだ」

 そして少女は猫野珠は――信じることをやめた。

 これは後で猫野珠が偶然知ったことだが、あの日『はは』浮気相手の家で一泊し『あに』はアルバイトに精を出していた。誰一人としてあの日が猫野珠の誕生日だと覚えていたものはおらず、当然猫野珠があの日何と言っていたかも覚えてもいなかった。

 

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